アナスタシア・ニコラエヴナ

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アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァАнастаси́я Никола́евна Рома́нова, Anastasia Nikolaevna Romanova, 1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、ロシア帝国ロマノフ朝の皇族。ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクイパチェフ館において家族・従者と共にわずか17歳の若さで銃殺された。2001年、家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに正教会聖人新致命者)。日本正教会での表記はアナスタシヤ

人物[編集]

アナスタシアが生まれた時、ニコライ2世アレクサンドラ皇后の子供が4人続けて女児であったためにロシアの民衆が「もう皇太子が授かる望みはないかもしれない」と憂いたと言われている[1]

1904年
1906年
4歳の時にアナスタシアが描いた絵

4姉妹の中で最も小柄だったが、明るく活発、ひょうきんな性格で、彼女の前ではどんなに気難しい人も笑顔になったという。家族からは「道化者」 「反逆児」などというあだ名で呼ばれていた。

末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、マスコミや貴族の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、顰蹙を買うほかはほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、ロシア革命を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない。ただ、証人達は異口同音に「アナスタシアはおしゃまな娘だった」と語っている。アナスタシアの遊び友達であったグレブ・ボトキン(ニコライ2世一家と一緒に殺害されたエフゲニー・ボトキンの息子)は「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と語り、続けて「それは彼女の美貌に由来するものではなかった。というのはアナスタシアは姉達ほど美人ではなかったからだ。背は低く、顔立ちも整ってはいなかった。鼻は長めで、口がかなり大きかった。顎は小さく、平板で、下唇から下の丸みがほとんどないと言ってよかった。しかし、彼女の瞳は―いつも楽しげにキラキラ輝いている明るい青い瞳は―実に美しかった。その眼は父親譲りだった。初めて皇帝に謁見した後で、その眼の美しさについて語らなかった人は私は会ったことがない」と述べている。また、最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移すという彼女の印象を3冊の本と何百もの手紙の中に書き記している[2]フランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールは「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。喜劇の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている[3]

1908年
1910年頃。左からタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ

エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱で、外反母趾に悩み、また背中の筋肉も弱く年中患っていた。週2回のマッサージ治療を嫌がって、よく戸棚の中に隠れていたという。母語のロシア語の他、家族間での会話は英語で行われていたため英語に堪能で、フランス語の発音は4皇女の中で最も良かったが、ドイツ語は苦手で家庭教師泣かせだったという。数学も大の苦手だった。趣味は父親譲りの写真撮影で、彼女が撮った写真を集めた写真集も出版されている。

1915年。姉のマリアと戦傷兵のための病院を訪問(右がアナスタシア)
1916年。父のニコライ2世に勧められて喫煙するアナスタシア
1913年頃の家族写真
1917年。抑留地にて(左からアナスタシア、マリア、タチアナ)
1917年。抑留地にて3人の姉と(左からマリア、オリガ、アナスタシア、タチアナ)
1917年冬。抑留地にて(左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ)
1918年5月。トボリスクからエカテリンブルクへ向かう船にて。既知の最後の写真
1994年。複顔術によって生前の姿に顔面が再建された

4皇女は仲が良く、OTMAオリガタチアナマリア、アナスタシア)のサインを結束の象徴として使っていた。特に年の近いマリアとは仲が良く、いつも一緒で、お揃いのドレスを着、寝室を共用していた。年齢が近かった事もあり、弟のアレクセイの面倒をよく見ていた。

イパチェフ館での生活[編集]

1918年5月にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイらはエカテリンブルク市内にあるイパチェフ館に監禁されている両親達に合流した。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンダー・ストレコチンはアナスタシアの性格について一番年の近い姉のマリア同様に親しみやすく、「人なつっこくて非常にお茶目だった」と振り返っている。別の警護兵は「小悪魔!彼女はいらずら好きで、たまにしか疲れないように思えた。生き生きとして、サーカスをしているかのように、犬と喜劇のパントマイムを行うのが好きだった」と述べている[4]。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の皇女を「テロリスト」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を述べた[5]

アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、パンを作る料理人イヴァン・ハリトーノフの手伝いをした。

監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。外の景色を眺め、新鮮な空気を吸おうとしたアナスタシアは白ペンキで塗られ、密閉された館の窓にかなり動揺していたという[6]

7月14日は日曜日であり、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にアナスタシアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。劇的な変化に気付いた司祭は「何か恐ろしいことがそこで起こっている」と語った[7]

ところが、7月15日のアナスタシアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが背を向けて部屋を去った時に舌を突き出した[8]

殺害[編集]

イパチェフ館に監禁されていた元皇帝一家らは1918年7月16日の夜に眠りに付くが、遅い時間に起こされ、市内の情勢が不穏なので、家の地下に降りるように言われた。アレクサンドラやアレクセイを楽にさせるために他の家族は枕やバッグなどを運んで自分の部屋から出た。元皇帝一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が地下室に入室し、指揮するユロフスキーが殺害を実行する事を発表した。ニコライ2世は「何を言ったのだ?」と聞き返した[9]。最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、フットマンアレクセイ・トルップが殺害され、医師のエフゲニー・ボトキンとメイドアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人が足が不自由なために椅子に座っていた弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗し、別の兵士が頭部に向けて発射した弾丸によって殺害された。その後に姉のオリガとタチアナは頭部に向けて発射された一発の弾丸によって殺害された。

まだ生き残っていたアナスタシア、マリア、デミドヴァは部屋の窓近くの床に倒れていた。殺害実行者の一人、ピーター・エルマコフ英語版は銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃って殺害したと主張している。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。部屋の外へ移動させようとする時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。一方は起き上がって腕を頭の上まで伸ばして叫び、他方は口から血を流しながらうめいて身体を少し動かした。前者は意識を失っていたマリアで、後者はアナスタシアだと見られている。保管されているエルマコフの供述書には書かれていないが、彼は妻に銃剣でアナスタシアを絶命させたと話している。また、ユロフスキーは少なくとも1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。しかし、マリアの後頭部には暴力の痕跡は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている[10]。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが一番最後に死亡したとしている[11]

列聖[編集]

1981年在外ロシア正教会から新致命者列聖された。その後、2000年ロシア正教会もアナスタシアを列聖した。

遺骨[編集]

2007年8月にエカテリンブルク近郊でマリアとアレクセイのものと思われる遺骨が発見された。この2人は遺体をバラバラに切断され、焼却されたという残酷な事実も明らかになった。

この時に処刑されたのはニコライ2世とアレクセイのみで、妻と娘達は後に別の場所で殺されたという説、また後述のように生存していたという説もある。これらの説は、政府が「反革命勢力が皇帝の座にあった残忍な人殺し(ニコライ2世)を奪還しようという恐ろしい企みを企てているので、ボリシェヴィキウラル当局の決定により皇帝は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をした事から生じた。

伝説[編集]

アンナ・アンダーソンらが、自分がアナスタシアであると主張したことにより、アナスタシアが生存しているとの噂が広まり、そこから「アナスタシア伝説」が生まれた。またこれをもとにハリウッドで2度の映画化がなされている。この伝説を下敷きにした物語も多く、日本でも夢野久作が『死後の恋』を著している。

1984年にアンダーソンは亡くなり火葬されたが、1994年に本人のものとされる切除された小腸の標本が発見された。同年に行われたDNA鑑定では血縁がないと結論されているが、一部の論者は、その標本の出所や保存された理由、証拠が提出された状況に不審な点があるとして、それが本人のものではない可能性を訴えている。

関連作品[編集]

書籍
  • Hugh Brewster『ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム - その生活の記録』(リブリオ出版、1996年)
  • ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』(角川書店、1998年)
  • 桐生操『皇女アナスタシアは生きていたか』(新人物往来社、1991年)
  • 柘植久慶『皇女アナスタシアの真実 』(小学館、1998年)、『傭兵見聞録』(集英社 、1991年)
映画
アニメ
ゲーム
漫画
  • 武本サブローさいとうたかおプロ:『北の密使』(リイド社、1985年) - アナスタシアの一つ上の姉である第三皇女マリアが妹(第四皇女。代わりにアナスタシアは第三皇女)という史実と異なる設定になっている(ミスか意図的な物かは不明)。史実での人相(アナスタシア:まだ幼い平凡な容姿、マリア:10代半ば前後の長髪の美少女)や性格(アナスタシア:病弱で弱弱しい、マリア:闊達)も、作品中のアナスタシアとマリアとで全て逆となっており、作中冒頭で登場している(実際に撮影された写真画像を基にした)ロマノフ一家撮影写真カット絵でも、マリアの方の顔部分クローズアップがアナスタシアの顔として紹介されている。
  • さいとうたかおプロ:『ゴルゴ13』単行本 第81巻収録(文庫サイズ版 第68巻収録)第277話「すべて人民のもの」(小学館、1988年) - 主人公の出自とロマノフ王家の繋がりの疑惑を描いた作品。3年前に同じくさいとうたかおプロが発表した「北の密使」と設定に幾つかの共通(アナスタシアが日本軍特務機関の手引きでシベリア方向へ逃亡、逃亡に同行・護衛する日本軍兵士と恋に落ちる等)が見られるが、アナスタシア以外の登場人物の名前は両作品別個で、作品世界は繋がっていない。
  • 杉浦茂:『ガンモドキー』
  • 宇野比呂士:『天空の覇者Z
  • 平野耕太:『ドリフターズ

脚注[編集]

  1. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 43. ISBN 978-4042778011. 
  2. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 56-57. 
  3. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 59. 
  4. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 250. ISBN 978-0471727972. 
  5. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 251. 
  6. ^ ロバート・ウィルソン (英語). The Last Days of the Romanovs. Kessinger Publishing. p. 407. ISBN 978-1164042839. 
  7. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 162-163. ISBN 978-0312603472. 
  8. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. 
  9. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 180. 
  10. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 353-367. 
  11. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 87. 

関連項目[編集]