エルコレ1世・デステ

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エルコレ1世・デステ像、エステンセ美術館蔵

エルコレ1世・デステErcole I d'Este, 1431年10月26日 - 1505年6月15日)は、フェッラーラ公

ニッコロ3世・デステと3度目の妃リッチャルダ・ダ・サルッツォ(サルッツォ方伯トンマーゾ3世の娘)の子として生まれた。1445年から15年間、ナポリ王アルフォンゾの宮廷で教育を受けた。彼がルネサンス期の芸術の庇護者として知られるようになるのは、この時期の素養があるためと見られている。

異母兄ボルソ・デステには正妻も子もないため、後継者に指名されており、1471年に公位を継承した。1473年、エレオノーラ・ダラゴーナ(ナポリ王フェルディナンド1世の娘)と結婚。エステ家とナポリ王国との同盟が強固なものとなった。2人の間には6子が生まれた。

  • イザベッラ(1474年 - 1539年)
  • ベアトリーチェ(1475年 - 1497年)
  • アルフォンソ(1476年 - 1534年)
  • フェランテ(1477年 - 1540年) 1506年に兄アルフォンソによって投獄され、そこで34年後に死んだ
  • イッポーリト(1479年 - 1520年) 枢機卿であり軍司令官
  • シギスモンド(1480年 - 1524年)

また、2人の庶子がいた。

  • ルクレツィア
  • ジューリオ  1506年に兄アルフォンソによって投獄され、53年間をそこで過ごした。釈放後、彼は時代遅れの服を街頭で人々に嘲笑された。

1482年から1484年まで、彼は宿敵デッラ・ローヴェレ家ローマ教皇シクストゥス4世と同盟したヴェネツィア共和国と戦った。これはフェラーラ戦争イタリア語版英語版1482年 - 1484年)と呼ばれた。エルコレはバニョロの和議で戦いを終わらせ、フェラーラは教皇軍の情け容赦ない破壊の運命から逃れた。このため、1494年から1498年のイタリア戦争において、エルコレは中立を決め込み、教皇国との友好関係に努めた。彼は嫡子アルフォンソの妻にルクレツィア・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の娘)を迎えることに成功し、この結婚はおびただしい領土の寄進をもたらした。

エルコレがフランス系フランドル人の音楽家を大勢招聘したため、フェラーラは当代随一の音楽の都となった。アレクサンダー・アグリコラヤーコプ・オブレヒトハインリヒ・イザークアドリアン・ヴィラールトジョスカン・デ・プレらが知られる。彼は詩人ボイアールドを家臣とし、若い詩人ルドヴィーコ・アリオストに家令をさせた。市の城壁を建築家ビアジオ・ロセッティに命じて拡張させた。フェラーラの著名な建築物の多くは、エルコレの治世下につくられたものである。

エルコレは教会改革者ジローラモ・サヴォナローラの熱心な賞賛者であった。サヴォナローラはエルコレの霊的・政治的助言者となった。1490年代から2人の間には多くの書簡が交わされ、エルコレはフィレンツェの教会関係者に宛ててサヴォナローラを解放するよう働きかけている。しかしそれもむなしく、サヴォナローラは1498年に処刑された。

先代:
ボルソ・デステ
フェラーラ公
1471年 - 1505年
次代:
アルフォンソ1世・デステ