ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
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| 1919年12月13日 - 1942年9月30日 | |
| 渾名 | アフリカの星 |
| 死没地 | 北アフリカ(乗機のトラブルによる事故死) |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1938年11月-1942年9月30日 |
| 最終階級 | 大尉 |
| 戦闘 | 北アフリカ戦線 |
| 戦功 | 撃墜数158機 |
| 賞罰 | 柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章 |
ハンス・ヨアヒム・マルセイユ(Hans-Joachim "Jochen" Marseille, 1919年12月13日 - 1942年9月30日)は第二次世界大戦のアフリカ戦線で活躍したドイツ空軍のエース・パイロット。“アフリカの星”と呼ばれる。撃墜した158機は全て西側連合軍機である。歴代の乗機メッサーシュミットBf109F-4/Trop にはいずれも“黄色の14”を描いていた。最終階級は大尉。
目次 |
[編集] 生涯
ベルリンでフランス系ユグノー(新教徒)の家に生まれた。父ジークフリート(Siegfried Marseille)は陸軍大尉であり、第二次世界大戦中少将として東部戦線に於いて戦死している。マルセイユ家は、17世紀末ルイ14世が発したフォンテーヌブローの勅令による迫害から逃れてドイツへ亡命した、フランス人新教徒の末裔である。同じく姓がフランス系である空軍中将のアドルフ・ガーランドもそのような難民の末裔だった。
1938年11月に空軍に入る。1940年8月からバトル・オブ・ブリテンに参加して7機を撃墜したが、自らも6回撃墜された。1941年2月に第27戦闘航空団(JG27)へ転属し、同年4月、部隊とともに北アフリカ戦線へ進出した。軍紀違反などの素行不良で昇進が遅れていたが、アフリカへ転じてからは、理解ある上官に恵まれたこともあって空戦技術の向上に開眼し、急速に撃墜スコアを伸ばして昇進も早まった。1942年9月1日には1日に17機を撃墜し、同9月16日にはドイツ空軍最年少の大尉に昇進した。
卓越した操縦技倆を持ち、旋回しながら敵機の未来位置を予測した射撃を得意とする空戦の天才であり、その攻撃にかかった敵はまるで自分から銃弾に向かっていくようだったという。
しかし同9月30日、受領したばかりの新型 Bf109G-2/Trop に乗り、帰投中にエンジン火災を起こして脱出しようとした際、尾翼に激突してパラシュートが開かずに事故死した。新型G-2はエンジン故障率が高かったため、マルセイユは新型機を使用するようにという命令を無視していたが、アルベルト・ケッセルリンク元帥の命令により、仕方なく搭乗しての事故だった。マルセイユは同9月2日にダイヤモンド剣付柏葉騎士鉄十字章授与が決定していたが、この勲章はヒトラーが直接授与する決まりであるため、生前に受け取ることはできなかった。
マルセイユの死後、戦友達はピラミッド状の墓を造ったが、これはクフ王のピラミッドの頭頂部の欠落した部分と同じサイズとされた。なおベルリンのドイツ空軍博物館にあるマルセイユの墓の写真は日本人の戦史研究家、笠原明知が寄贈したものである。
[編集] 戦績
- 10分間に8機撃墜,1日に17機撃墜,一ヶ月に54機撃墜
- 一機を撃墜するのに要した弾数は平均15発
- ルフトヴァッフェでの最年少大尉
- 151機撃墜
- P-40 101機
- ハリケーン30機
- スピットファイア16機
- マーチン バルチモア 中型爆撃機 2機
- ブリストル ブレニム爆撃機 1機
- マーチン メリーランド爆撃機 1機
最近の研究によれば、彼の北アフリカにおける151機の撃墜のうち、81機はマルセイユの飛行記録と連合国の損失記録から確実であると確認され、24機は照会の結果実際には撃墜されていない事が分かり、46機は「撃墜された」事は事実だが、マルセイユによる撃墜か他のパイロットによる撃墜かは確認できていない。
[編集] マルセイユを扱った映画
[編集] 外部リンク
- Hans Joachim Marseilleマルセイユのトレーニングプログラム、戦術など(英文)

