クルセーダー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
クルセーダー作戦
Crusadertankandgermantank.jpg
炎上するドイツ軍IV号戦車の脇を通過するイギリス軍クルセーダー巡航戦車
戦争北アフリカ戦線
年月日:1941年11月18日-1941年12月30日
場所エジプト王国イタリア王国リビアとの国境付近からキレナイカ地方
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 イギリスの旗 イギリス
指揮官
エルヴィン・ロンメル クルード・オーキンレック
戦力
119,000(ドイツ兵65,000 イタリア兵54,000)
戦車414輌
航空機342機
118,000
戦車738輌
航空機616機
損害
24,500人(ドイツ兵11,500、イタリア兵13,000)
戦車~300輌
航空機560機
18,600人
戦車278輌
航空機~300機
北アフリカ戦線

クルセーダー作戦(クルセーダーさくせん、: Operation Crusader)は、第二次世界大戦中の1941年11月18日から12月30日に北アフリカで行われた枢軸国軍に対するイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍(以下「イギリス軍」と記す。)の反攻作戦のことである。

1940年9月、イタリア軍は自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻したが、イギリス軍の12月9日に発動したコンパス作戦により逆に攻め込まれ、リビアのキレナイカ地方から撤退した。これに危機感を抱いたドイツヒトラーは1941年2月、エルヴィン・ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカへ派遣した。そこで、ロンメルは直ちに反撃を開始し、イギリス軍をエジプトまで追い込んだものの、トブルクを陥落させることができず、そのまま包囲する形勢となった。

これに対し、イギリス軍は2度の反攻作戦を実施したが、いずれも失敗に終わった。双方は戦力の充実を図り、それぞれ攻勢作戦を準備したが、11月18日にイギリス軍が先手をとってこの攻撃作戦(クルセーダー作戦)を開始した。これに対し、ロンメルは敵軍の側面を攻撃し、一時イギリス軍は退却した。ロンメルは東の国境方面へ装甲部隊を侵攻させ一気にイギリス軍の兵站線を切断し殲滅を図った。しかしそこで敵の抵抗に遭い、さらに補給の状況も悪化していたためいったんトブルクの西方ガザラまで撤退した。けれどもここでもイギリス軍の攻撃に耐え切れず、損害を抑えるようにしながらエル・アゲイラまで退却した。これにより、トブルクは枢軸国軍の包囲から解放され、キレナイカ地方はイギリス軍が支配することとなった。

戦いの背景[編集]

西方電撃戦後、1940年6月22日独仏休戦協定が締結され、北アフリカのアルジェリアチュニジアモロッコもナチス・ドイツの傀儡であるペタン元帥ヴィシー政権の統治下となった[1]

1940年9月、イタリア軍はこれに乗じて自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻し、一旦はエジプト領シディ・バラーニまで攻め込んだものの兵站上の理由でそれ以東へは進めなかった[2]。これに対し、イギリス軍は1940年12月9日に コンパス作戦を開始し、イタリア軍を撃退して、逆にリビアにまで攻め込んだ[3]。重要な同盟国の領土を失わせる訳にはいかないと考えたヒトラーは1941年2月、ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカ戦線に投入した[4]

北アフリカに着いたロンメルは1941年3月24日反攻を開始して[5]、4月4日にベンガジを奪回[6]、4月12日にはエジプト国境近くのバルディアを占領し、エジプトとトブルクの連絡を遮断した[7]。さらに4月14日には包囲したトブルクへの攻撃を開始するまでになった[8][* 1]。しかしながら、トブルク守備隊の抵抗とこれまでの戦闘による戦力の消耗のため、トブルクを攻略できなかった[10]。これに対し、5月15日からのブレヴィティ作戦をはじめとしてイギリス軍も3回に渡り反撃作戦を行い、この3回目の反撃作戦がクルセーダー作戦であった[11]

イギリス軍の状況[編集]

エジプトに侵攻してきたイタリア軍をエル・アゲイラの西まで追い詰め潰滅させたが、ロンメルの反攻によりエジプト国境まで攻め込まれ、これに対する2度の反撃作戦を失敗したため[12]、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは中東方面軍 (Middle East Command) [* 2]総司令官をアーチボルド・ウェーヴェル大将からクルード・オーキンレック大将に替えた[13][* 3]。チャーチルはオーキンレックと連絡を交わすうちに彼が北アフリカの枢軸国軍に対し直ちに攻勢をとらなかったこと[* 4]また、第50ノーサンブリア歩兵師団 (50th (Northumbrian) Infantry Division) をキプロスへ派遣したこと[* 5]から不満を抱くこととなった[18]。オーキンレックの主張する、戦力を充実して後北アフリカの枢軸国軍に対する攻撃を開始する(開始日を1941年11月1日とする。)ことについて、チャーチルは7月に彼を本国に召還し、議論の結果これを承認するにいたった[19]

また、中東方面軍は増強を受け、軍の編制で従来からの第13軍団に加え第30軍団が創設され、この2個軍団を基幹としてこれらを統轄する第8軍が創設された[15][20]

第8軍戦闘序列[編集]

第8軍 (Eighth Army)[20]

司令官 アラン・カニンガム中将 (Alan Cunningham (11月26日付けで解任され、後任にニール・リッチー少将 (Neil Ritchie) が任命された[21]。))

枢軸国軍の状況[編集]

北アフリカ戦線での活躍がヒトラーに評価され、1941年7月1日付けでロンメルは装甲兵大将となった[26]

独断の多かったロンメルの指揮に対し、その戦闘結果からようやく信頼関係が醸成されてきたイタリア北アフリカ派遣軍総司令官のイータロ・ガリボルディ大将が7月12日にエットーレ・バスティコ大将に交替させられた[27]。新任のバスティコがロンメルの独断的な指揮に対し苦情を述べたため、立腹したロンメルは本国へ行き、7月31日にヒトラーに面会し状況を説明したものの、ヒトラーがイタリア側との対立を避けたかったため、はかばかしい返事は得られずムッソリーニと相談するよう指示された[28]

8月6日、ローマでロンメルはムッソリーニ、イタリア軍参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ元帥と会談し、当時の補給状況からトブルク包囲の維持は難しいため、トブルク西方で防御陣地を築く方がいいとするイタリア側に対し、補給物資の備蓄さえ充足すればトブルクの攻略は可能であると主張して、最終的にはイタリア側の了解を取り付けた[29]

8月15日付けでアフリカ装甲集団が創設され、ロンメルは正式にドイツ軍とイタリア軍を一体的に運用できるようになった[30]

イタリア北アフリカ派遣軍戦闘序列[編集]

イタリア北アフリカ派遣軍[* 9]

総司令官 エットーレ・バスティコ大将

イタリアから北アフリカへの補給の状況[編集]

1940年10月にシチリア島へ配備されたドイツ空軍第10航空軍団により、マルタ島を基地としていたイギリス海、空軍はその行動を阻害され、枢軸国軍のイタリアから北アフリカへの補給が順調に行なわれるようになった[36]。けれども、対ソ連戦争を重視したヒトラーにより、第10航空軍団が東部戦線へ投入されてからは[* 11]、マルタ島を基地としたイギリス海、空軍は、1941年末まで枢軸国軍の兵員及び物資輸送に対する脅威となっていた[38][39]

この被害の状況は、1941年の7-8月で 27,000 t の物資を喪失し、これは1940年6月から1年間に喪失した分に匹敵したものだった[37]。また、それ以降も被害は増大し[39][* 12]

  • 9月には、補充兵員13,000名のうち 6,000名、物資 27,000 t を喪失した。
  • 10月には、補充兵員 600名、物資 19,000 t を喪失した。
  • 11月には、物資 50,000 t を喪失した。
    • 潜水艦による商船の被害は10-12月でドイツ、イタリアを合わせて 25隻 79,218 t が撃沈された[41]

このような状況下で、枢軸国軍の輸送船舶の利用については、その積荷についてドイツ軍とイタリア軍が折半することとなっていた。このため、ドイツ軍が増強されるにつれ、補給の不公平が顕在化することとなった[42]

イギリス軍の作戦計画[編集]

1941年11月18日から12月31日までのクルセーダー作戦の地域図

このクルセーダー作戦は、イギリス軍が5ヶ月もじっくりと戦力を整えて[20]、一気にトブルク包囲解除を目指した作戦だった[32]

イギリス軍の作戦計画[* 13]の概要は、ウェーベルの行なった2度の作戦の失敗(ブレヴィティ作戦及びバトルアクス作戦)の経験を踏まえた大胆なものであった[32]

歩兵主体の第13軍団は戦車部隊が随伴し、リビア・エジプト国境地帯のハルファヤ峠、海岸地域の枢軸国軍部隊を攻撃し、さらに別方向から侵攻する第30軍団とトブルクで合流する[44][23]。別に第30軍団はいったん南下して、枢軸国軍の陣地が少ない砂漠から北西方向へ侵攻し、トブルクを包囲する枢軸国軍部隊を攻撃する[44][23]。また、トブルク守備隊はこれらの攻撃に呼応し、包囲の内側から南東のエル・ドゥダ (Ed Dedu) へ攻撃を行ない、海岸部のガンブート (Gambut) を進んでくるニュージーランド第2師団と合流するというものだった[23][45]

全体として第13軍団及び第30軍団によりエジプト・リビア国境付近からトブルクまでの枢軸国軍を包囲し、トブルク守備隊も包囲の内側から呼応して攻撃を行い殲滅する計画だった[44][23]

また、この作戦開始直前の1941年11月16日夜から17日にロンメルの殺害をねらったフリッパー作戦 (Operation Flipper) が行なわれたものの、失敗していた[44][46]

枢軸国軍の作戦計画[編集]

ほぼ同時期にロンメルもトブルクに対する攻勢作戦を計画していて、国境地帯に配備していた部隊は現状のままとし、トブルク外郭防衛線の南東部に対して空軍の爆撃と砲兵部隊による支援砲撃を加えながら装甲部隊を集中的に用いて攻略する計画だった[47][33]

これに先立ち、ゾンマーナハトシュトラウム作戦(Sommernachtstraum : 真夏の夜の夢)が9月14日に実行された[24]。この作戦の目的は補給物資獲得であったが、連合国軍空軍の攻撃により目的を果たせず、中止となった[24]。ここでイギリス軍の文書を入手したが、作戦実施について具体的な記述がなかったことから作戦実行が遠いものと判断し、ロンメルはトブルクへの攻撃開始を11月23日とした[48][24]

戦闘経過[編集]

クルセーダー作戦の移動及び戦場位置図
1941年11-12月のトブルクからリビア・エジプト国境周辺図

第8軍の侵攻[編集]

第8軍の侵攻開始時点で枢軸国軍は、トブルク周辺にイタリア軍の第17パヴィア、第25ボローニャ、第27ブレシア、第102トレントの各歩兵師団及び第101トリエステ自動車化歩兵師団を配備し、国境付近の拠点(バルディア (Bardia)、ソルーム (Sollum)、ハルファヤ (Halfaya) 峠など)及びトブルク周辺の拠点にイタリア軍とドイツアフリカ特殊任務師団を配備していた[35]。また、機甲部隊のドイツ第15及び第21装甲師団[* 14]を、トブルクとバルディアの中間付近に配備し、イタリア第132アリエテ戦車師団を予備としてトブルク南方のビル・エル・グビ(Bir el Gubi)に配備していた[50]

11月17日、リビア・エジプト国境付近の豪雨の中[* 15]をイギリス第30軍団の各師団はマッダレーナ (Maddalena) 砦から国境を越え[51]西へ移動を開始し、18日朝には第7機甲師団の先頭部隊はトブルク包囲陣外郭まで40kmの地点に到達した[49]。第4機甲旅団は東側にとどまり、第22機甲旅団は中央のビル・エル・グビに、第7機甲旅団はトブルクの南東シディ・レゼグ (Sidi Rezegh) へ侵攻した[22]。また、これら機甲旅団の南に南アフリカ第1師団が進んだ[22]。けれども、この配置は3個の機甲旅団を分散させることとなって、後に枢軸国軍に各撃破されることとなった[22][52]。また、イギリス第13軍団は東からソルーム (Sollum) 方面へ侵攻した[53]

11月18日、イギリス軍は午前中、国境付近のシディ・オマール (Sidi Omar) からトブルクの南の内陸エル・クアスク (El Cuasc) までの約 60km の線で前進を続けていた。18日午後になってローマから戻ったロンメルへ、前線の警戒部隊からイギリス第8軍の攻撃開始の報告が入った。これに対し、ロンメルは直ちにトブルク攻撃を延期し反撃の準備を始めた[54]

19日にはイギリス第13軍団のインド第4歩兵師団はソルームを東側から鉄条網と地雷により封鎖し、南のシディ・オマールに向かっていた[54][55]。またこのころ、ニュージーランド第2師団は国境沿いの枢軸国軍拠点を包囲しながら枢軸国軍防衛線を西側からソルームへ向かっていた[55]。イギリス第7機甲旅団は、トブルク攻略のために配備されていた[54]ドイツアフリカ特殊任務師団の背後、トブルクの南東シディ・レゼグへ攻撃を開始し[54]、いったんはここを占領した[56][57]。第13軍団ではインド第7歩兵旅団(インド第4歩兵師団所属)がシディ・オマールへ攻撃を開始した[54]。これに対し、ロンメルはイギリス軍全体の状況を把握できずにいたが、第2次トブルク攻撃を延期し、装甲師団による反撃の準備を始め、まず第21装甲師団の一部をガブル・サレー (Gabr Saleh) へ派遣した[54]。翌20日午前ロンメルはイギリス第13軍団の攻撃を攻撃主力とみて、第15、第21の2個装甲師団をいったんは国境方面へ向かわせたが[55]、午後にはイギリス軍の攻撃主力がトブルク南方の第30軍団の機甲部隊であるとして、イギリス第7機甲師団側面へ向けて2個装甲師団により攻撃を始めた[54]

また、トブルク南方の交通の要所ビル・エル・グビでは、イギリス第22機甲旅団と南アフリカ第1歩兵旅団(南アフリカ第1師団所属)の攻撃をイタリア第132アリエテ戦車師団がしのいでた[58][59]。自軍の兵力が敵兵力より少ないものと見ていたロンメルは、背後から攻撃を行なえる有利な地点に進出し、トブルクを目指し北上してくる敵軍を各個撃破する方針とした[56]

20から21日かけての夜間にトブルク守備隊が攻撃に出たものの、一旦は撃退された。けれども、次の歩兵戦車50台が随伴したイギリス第70師団の攻撃は、イタリア第25ボローニャ歩兵師団の防衛線を突破し砲兵隊2個大隊を全滅させた効果のあるものだった。これに対しては、手持ちの部隊でなんとか対応しその穴をうめた[60]。21日、ドイツ軍はシディ・オマール西方からイギリス第7機甲旅団の背後を衝き、イギリス軍を敗走させ、機動的防御態勢をとった[60]

22日には、ドイツ第21装甲師団がシディ・レゼグで苦戦中のドイツアフリカ特殊任務師団の救援に向かい、飛行場とその周辺でイギリス軍との激戦となりドイツ軍がこれを奪還した[60]。また、夕方ドイツ第8戦車連隊(第15装甲師団所属)が第4機甲旅団を壊滅させた[60]。イギリス第13軍団は国境付近で、ソルーム背後の敵陣とハルファヤ峠に対し攻撃をおこなったが、枢軸国軍はカプッツォ砦 (Fort Capuzzo) がニュージーランド第2師団に占領された他はなんとか持ちこたえた[61]

枢軸国軍の反撃[編集]

ここでロンメルのとった方針は、

トブルクを目標に作戦中の敵主力を、ドイツ=イタリア機動部隊を総動員し集中してたたき、しかるのち急速に東進してソルーム戦線から敵を一掃すること。

カレル (1998)、pp.104-105.

だった。

この攻勢は、11月23日に開始されたのだが、このときにロンメルは司令部から遠く離れていて、クリューヴェルへの命令は6ページにも及ぶ長文の暗号で伝えられた[62]。解読に時間を要するとみたクリューベルはおよその状況を把握していたので、暗号の解読を待たずに、早朝第15装甲師団へ向かった[62]。この直後に、ドイツアフリカ軍団司令部のあったガムブート (Gambut) がニュージーランド第2師団の攻撃を受け、ドイツ第15装甲師団へ向かおうとしていた司令官のクリューヴェルはわずかな差でこれを逃れていた[62]

23日朝、枢軸国軍はトブルク南方地域で戦闘準備を整え、シディ・レゼグ地区にはドイツ第21装甲師団、ビル・エル・グビ地区にはイタリア第101アリエテ自動車化歩兵師団及び第132トリエステ戦車師団が集結した[63]。クリューベルの意図は、ドイツ第15装甲師団を南西に移動させ、これにビル・エル・グビから移動させるアリエテ師団を合流させて、機甲部隊を集中してイギリス軍を背後から攻撃するというものであった[63]

南西方向に移動中だったドイツ第15装甲師団は、シディ・ムファ付近でイギリス軍の戦車部隊を発見し、これと交戦を開始した[63]。ドイツ第21装甲師団はシディ・レゼグへ向かっていたイギリス第7機甲師団に接触し激戦となった[63]。昼にはこれに呼応してトブルク守備隊が戦車60輌と歩兵部隊で包囲を脱出しようとしたが、包囲軍のイタリア第17パヴィア歩兵師団の対応により封鎖線を突破することができなかった[63]。午後の早い時間帯にドイツ軍はイギリス軍の背後にまわり、これにアリエテ師団の戦車120輌も合流し、第5戦車連隊(ドイツ第5装甲師団)が右翼、第8戦車連隊(ドイツ第21装甲師団)が中央、イタリア軍が左翼という布陣で背後からイギリス軍に攻撃する態勢となった[63]。けれども、南アフリカ第1師団砲兵部隊のすばやい展開による砲撃のため、枢軸国軍の攻撃は停滞したが、これに対抗して砲兵部隊を動員し、午後の遅くにようやくイギリス軍を包囲する形勢となった戦車部隊の再度の攻撃が始められた[64]。シディ・レゼグ南方の砂漠地域は戦場となり、砂塵と硝煙により視界が悪化したので、イギリス軍の戦車と砲兵部隊の一部はこれにまぎれ南と東方向に包囲を脱することができた[65]

戦闘の詳細が判明してきたのは深夜を過ぎてからで、枢軸国軍はこの状況を検討し、トブルク包囲陣に対する危機的状況は去り、イギリス軍戦車兵力に多大な損害を与え、イギリス軍の士気をくじいたものと判定した[65]

カニンガムの解任[編集]

23日、カニンガムはイギリス軍がトブルク前面で潰滅したことから撤退の承認を求め、これに対しオーキンレックは空軍のアーサー・テッダー (Arthur Tedder) 中将を同伴してカイロの司令部から第8軍司令部へ飛び、両者の間で激論が交わされた[66][67]。ドイツ軍のエジプト侵攻に対しトブルクへの攻勢を中止し全軍をエジプトへ戻し防御すべきと提案したカニンガムに対し、オーキンレックはウェーヴェルの失敗に鑑み、攻勢を維持するよう厳命した[68][69][66]。オーキンレックは25日にカイロの司令部に戻り、カニンガムを第8軍司令官から解任して、中東方面軍参謀次長のニール・リッチー少将[* 16]を第8軍司令官に任命し、攻勢の続行を命じた[70][69][71]。チャーチルはこの人事の報告を受け直ちに承認した[71]

イギリス軍の当初の作戦計画が頓挫してしまったため、リッチーは直ちにトブルク前面の第7機甲師団の崩壊を防ぎ、全部隊を再編成する必要があった[72]。この時間稼ぎのために、後方撹乱と情報収集を目的としたジョック (John Charles Campbell) 戦列と呼ばれる小規模な戦闘パトロール隊を20隊以上編成し、枢軸国軍の背後(主にイタリア軍[73])に送り込み効果を上げた[74]

枢軸国軍のエジプト国境への攻撃[編集]

24日、クリューヴェルからの前日の戦果報告を受け、ロンメルは敵の背後に浸透して攻勢に転じ、イギリス第13軍団が同第30軍団の残った兵力と合流する前に殲滅し、さらにハバタ及びマッダレーナ砦の司令部及び兵站基地を破壊、兵站線を遮断し、それによって敵に攻勢を諦めさせる方針を取ることにした[65]。ドイツ第15及び第21装甲師団を、ガブル・サレーを起点にしてエジプト領へ侵攻させ、イギリス第13軍団を包囲殲滅することとした[75]。しかし、ロンメルの作戦主任参謀ジークフリート・ヴェストファール (de:Siegfried Westphal) 中佐はイギリス軍がビル・エル・ゴビ付近で態勢を立て直しているとの報告を受けていたためこれに反対したが、ロンメルは受け付けなかった[76]。この攻撃態勢のため、トブルク南面の兵力はアフリカ砲兵隊指揮官ベトヒャー少将が指揮を執るわずかな非自動車化部隊となってしまった[77]

ハルファヤ峠を包囲しているイギリス軍を東から遮断するため、第21装甲師団はロンメルの直接の指揮の下、エジプト国境のガスル・エル・アビド (Gasr el Abid) から侵攻した[78]。また、第15装甲師団はシディ・オマール攻撃の命令を受けた[78]。しかし、シディ・オマールのインド第4歩兵師団は直前に増強されていて、これに第15装甲師団は当たることとなってしまった[78]。このため、同師団に付せられた第5戦車連隊は多大な損害を出すこととなった[78]。ロンメルはさらに第21装甲師団に対し北方へ向かい、ソルームのニュージーランド第2師団への攻撃を命令した[78]

その後、第15装甲師団へ向かったロンメルの指揮車が故障し、そこへ道に迷い通りかかったクリューヴェルの指揮車に同乗したものの、アフリカ装甲集団司令部には容易にたどりつけなかった[79]

イギリス軍の攻勢[編集]

ロンメルが前線指揮で不在の間、立ち直ったニュージーランド第2師団は第1陸軍戦車旅団の支援を受けシディ・レゼグへの攻撃を始め、同時にトブルク守備隊も枢軸国軍を攻撃した[79][80]。このため枢軸国軍のトブルク包囲陣は寸断される事態となった[81][* 17]。そこで作戦主任参謀ヴェストファール中佐は独断でドイツ第21装甲師団へ攻撃を中止、撤収し、トブルク包囲への帰還を命令した[82]。このときに、ドイツ軍はイギリス軍の大兵站基地近くを通過したが、これに気付かなかった[83][21]。もし、そこに集積されていた物資をドイツ軍が入手できたならば、イギリス軍は窮地に追い込まれることとなっていた[83][21]

ロンメルはヴェストファール中佐の命令を知り激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、この判断は正しいと判断して攻勢中止を承認した[82]。いったんエジプト国境に進んだドイツ軍はすべてトブルク包囲陣へ集められ、ハルファヤ峠付近の枢軸国軍部隊は孤立することとなった[83]。クリューヴェルは11月28日にはドイツ軍の第15、第21の両装甲師団を掌握し、トブルク南東部の状況打開のため、29日にシディ・レゼグ付近のイギリス軍を攻撃することとした[84]

国境付近からニュージーランド第2師団は攻撃を開始し、29日にドイツ第15装甲師団にイギリス軍に対する攻撃命令を伝達に向かったドイツ第21装甲師団長フォン・ラーフェンシュタインを捕えた[83]。しかし、175高地においてニュージーランド第2師団はアリエテ戦車師団による攻撃を受け、多数が捕虜となった[85]。また同時に第7機甲師団はビル・エル・レゲム南方からトブルクへ向け移動を開始していた[86]

オーキンレックは第7機甲師団を含む新たに整備した部隊を集め、ビル・エル・グビ付近に戦力を集中し、再びトブルクを包囲している枢軸国軍に対し攻撃を開始した[87]

枢軸国軍のトブルクからの撤退[編集]

ロンメルは12月4日にトブルク東側の包囲部隊を引き上げて、第15、第21装甲師団をエル・ドゥダ、シディ・レゼグ間から西へ向かわせ、これにイタリア軍を合わせビル・エル・グビ付近のイギリス軍を攻撃することとした[88]。けれどもイタリア青年ファシスト師団[* 18]だけが合流し、5日にイギリス第7機甲師団に対し攻撃が開始された[89][* 19]。これにより手薄になった枢軸国軍の包囲を衝く形で、トブルク守備に当たっていたイギリス第70歩兵師団が攻撃を開始し、エル・ドゥダ、ベルハメド (Belhamed) 間の要地を占領した[89]。6日、再びドイツ第15、第21装甲師団はビル・エル・グビのイギリス軍に対して攻撃を行い、包囲寸前までいったものの要請していたイタリア軍はついに合流せず、翌7日には形勢が逆転、包囲される形勢となり、第15装甲師団長ノイマン=ジルコウ (Walter Neumann-Silkow) も負傷した(3日後に戦死した[90]。)[91]

12月10日に、オーキンレックはチャーチルに対し次のように報告している。

敵は西へ総退却の模様であります。……トブルク包囲は解除されたといっても差支えないと思われます。われわれは空軍と完璧な協力をしつつ、激しく追撃しております。

チャーチル (2001)、p.52

ロンメルは、いったんはエル・アデム (El Adem) で防御陣地を築くこととしたが[92]、枢軸国軍の損耗が著しかったためイギリス軍[* 20]の攻勢に抗しきれず、数日でここの防衛拠点から撤退せざるを得なかった[92]

12月15日にロンメルは国防軍総司令部に対し、ガザラ地区を12月16日まで守り、夜にメキリ(Mechili)、デルナ (Derna) 経由で撤退すると報告した[94]。16日ローマからカヴァッレーロ元帥が来て、キレナイカ地方の放棄に対し対抗を示したが、ロンメルは「戦いつつ有利な防衛陣まで交替する」を変えなかった[95]

枢軸国軍がアジェダビア (Ajedabia) まで後退した12月27-29日の防衛戦では、イギリス軍戦車部隊を潰滅させるほどの損害を与えた[96]。ロンメルは1月3日にアジェダビアの放棄を決め、エル・アゲイラ (El Agheila) まで後退しその東側に防衛線を築いた[97]。こうして再びキレナイカ地方はイギリス軍の手に落ちた[98]

また兵站線の障害となっていた[99]、エジプト国境のソルームは1月12日に[100]、ハルファヤ峠の守備隊は1月17日にようやくイギリス軍へ投降した[101]

結果[編集]

イギリス軍は枢軸国軍に包囲されたトブルクを救出したものの、枢軸国軍を決定的に敗北させた訳ではなく、また、エジプトから枢軸国軍に対するエル・アゲイラ前面までの長距離の兵站線を維持しなければならないこととなった[102]。この時点で前線で使える飛行場はムスス (Msus) しかなく航空輸送はその能力が限られ、ベンガジ港はシチリア島からのドイツ空軍による爆撃と機雷投下により機能を失っていた[103]。一方、シチリア島のドイツ空軍が強化され、ドイツ空軍によるマルタ島への爆撃でイギリス海、空軍の活動が抑えられ、イタリアからの補給状況が改善した[104]。1942年1月20日、枢軸国軍は再びエル・アゲイラからエジプトを目指して攻撃を開始した[105]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 小規模な威力偵察が4月11日に行われているが[8]、本格的な攻撃開始については、山崎 (2009)では4月12日としている[9]
  2. ^ 「中東方面軍」の訳語は「ムーアヘッド (1977)、p. 130」及び「『北アフリカ戦線』 (2009)、p.48」による。
  3. ^ ウェーベルは1941年6月21日付けで解任され[14]インドに転出し[15]、オーキンレックの任命は同年7月5日付けだった[14]
  4. ^ チャーチルは戦力、補給物資の充実速度が枢軸国軍よりもイギリス軍の方が早かったため、少しづつでも敵軍を攻撃し続ければさらに優位にたてるものと考えていた[16]
  5. ^ チャーチルは、例えばインド師団でイギリス人が歩兵部隊にあっては 1/3 、砲兵部隊ではその全部という比率であったにもかかわらず、オーキンレックが北アフリカのインド師団のように植民地名を冠する部隊と本国師団を交替させず別の地域に派遣することが、植民地諸国人が矢面にたっているという敵の宣伝材料となることを理解せず[16]。これとあわせて、彼がトルコ、シリア、パレスチナ経由のドイツ軍侵攻が北アフリカ線戦よりも脅威であると判断していたことに不満を抱いた[17]
  6. ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
  7. ^ 作戦開始までの間に当初のオーストラリア第9師団から第70歩兵師団、ポーランド独立カルパチアライフル旅団及び陸軍第32戦車旅団が交替していて[24]、包囲されていたトブルクでその交替の際に犠牲はほとんどなかった[25]
  8. ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
  9. ^ 序列上はイタリア北アフリカ派遣軍の方がアフリカ装甲集団よりも上位だった[31]
  10. ^ 第155狙撃兵連隊及び第361アフリカ連隊に10月15日から本国から増援された2個大隊を加えた編制で、11月2日にキレナイカに展開を完了した[33]。後の11月28日に第90軽アフリカ師団に名称を変更した[34]
  11. ^ 1941年6月で第10航空軍団のシチリアにおける実動機は180機となっていて、さらに北アフリカへ対地支援に回されたためさらに手薄となった[37]
  12. ^ イタリア、リビア間の船舶のトン数では、9月に 38.5 % 、10月には船舶が不足し、補給物資は 50,000 t となったがそのうち63 % が失われ、11月には 37,000 t となったものの 77 % が撃沈された[40][38]
  13. ^ カレル (1998)、pp.83-98. では、イギリス軍がロンメルの作戦計画(作戦実行日は不明)を入手していたとし、イギリス軍の作戦はこの情報をもとに作戦計画が変更され、その変更に対応する部隊配置は、枢軸国軍偵察機に発見されないよう隠蔽されながら、11月14日に完了した、としている[43]
  14. ^ 2個師団合計で249輌の戦車が配備されていた[49]
  15. ^ この雨のため枢軸国軍は偵察機を飛ばせず、イギリス軍の動向を察知できなかった[49]
  16. ^ カレル (1998)、p.111 では中将としている。
  17. ^ 26日に一旦はニュージーランド第2師団がシディ・レゼグを奪回しトブルク守備隊とは連絡がとれるようになったものの、再びドイツ軍の攻撃を受け、ニュージーランド第2師団は南東へ退却した[80]
  18. ^ 吉川 (2006)、p.45 では連隊としている。
  19. ^ 吉川 (2006)、p.45 ファシスト青年連隊とイギリス第22近衛旅団及びインド第11旅団が交戦したとしている。
  20. ^ ポーランド旅団、インド師団及びニュージーランド師団による攻撃が行なわれた[93]

出典[編集]

  1. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10,12.
  2. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.38
  3. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.14-17.
  4. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.22
  5. ^ 山崎 (2009)、pp.213-214.
  6. ^ 山崎 (2009)、p.217
  7. ^ 山崎 (2009)、p.228
  8. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.42
  9. ^ 山崎 (2009)、p.229
  10. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.41-43.
  11. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.24-28.
  12. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.17-18.
  13. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.48
  14. ^ a b c 山崎 (2009)、p. 246
  15. ^ a b ムーアヘッド (1977)、p. 125
  16. ^ a b チャーチル (2001)、pp.41-42.
  17. ^ チャーチル (2001)、pp.40-41.
  18. ^ チャーチル (2001)、pp.40-44.
  19. ^ チャーチル (2001)、p.43
  20. ^ a b c 山崎 (2009)、pp. 251-252.
  21. ^ a b c 山崎 (2009)、pp.263
  22. ^ a b c d e ムーアヘッド (1977)、p.144
  23. ^ a b c d e 『北アフリカ戦線』(2009)、p.49
  24. ^ a b c d e 山崎 (2009)、p.252
  25. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.128-129.
  26. ^ 山崎 (2009)、p.247
  27. ^ 山崎 (2009)、p.248
  28. ^ 山崎 (2009)、pp.248-249.
  29. ^ 山崎 (2009)、p.249
  30. ^ a b 山崎 (2009)、pp.249-250.
  31. ^ a b 山崎 (2009)、p.250
  32. ^ a b c 山崎 (2009)、p.258
  33. ^ a b 山崎 (2009)、p.254
  34. ^ 山崎 (2009)、p.265
  35. ^ a b ムーアヘッド (1977)、p.137
  36. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.101-102.
  37. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.106
  38. ^ a b マーレイ (2008)、p.225
  39. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.106-107.
  40. ^ カレル (1998)、p.153
  41. ^ ペイヤール (1997)、p.180
  42. ^ カレル (1998)、p.141
  43. ^ カレル (1998)、p.90
  44. ^ a b c d 『北アフリカ戦線』(2009)、p.26
  45. ^ ムーアヘッド (1977)、p.138
  46. ^ カレル (1998)、pp.67-81.
  47. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.137-138.
  48. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.138-139.
  49. ^ a b c 山崎 (2009)、pp.257
  50. ^ 山崎 (2009)、pp.257-258.
  51. ^ ムーアヘッド (1977)、p.142
  52. ^ カレル (1998)、pp.102-103.
  53. ^ カレル (1998)、p.99
  54. ^ a b c d e f g 山崎 (2009)、p.259
  55. ^ a b c ムーアヘッド (1977)、p.143
  56. ^ a b カレル (1998)、p.102
  57. ^ チャーチル (2001)、p.48
  58. ^ 山崎 (2009)、p.260
  59. ^ 吉川 (2006)、p.44
  60. ^ a b c d カレル (1998)、p.103
  61. ^ カレル (1998)、p.104
  62. ^ a b c カレル (1998)、p.105
  63. ^ a b c d e f カレル (1998)、p.106
  64. ^ カレル (1998)、pp.106-107.
  65. ^ a b c カレル (1998)、p.109
  66. ^ a b チャーチル (2001)、p.50
  67. ^ カレル (1998)、pp.109-110.
  68. ^ ムーアヘッド (1977)、p.158
  69. ^ a b 山崎 (2009)、pp.262-263.
  70. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.158-160.
  71. ^ a b チャーチル (2001)、pp.50-51.
  72. ^ カレル (1998)、p.111
  73. ^ カレル (1998)、p.113
  74. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.158-159.
  75. ^ 山崎 (2009)、pp.260-262.
  76. ^ カレル (1998)、pp.113-114.
  77. ^ カレル (1998)、pp.109-110.
  78. ^ a b c d e カレル (1998)、p.114
  79. ^ a b カレル (1998)、p.115
  80. ^ a b チャーチル (2001)、p.51
  81. ^ カレル (1998)、pp.115-116.
  82. ^ a b カレル (1998)、p.116
  83. ^ a b c d カレル (1998)、p.117
  84. ^ カレル (1998)、pp.117-118.
  85. ^ 吉川 (2006)、pp.44-45.
  86. ^ カレル (1998)、p.119
  87. ^ カレル (1998)、p.126
  88. ^ カレル (1998)、pp.126-127.
  89. ^ a b カレル (1998)、p.127
  90. ^ 山崎 (2009)、p.266-267.
  91. ^ カレル (1998)、pp.127-128.
  92. ^ a b 山崎 (2009)、p.266
  93. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.172-173.
  94. ^ カレル (1998)、p.129
  95. ^ カレル (1998)、pp.159-160.
  96. ^ カレル (1998)、p.160
  97. ^ 山崎 (2009)、p.268
  98. ^ 山崎 (2009)、pp.268-269.
  99. ^ ムーアヘッド (1977)、p.187
  100. ^ カレル (1998)、p.135
  101. ^ カレル (1998)、pp.137-138.
  102. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.108
  103. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.185
  104. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.50
  105. ^ 山崎 (2009)、p.271

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • カーユス・ベッカー 『攻撃高度4000 ドイツ空軍戦闘記録』 松谷健二訳、フジ出版社、1974年。
  • ジョン・ウィール 『北アフリカと地中海戦線のJu87シュトゥーカ : 部隊と戦歴』 手島尚訳、大日本絵画〈オスプレイ軍用機シリーズ;31〉、2003年。ISBN 4-499-22805-0
  • ジョン・ウィンゲート 『イギリス潜水艦隊の死闘 (上)』 秋山信雄訳、早川書房〈ハヤカワ文庫NF〉、2003年。ISBN 4-15-050278-1

関連項目[編集]

関連ゲーム[編集]

外部リンク[編集]