ハンス・ヨアヒム・マルセイユ

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ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
Hans-Joachim "Jochen" Marseille
Bundesarchiv Bild 146-2006-0122, Hans-Joachim Marseille.jpg
渾名 ヨッヘン(同僚から)、アフリカの星
生誕 1919年12月13日
ドイツ ベルリン
死没 1942年9月30日
エジプト エル・アラメイン近郊
所属組織 Balkenkreuz.svg ドイツ空軍
軍歴 1938–1942
最終階級 大尉
署名
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ハンス・ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユHans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille1919年12月13日 - 1942年9月30日)は第二次世界大戦アフリカ戦線で活躍したドイツ空軍エース・パイロット。“アフリカの星”Stern von Afrikaの通称で知られる。撃墜した158機は全て西側連合軍機である。乗機メッサーシュミットBf109F-4/Trop は英軍冬季攻勢(1941~42)以降“黄色の14”(第三中隊の14号機の意味)に搭乗した。最終階級は大尉

目次

経歴 [編集]

1919年ヴァイマル共和政下のベルリンに生まれる。父・ジークフリート(Siegfried Marseille)は第一次世界大戦にも従軍したドイツ陸軍の軍人であり、後に少将に昇進し、第二次世界大戦中の東部戦線において戦死している。マルセイユ家は、17世紀末ルイ14世が発したフォンテーヌブローの勅令による迫害から逃れてドイツ亡命した、フランス人ユグノー(新教徒)の末裔である。同じく姓がフランス系である空軍中将のアドルフ・ガーランドも同様の難民の末裔だった。

1938年11月にドイツ空軍に入隊。1940年8月から参加したバトル・オブ・ブリテンでは7機を撃墜する一方で、自らも6回撃墜された。1941年2月に第27戦闘航空団(JG27)へ転属し、同年4月、部隊とともに北アフリカ戦線へ進出した。それまでのマルセイユは軍紀違反などの素行不良で昇進が遅れていたが、アフリカへ転じた後は理解ある上官に恵まれたこともあって空戦技術の向上に開眼し、急速に撃墜スコアを伸ばした。このためエースとしての特典として特定機を選ぶ権利を得て、以後戦死まで中隊色「黄」(第三中隊)、機体番号「14」の「黄色14」に搭乗し、やがてこの機体が彼の栄光のシンボルとなる。1942年9月1日には1日に17機を撃墜し、同9月16日にはドイツ空軍最年少の大尉に昇進した。容貌が映画スターのように瀟洒であったこともあり、戦意高揚のためにゲッベルスによりドイツ全土で「アフリカの星」との名で戦功を報道され、多くのドイツ国民、とりわけ女性から憧れの目で見られ「砂漠の王子様」で彼の元に手紙は届いた。

昇進から約半月後の9月30日、受領して間もない新型機Bf109G-2/Tropのエンジンの故障。ベイル・アウトに失敗して戦死した。マルセイユは同9月2日にダイヤモンド剣付柏葉騎士鉄十字章授与が決定していたが、この勲章はヒトラーが直接授与する決まりであるため、生前に受け取ることはできなかった。兄の証言では、死後も勲章を渡されることがなかったという。

マルセイユの死後、戦友たちはピラミッド状の墓を造ったが、これはクフ王のピラミッドで欠損している頂上部分と同じサイズで作られた。ベルリンのドイツ空軍博物館には、日本人の戦史研究家、笠原明知が寄贈したマルセイユの墓の写真が飾られている。

戦術 [編集]

ドッグ・ファイトを主体とした戦闘スタイルで、初期には戦果をあげる度に自分も撃墜されそうになっていた。マルセイユは空戦の戦術について自ら多くは語っていない。最後の数ヶ月間ペアを組んだ曹長ライナー・ペントゲンによれば、「マルセイユは敵編隊にいきなり攻撃をかけ、敵が混乱して散開すると、その単機と成った(旋回性能に勝る)英軍機をドッグ・ファイトで撃墜した。敵編隊の中でいきなりスロットル(ガス、アクセル)を絞り、発動機の出力を下げたまま鋭く旋回しながら射撃して撃墜し、次の瞬間反転して急降下離脱し、再度急上昇で敵編隊を攻撃する」など、英軍の編隊飛行による優位を逆手にとった攻撃方法で戦果をあげた。卓越した操縦技術と索敵能力を持ち、旋回しながらでも敵機の未来位置を予測して射撃する、いわゆる偏差射撃の天才であり「その攻撃にかかった敵はまるで自分から銃弾に向かっていくようだった」という。また、1機当たりの機銃弾消費量は無駄がなく少なかった(6機の英軍戦闘機を20ミリ砲弾10発、7.9ミリ機銃弾180発で撃墜した記録を持つ)。「マルセイユの攻撃方法を研究したパイロットは多かったが、真似のできる者はひとりもいなかった」。また、彼を援護する二番機は激しい機動を繰り返すマルセイユ機に追従するだけでも大変で、さらに後方支援まで行なうには、技量の高い者でなければつとまらなかった。一撃離脱戦法に比して著しく体力を消耗するこの戦法はパイロットの心身に強度の疲労を与えた。このため、戦闘からの帰還直後は「げっそりやせた感じで機を降り、顔は死との遊びで疲れ果て、タバコも手が震えてうまくつかめなかった」という[1]

「黄色14」マルセイユの最期 [編集]

1942年9月30日午前11時35分、カイロ地区から会敵できずに、枢軸国側陣地のエル・アラメインにむけて高度1500メートルにて帰還中、味方勢力地まで約25キロの地点で、マルセイユは僚機に「操縦席に煙」と報告した。二番機のライナー・ペントゲン曹長が一番機のBf109G型「黄色14」を見ると、マルセイユが左手でキャノピー脇の通風小窓を明けるところで、開かれるとそこから煙が流れた。「見えないんだ」とマルセイユは無線で告げた。中隊の残る11機は編隊を組みマルセイユに対して方向を「右に、左に」と指示をした。地上の管制は「脱出しろ」と指示したが、マルセイユは未だ敵地上空であり降りれば捕虜になるため、その後3分間高度を維持して飛び続けた。エル・アラメイン「悪魔の園」L地区付近「白いモスク」の南7キロの地点で、マルセイユは「もう…だめだ…脱出する」と無線で告げ、機を背面飛行にしてキャノピーをとばした。ところがベイルアウトを行なう寸前に「黄色14」は突然高度1500メートルより急降下に入ってしまう。このためマルセイユは加速で機体に体を押し付けられて脱出きなくなった。マルセイユはようやく機から飛び出たが尾翼に胸をぶつけ、失神したのかパラシュートを開くこともなくそのまま地上に墜落した。フランチスケット大尉により遺体が回収されマルセイユの戦死が確認された。

事故機は、受領して間もない新型機Bf109G-2/Tropであったが、新型エンジンDB-605初期型のG-2型機は故障率が高かった。マルセイユは「新型機を使用するように」との訓令を無視していたが、アルベルト・ケッセルリンク元帥の命令により搭乗しての事故だった。

戦績 [編集]

マルセイユのBf109F-4/Trop(1942年9月、151機撃墜時)

マルセイユの撃墜記録には当時から疑問の声があった。彼の北アフリカにおける151機の撃墜のうち、81機はマルセイユの飛行記録と連合国の損失記録から確実であると推察され、24機は照会の結果実際には撃墜されておらず、46機は「撃墜された」事は事実だが、マルセイユによる撃墜か他のパイロットによる撃墜かは確認できていないとする者もいる。ただし、ドイツ軍の撃墜の記録は、かならず同僚(多くは二番機)の目撃証言や地上部隊での確認が必要であり、それらの資料は撃墜機の最後の様子、確認の範囲などが詳細に記入される方式のもので、それにより軍部が戦果(パイロットにとっては叙勲、昇進の基礎資料)として認定することが条件となっているので、信頼性は各国の中で一番高い。

映画 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ パウル・カレル 松谷健二訳「砂漠のキツネ」フジ出版1969年 P.269~274 (ヨッヘン・マルセイユ)

外部リンク [編集]