レオポルド1世 (ベルギー王)

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レオポルド1世
Léopold Ier
ベルギー国王 (その他)
レオポルド1世

首相
次代 レオポルド2世

出生 1790年12月16日
神聖ローマ帝国ザクセン=コーブルク=ザールフェルトコーブルクエーレンブルク城
死亡 1865年12月10日(満74歳没)
ベルギーブリュッセルラーケン
埋葬 ベルギーブリュッセルラーケンノートルダム・ド・ラーケン教会
実名 Leopold Georg Christian Friedrich
レオポルト・ゲオルク・クリスティアン・フリードリヒ
王室 ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ家
父親 フランツ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
母親 アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ
后妃 シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ
ルイーズ=マリー・ドルレアン
子女
居所 ブリュッセル王宮
信仰 キリスト教プロテスタント

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レオポルド1世Léopold Ier1790年12月16日 - 1865年12月10日)は、初代ベルギー国王レオポルド2世の父。父はザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒ。母はアウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ

目次

生涯 [編集]

1790年12月16日、コーブルクのエーレンブルク城でフランツ・フリードリヒの三男として生まれた。

1795年、5歳の時にロシアの陸軍大佐イズマイロフスキーと出会った。それから7年後、レオポルドはロシア軍の将官になった。この時、祖国ザクセン=コーブルク公国はナポレオン軍の占領下にあった。1806年にはパリへ行った。ナポレオンと会った時、彼は自分の副官になるつもりはないかと持ちかけたが、レオポルドはこの申し出を断った。その後、レオポルドは兄たちに続きナポレオン戦争に加わることになった。

1815年、レオポルドは陸軍元帥になった。この年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親友として、皇帝と共にロンドンを訪れた。この時摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)の一人娘シャーロット王女に見初められ、5月2日に2人は結婚した。しかしシャーロットは1817年12月5日に息子を死産した後、間もなく死去してしまった。レオポルドはその後もイギリスに留まり、国から毎年5万ポンドの年金を給付されることになった。彼はしばらくは数々の趣味に没頭していた。

1830年にはオスマン帝国から独立したギリシャから、国王就任要請の打診をされたが、この話は断った。しかし1831年6月26日には、前年に独立したベルギーから再び国王就任要請があり、今度は承諾することにした。7月21日ブリュッセルの王宮で初代ベルギー国王に即位した。

1832年8月9日、レオポルドはフランス国王ルイ=フィリップの娘ルイーズ=マリーと結婚した。

1865年12月10日にブリュッセルで死去した。

人物 [編集]

レオポルド1世は姪のイギリス王女ヴィクトリアと甥のアルバート公子の良き相談相手であり、2人からとても信頼され、慕われていた叔父であった。後に彼は、この2人を結びつける役割を果たした。この2人を結婚させようと考えたのは、国王になったとはいえベルギーはあまりにも小さく、他の国々へもさらなる勢力拡大を図るため、ザクセン=コーブルク=ゴータ家とイギリス王室を結びつけようとしたためといわれている。

家族 [編集]

レオポルド1世は即位前にシャーロット妃との間に1男を儲けたが死産し、シャーロット妃も間もなく死去した。

即位後にルイーズ=マリー王妃との間に以下の3男1女を儲けた。

この他に愛人アルカディー・クラレットとの間にも、ジョルジュ=フレデリック・フォン・エピングホーヴェン男爵とアルテュール・フォン・エピングホーヴェン男爵を儲けた。

関連項目 [編集]