豊島一

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豊島 一
とよしま はじめ
Hajime Toyoshima.jpg
渾名 南忠男
生誕 1920年
日本の旗 日本香川県
死没 1944年8月5日
オーストラリアの旗 オーストラリアカウラ
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1938年 - 1944年
最終階級 三等飛行兵曹
墓所 カウラ日本庭園
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豊島 一(とよしま はじめ、1920年(大正9年) - 1944年(昭和19年)8月5日)は、日本海軍軍人戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹

第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり[1][2]カウラ事件の指導者でもある。

経歴[編集]

香川県出身。1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。信号術練習生となるが、のちに戦闘機搭乗員を志し、第五十七期操縦練習生に合格。空母飛龍航空隊の所属となった[3]

1942年2月19日ポート・ダーウィン空襲英語版に参加[1][4]。続いて27日の第二次爆撃にも参加。この時の搭乗機は零戦二一型で、製造番号5349、機体番号はBII-124[4][5]

戦闘中、高射砲がエンジンオイルのタンクに被弾してエンジントラブルを起こし、メルヴィル島のスネーク湾に不時着したが[5]、 軽症のみですんだ[4]。豊島はすぐさまその場から離れ逃走を図ったが、翌日現地のアボリジニに捕まり、豪軍工兵隊第23中隊のレスリー・パウウェル軍曹に引き渡された。捕虜番号はP.O.W.J.910-1[6]

この零戦は連合国側にとって最初の鹵獲機であったが、機体の損傷が甚だしく、完全な機体を入手するには半年後のアクタン・ゼロを待たなければならなかった。

なお、本国では戦死扱いとされ、一等水兵から三等飛行兵曹へと一階級特進した[7]

「南忠男」として[編集]

豊島はシドニーの西方約600キロにある民間の在豪邦人を対象としたヘイの収容所に拘留された。収容所での生活は一日8時間で、道路の補修作業やまき集め、策を作ったり牛馬の糞を集めたりと過酷なものではなかった[8]

ヘイ収容所には他の日本兵捕虜も収容された。同年2月15日、索敵中に交戦し不時着した97大艇搭乗員の高原希国一等兵曹(偽名:高田一郎)、古川欣一兵曹(同:山下清)、沖本治義兵曹(伊野治)ら5名、その次は台南航空隊エースパイロット柿本円次二飛曹だった。このように、当初の捕虜は豊島と同じ海軍パイロットが中心だった。

豊島は「南忠男兵曹長」を名乗り[1][4]、英語を習得して豪軍側との交渉役となり、彼ら日本兵捕虜のリーダー的存在になった。

カウラ事件[編集]

起因[編集]

やがて戦争の長期化に伴い、捕虜の数は圧倒的に増加した。ヘイの収容所は手狭となり、軍の捕虜はまとめてカウラに移されることとなった。カウラでの生活も過酷なものではなく、むしろきわめて人道的な扱いがなされた。だが、そのような待遇は捕虜達に心理的な葛藤を生み出した。

「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれてきた捕虜たちにとって、こうして捕虜となることは本来許されるものではなく、それどころか収容所での人道的待遇は生きる事の価値をも感じるようになっていった。郷里へ返ろうにも帰れず、かといって帰化する事も出来ない。こうしたジレンマに加え、戦局が日々悪化していく事実は現地の新聞から読み取れていた。捕虜達は、居場所を失った以上、自分達の手で手を付けなければならないと感じるようになった[8]

また当初、前述の通り海軍が中心だった捕虜は、当然ながら陸軍の一般兵士が圧倒的に多くなった。これに伴い、陸海軍の主導権争いが起こるようになった。

当時、捕虜のまとめ役である団長の豊島のみならず、副団長ら捕虜のリーダー陣はいずれも海軍の出身だったが、少数派である海軍が首脳権を握っている事に不満を持った陸軍は選挙を提案。結果新たに陸軍の団長、副団長が選定された。しかし、豪州軍側との交渉は古参である海軍側が有利であり、新リーダーらは戦陣訓を持ち出してことさらに自分たちの権威を示そうとしたが、実質的な権限は依然として豊島ら海軍古参者の手に残されていた[9]

経緯[編集]

1944年8月、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーしたために、将校・下士官を除く兵士を、400km西に位置するヘー(Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことが計画された。これに対し兵士と下士官は不可分とする一部の強硬派が激高、これを“契機”として捕虜収容所からの脱走を持ち出した。他の捕虜らも次第にこうした声に従うようになり、投票で脱走に同意。豊島もこうした動きを抑えられず、脱走の指導者に持ち上げられた。

8月5日午前1時45分、豊島はキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹き鳴らした[1][2]。これを合図に、捕虜らは一斉に脱走を開始した。

この中で豊島は銃撃を受けて倒れ、喉を掻き切って自決した[10]。享年25。

現在、このラッパはオーストラリア戦争記念館に展示されているほか、オーストラリア航空歴史センター(Australian Aviation Heritage Centre)には豊島が不時着時搭乗していた機体の胴体部や残骸から採られた各種パーツが展示されている。

親族[編集]

  • 豊島は三男であり、長男の徳繁は陸軍軍曹、次男の実は陸軍上等兵で、いずれも大戦で戦死している。

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]