アナスタシア・ニコラエヴナ

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アナスタシア・ニコラエヴナ
Анастаси́я Никола́евна
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
Grand Duchess Anastasia Nikolaevna.jpg
アナスタシア・ニコラエヴナ(1914年頃)
全名 アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
身位 ロシア大公女
出生 1901年6月18日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
サンクトペテルブルク
死去 1918年7月17日(満17歳没)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
エカテリンブルクイパチェフ館
埋葬 1998年7月17日
ロシアの旗 ロシア
サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスキー大聖堂
父親 ニコライ2世
母親 アレクサンドラ・フョードロヴナ
宗教 ロシア正教会
サイン Anasig-1-.gif
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アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア語: Анастаси́я Никола́евна Рома́нова, ラテン文字転写: Anastasia Nikolaevna Romanova1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年に家族や他のロシア革命時の犠牲者とともにロシア正教会聖人新致命者)。

人物[編集]

1904年
1906年
4歳の時にアナスタシアが描いた絵
1908年頃。母親の部屋で編み物をするアナスタシア
1910年にアナスタシアがいとこルイス・マウントバッテンに宛てて送った手紙
1910年頃。左からタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ
1910年

ニコライ2世アレクサンドラ皇后の4人娘はいつも仲良しで、末娘アナスタシア皇女は特に一番年の近い姉のマリア皇女と仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。2人の姉のオリガ皇女タチアナ皇女も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らがビッグ・ペアと呼ばれていたのに対し、下の2人はリトル・ペアと呼ばれていた[1]。4人はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた[1]。また、アナスタシアは第六感のようなものを使って弟のアレクセイ皇太子とも話さずとも意思を疎通出来ていたようで、非常に仲が良かった。彼のビュッフェテーブルから食べ物を盗んだりするなど、いつもふざけた態度で接して弟を楽しませていた[2]

アナスタシアが生まれた時、ニコライ2世とアレクサンドラの子供が4人続けて女児であったためにロシアの民衆が「もう皇太子が授かる望みはないかもしれない」と憂いたと言われている[3]。皇位継承者のために息子の誕生を望んでいた彼女の両親や親戚も女の子だったことにがっかりした。ニコライ2世は自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けた[4]。彼女の名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」である。ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬にモスクワサンクトペテルブルクで発生した暴動に参加したために投獄されていた学生達を許し、彼らに対する恩赦を実施した[5]。もう一つの意味は「復活」。彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった[5]

英語で最も正確には「Grand Princess」と訳されたアナスタシアとその姉達の身位の呼称「Imperial Highness」はただの殿下に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他のヨーロッパの王女よりも順位が高いことを意味し、最も広く使用されるロシア大公女のロシア語から英語への訳となった[6]

1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った[7]。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方をする人が多かった[8]

マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた。派手好きのマリア皇太后と彼女の長女(ニコライ2世の妹)クセニア大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。三男ゲオルギー大公、四男ミハイル大公(次男アレクサンドル大公は生後1年未満に死亡)に至ってはほとんど、一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格の次女オリガ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた[9]

ニコライ2世の質素な生活スタイルの影響を受けてアナスタシアと彼女の姉達は厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで硬いベッドで眠り、朝に冷たい風呂に入った[10]刺繍編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた[11]

末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、マスメディア貴族の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、顰蹙を買う他はほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、ロシア革命を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない[12]

ただ、証人達は異口同音に「アナスタシアはおしゃまな娘だった」と語っている。アナスタシアの遊び友達であったグレブ・ボトキン(ニコライ2世一家と一緒に殺害された皇室主治医エフゲニー・ボトキンの息子)は「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と語り、続けて「それは彼女の美貌に由来するものでは無かった。というのはアナスタシアは姉達ほど美人では無かったからだ。背は低く、顔立ちも整ってはいなかった。鼻は長めで、口がかなり大きかった。顎は小さく、平板で、下唇から下の丸みがほとんど無いと言ってよかった。しかし、彼女の瞳は―いつも楽しげにキラキラ輝いている明るい青い瞳は―実に美しかった。その眼は父親譲りだった。初めて皇帝に謁見した後で、その眼の美しさについて語らなかった人は私は会ったことが無い」と述べている。また、最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移すという彼女の印象を3冊の本と何百もの手紙の中に書き記している[13]フランス語家庭教師を務めたピエール・ジリヤール英語版は「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。喜劇の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている[14]。アナスタシアは幼い頃は木に登ると降りることを拒否した[15]ポーランドにある皇室私有地で家族で雪合戦をして遊んでいる時に一度、アナスタシアが中に石を入れた雪だるまを投げて姉タチアナの顔面に直撃させたこともあった[16]。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たるニーナ・ゲオルギエヴナ公女は「邪悪だと思われるぐらいに扱いにくかった」と振り返っている[17]。「私が名付け親になってあげた愛しい娘」とアナスタシアを可愛がった叔母のオリガ大公女も「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している[14]。サンクトペテルブルクのオペラハウスに招待されたアメリカ合衆国のベストセラー作家外交官の妻でもあるハリー・アーミニー・リーブズ英語版は「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入ったチョコレートを食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している[18]。しかし、4人娘の養育を担当したマーガレッタ・イーガー英語版にはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした[19]

エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う外反母趾に悩んでいた[20]。また、背中の筋肉も弱く、週2回のマッサージ治療が施されたが、それを嫌がってよくベッドの下や戸棚の中に隠れていた[21]。趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さなかったと言われている[22]日本でも彼女が撮った写真を集めた写真集「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」(ISBN 978-1250020208)が出版された。

ラスプーチンとの繋がり[編集]

1916年。父のニコライ2世に勧められて喫煙するアナスタシア
1914年頃
1915年頃。マリア(左)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたアナスタシア

マリアの叔母のオリガ大公女はグリゴリー・ラスプーチンとニコライ2世の子供達との関係について「すべての子供達が彼を好きなように見えた」「完全に彼に打ち解けていた」と振り返っている[23]

ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された[24]。解雇されたチュッチェヴァはロマノフ家の他の人間にニコライ2世一家の話をした[25]。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはニコライ2世の妹(アナスタシアの叔母)のクセニア大公女には、ラスプーチンが寝る用意をしている皇女達のところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。彼女の話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている[26]

1910年春には皇室の女家庭教師マリア・イヴァン・ヴィシュニャコヴァがラスプーチンにレイプされたと主張した。ヴィシュニャコヴァは皇后が暴行の報告を信じようとせず、彼女から「ラスプーチンの行いは全て神聖なるものです」と言われたと述べた[27]。ヴィシュニャコヴァはラスプーチンを告発したが、彼女は1913年にアレクサンドラによって解雇された[28]

ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達をも誘惑したという噂が世間に広まった[29]。ラスプーチンはアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を公開していた。アナスタシアも「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたにお会いしたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。あなたが訪問するであろう時にはいつもママに聞きます。・・・とても優しくしてくれるので、いつも親愛なるあなたのことを考えています」と書いた手紙をラスプーチンに送った[30]。このためにラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の皇女、女官侍女)のアンナ・ヴィルボヴァ英語版のヌードが背景に描かれたポルノ漫画まで登場した[31]。スキャンダルが広まった後、ニコライ2世はしばらくサンクトペテルブルクを離れるようにラスプーチンに対して命じ、ラスプーチンはパレスチナへの巡礼の旅に出た[32]。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は1916年12月17日(グレゴリオ暦12月29日)に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は彼女らは年齢の割に困難な道筋を経験し、魂が大いに発達していると言って私達の女の子にとても満足しています」と書いている[33]

A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の皇女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという[34]。ラスプーチンはアナスタシアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。アナスタシアも12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した[35]

2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは皇女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している[36]

第一次世界大戦中の奉仕活動[編集]

第一次世界大戦中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。二人は彼女達の母親や2人の姉のように赤十字看護師になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒にチェッカービリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「リスのような笑顔」を持ち、早歩きしていたことを思い起こした[37]。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした[38]

ロシア革命と監禁[編集]

1917年春。マリア(手前)、タチアナ(奥)と
1917年冬にトボリスクにて。左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ
1918年春にトボリスクにて

1917年2月23日(グレゴリオ暦で3月8日)に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世が最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにある軍総司令部スタフカ)に向かうために首都を離れたばかりだった[39]。新たに成立した臨時政府代表から退位を迫られたニコライ2世は3月2日(グレゴリオ暦で3月15日)に「つい先程まで、私は帝位を息子のアレクセイ皇太子に譲るつもりでいた。しかし、私は病弱な自分の息子と別れることは出来ないと悟った」と述べ、息子では無く弟のミハイル大公に皇位を譲る決断をした[40]。ところが、ミハイル大公は臨時政府左派のアレクサンドル・ケレンスキーから「帝位に就けばロシアを救うどころか滅ぼすことになる。専制に対する国民の不満は高まっている。そうなれば、あなたの生命は保証出来ない」と言われるなど脅されたために即位を辞退せざるを得なくなり、他の人物に譲位もしなかったためにロマノフ朝は滅亡した[41]

ニコライ2世は身柄を拘束された形で同年3月9日にツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に戻り、既に自宅軟禁に置かれていた妻や子供達と再会した[42]ボリシェヴィキが接近した時、ケレンスキーを首班とする臨時政府はニコライ2世一家を既にシベリアトボリスクに移送していた[43]。ボリシェヴィキがロシアの大部分の支配権を掌握した後、アナスタシアと彼女の家族はエカテリンブルクにある「特別目的の家」と呼ばれたイパチェフ館に送り込まれた[44]

トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、十月革命によって権力が臨時政府からソビエトに移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた[45]。4人の皇女達は二月革命勃発直後にはしかに罹り、その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった[45]。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニア大公女に頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラは親友のアンナ・ヴィルボヴァらには熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた皇女達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている[45]

トボリスクでの捕われの身の不安や不確実性はアナスタシアと彼女の家族を苦しませた。1917年冬にアナスタシアは「さようなら」「私達のことを忘れないで下さい」と友人に宛てた手紙に書いた[46]。また、ロバート・ブラウニング作の若くして亡くなった少女についての物悲しい詩『Evelyn Hope』を題材に「When she died she was only sixteen years old.Ther(e) was a man who loved her without having seen her but (k)new her very well. And she he(a)rd of him also. He never could tell her that he loved her, and now she was dead. But still he thought that when he and she will live [their] next life whenever it will be that・・・彼女は亡くなった時、まだ16歳だった。彼女を見たことは無かったが、彼女についてとてもよく知り、愛した男がいた。そして彼女もまた彼について聞いていた。彼は彼女に愛していると伝えられず、そして今彼女は亡くなった。それでもやはり彼は二人が来世を生きる時のことを考えていた。・・・)」とスペルミスの目立つ英語で書いた手紙を彼女の英語の家庭教師に宛てて送った[46]

エカテリンブルクに到着したアレクサンドラが彼女とニコライ2世、マリアが到着後に検査されて物品が没収されたことを伝え、警告する手紙を送ってからはトボリスクに残ったアナスタシアと彼女の姉のオリガとタチアナは検査をパスする目的で自分の衣服に宝石を縫い付けた。彼女達の母親は予め決めておいた宝石のコードワード英語版、「医薬品」と「セドネフの持ち物」の語を使用して伝えた。アレクサンドラ専属のメイドアンナ・デミドヴァがピエール・ジリヤールの妻、シューラ夫人に宛てた手紙の中で指示が出された[47]

グレブ・ボトキンはトボリスクでは一家が監禁されている建物の中に入ることは許されなかったが、水彩の動物画を何枚も描き、人に頼んでアナスタシアに届けてもらった。まもなく一家が他の地へ移送される事を知ったボトキンはトボリスク総督官舎の敷地の周りを歩き、窓辺にアナスタシアが独りで立っているのを発見して手を振った。彼女も笑顔で手を振って応えたという。これが彼がアナスタシアを見た最後となった[48]

アナスタシアは人生の最後の数ヶ月で気晴らしの方法を見付けた。1918年春に彼女は家族の他のメンバーと一緒に両親や他の人々を楽しませるために芝居を行った。家庭教師のチャールズ・シドニー・ギブス英語版によると、誰もが彼女の演技に大笑いしたという[49]。エカテリンブルクに先に移った姉のマリアに宛てた1918年5月7日の手紙では自身の悲しみや弟アレクセイの病状の悪化の心配にも関わらず「私達がブランコで遊び、大笑いしながら着地した時、とても気持ちが良かったんです! 本当に! 私は昨日、そのことについて姉達に何度も話したので彼女達はうんざりしていましたが、私はまだその話をし続けることが出来ます。私達が経験した素晴らしい時間! 誰もが単純に喜び叫ぶことでしょう! 」と書いて喜びの瞬間を表現した[50]

トボリスク滞在時のアナスタシアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている[51]

アナスタシア・ニコラエヴナは皆と違い、やや無骨で粗かった。彼女は完全に不真面目でした。勉強に取り組んだり、予習しようとはしませんでした。彼女はいつもマリア・ニコラエヴナと一緒でした。どちらも、まったくもって科学の授業で遅れを取っていました。彼女達は作文を書くことが出来なかったし、自分の考えを表現することに完全に不慣れでした。・・・アナスタシア・ニコラエヴナは基本的に子供っぽかったので、彼女は幼い女の子のように扱われました。

イパチェフ館での生活[編集]

1918年5月。トボリスクからエカテリンブルクへ向かう船にて。既知の最後の写真

1918年5月にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイらはエカテリンブルク市内にあるイパチェフ館に監禁されている両親達に合流した。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンドル・ストレコチンはアナスタシアの性格について一番年の近い姉のマリア同様に親しみやすく、「人なつっこくて非常にお茶目だった」と振り返っている。別の警護兵は「小悪魔だ! 彼女はいたずら好きで、たまにしか疲れないように思えた。生き生きとして、サーカスをしているかのように、犬と喜劇のパントマイムを行うのが好きだった」と述べている[52]。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の皇女を「テロリスト」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を述べた[53]

アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、パンを作る料理人イヴァン・ハリトーノフの手伝いをした[54]

厳重な監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。外の景色を眺め、新鮮な空気を吸おうとしたアナスタシアは白ペンキで塗られ、密閉された館の窓にかなり動揺していたという[55]

7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にアナスタシアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。劇的な変化に気付いた司祭は「何か恐ろしいことがそこで起こっている」と語った[56]

ところが、7月15日のアナスタシアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが背を向けて部屋を去った時に舌を突き出した[57]

7月16日夜、反ボリシェヴィキ勢力の白軍がいよいよエカテリンブルク近くまで迫ったために早々と夜間外出禁止令が出された[58]

殺害[編集]

皇帝一家殺害現場

ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、スパニエルのジェミーを腕に抱いていた[59]。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、アナスタシアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害を実行することを発表した。アナスタシアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた[60]

最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、フットマンアレクセイ・トルップが殺害され、主治医のエフゲニー・ボトキンとメイドのアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人が足が不自由なために椅子に座っていた弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗し、別の兵士が頭部に向けて発射した弾丸によって殺害された。その後に姉のオリガとタチアナはそれぞれ頭部に向けて発射された一発の弾丸によって殺害された[61][62]

まだ生き残っていたアナスタシア、マリア、デミドヴァは部屋の窓近くの床に倒れていた。殺害実行者の一人、ピョートル・エルマコフ英語版は銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃って殺害したと主張している。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。部屋の外へ移動させようとする時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。一方は起き上がって腕を頭の上まで伸ばして叫び、他方は口から血を流しながらうめいて身体を少し動かした。前者は意識を失っていたマリアで、後者はアナスタシアだと見られている。保管されているエルマコフの供述書には書かれていないが、彼は妻に銃剣でアナスタシアを絶命させたと話している。また、ユロフスキーは少なくとも1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。しかし、マリアの後頭部には暴力の痕跡は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている[63]。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが一番最後に死亡したとしている[64]

アナスタシア伝説[編集]

1916年頃。左からアナスタシア、オリガ、ニコライ2世、アレクセイ、タチアナ、マリア。後ろにコサックが並んでいる

警護兵の何人かの証言は皇帝一家に同情的な警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。銃殺隊員達は緊張と興奮を鎮めるためにウォッカを飲んでいたし、隊長のユロフスキーでさえ眼前に横たわる遺体の数を数え間違えたほどであった[65]。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた[66]。 アナスタシア生存説は20世紀の最も有名な謎の一つであった。数多くの女性が自分がアナスタシアであると主張し、他の家族が殺害された状況でどのように生き延びたかに関して様々な物語を提供した。ソ連共産党当局がその後何年も「ニコライ2世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という偽情報ソ連のプロパガンダ英語版)を提供し続けたこともこうした噂の広まりを助長した[67][68][69]

一家殺害後に出現したロマノフ家の詐称者英語版は全員合わせて200人以上もいたと言われている[70]。この中で最も知られているアンナ・アンダーソン1920年2月にドイツ国ベルリンで自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である[71]

1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋からラントヴェール運河英語版に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。

自殺未遂から2年後、アンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアからルーマニア王国へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーはブカレストの市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は孤児院に預けられたという[72]。しかし、ルーマニア王妃マリアが後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった[73]1925年7月17日、かつてアナスタシアのフランス語家庭教師を務めたピエール・ジリヤールの妻シューラ夫人がアンダーソンを訪れたが、そばの人に彼女は誰なのか聞かれて「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ大公女と勘違いしていたという[74]

ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて入院していたフェリックス・ダッセルはマリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した[75]1958年5月23日、ハンブルクにおける法廷の供述で、クライスト男爵夫人がアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話を語っていたことを証言した[76]

また、第一次世界大戦中の1916年に当時のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたことがアンダーソンによって初めて公に暴露された。ドイツとロシアが敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した[77]。アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公の訪問について知っている亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった[78]

アナスタシアの幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿に長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーン英語版は40年の空白があったにも関わらず、1957年に1週間毎日数時間ずつアンダーソンと会い、宮中の些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方がアナスタシアそのものであると感じ、本物だと確信したことを正式に確認している[79]

アナスタシアとして認知してもらい、一家の遺産を相続するためにアンダーソンの支持者が長年続けた法廷闘争は1970年2月17日に終焉を迎えた。西ドイツ最高裁判所はアナスタシアであることを証明するのに十分な証拠を提供していないということで訴えを退けた。この裁判に明確な決着を付けず、独自の判断も示さなかった[80]

アンダーソンは1984年2月12日肺炎で亡くなり、火葬にされた[81]。死後10年が経過した1994年に彼女が生前に手術した際に摘出したの一部組織の標本を使用してDNA鑑定が実施された。ところが、科学者達がミトコンドリアDNAを比較した結果、アレクサンドラの親戚であるエジンバラ公フィリップのものとは遺伝的な繋がりが認められなかった[82]。一方で、ポーランド生まれの工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンナ・アンダーソンが登場する直前に失踪)の甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた[83]

ユージニア・スミス英語版1963年10月にアメリカで『Autobiography of HIH Anastasia Nicholaevna of Russia』を出版して自身がアナスタシアであることを主張して注目を浴びた[84]ポリグラフの専門家や元CIAのエージェントが彼女を嘘発見器で調べたところ、アナスタシア本人であると結論付けられた[85]

ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ英語版は1920年に身分証明書を偽造して中華民国に旅行しようと企み、ボリシェヴィキ当局によって逮捕された。自身がアナスタシアであることを主張してイギリス国王ジョージ5世に助けを求める手紙を書き、大使館経由で送ろうとしたが、失敗した。その後は監獄と精神病院を転々として1971年に亡くなった。カザンの病院長は「彼女は自分がアナスタシアだという主張を除けば、完全に正気だった」と述べている[86][87]

この他にはロシア皇室の衛兵を務めていたピョートル・ザミアトキンという人物が他の家族の殺害後にアナスタシアと彼女の弟アレクセイをブルガリアの小さな村に避難させたと語った。ザミアトキンによるとアナスタシアはエレオノーラ・クルーガー英語版という名で生活し、1954年に亡くなった[88]。また、アナスタシアとその姉マリアであると主張する2人の若い女性が1919年ウラル山脈において司祭によって発見され、1964年に亡くなるまで2人は修道女として生き、アナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬された[89]

1918年8月初め、ペルミに投獄されていたエレナ・ペトロヴナ(アナスタシアの遠いいとこにあたるイオアン・コンスタンチノヴィチ公の妻)のもとに警護兵がアナスタシアと名乗る少女を連れて来て、本当に皇帝の娘なのかどうか尋ねた。ペトロヴナがその少女を知らないと答えると、警護兵は少女をどこかへ連れ去ったという[90]。1918年9月にペルミ北西の鉄道駅、第37引込線で逃亡を試みた若い女性が再び捕らえられたことも報告されている。目撃者はマクシム・グリゴリエフ、タチアナ・シトニコフ、フョードル・シトニコフ(タチアナ・シトニコフの息子)、イヴァン・クークリン、マトリョーナ・クークリナ、ヴァシリー・リャボフ、ウスチニア・ヴァランキナ、パーヴェル・ウトキン(事件後に女性を診察した医師)の8人である[91]。白軍調査官はこのうちはっきり娘の顔を見たと証言した4人に別個に皇帝一家の写真類を見せたが、いずれも目撃した娘に似ている女性としてアナスタシアを指差したという[92]。また、ウトキン医師はチェーカーのペルミ支部で診察した女性の名前を聞いたところ「私は陛下の娘のアナスタシアです」と答えたことを白軍調査官に語っている。ウトキンは名前のアルファベットの中からどれか一文字を使ったらいいだろうという指示で処方箋に「N」という文字を書き込んだ。のちに白軍調査官はこの処方箋を支部近くにある薬局では無く、支部からは少し不便な場所にある地方評議会の薬局で発見した[93][94]。この他にも1918年7月17日の一家殺害事件の後の数ヶ月間にアナスタシアと彼女の3人の姉、母親アレクサンドラと見られる女性5人をペルミで目撃したという証言が何例も報告されているが、近年ではそれらの証言は単なる噂に過ぎないものとして、あまり重要視されなくなっている[90]

アナスタシアの生存の噂はボリシェヴィキの兵士やチェーカーが逃走した彼女を見付けるために家や鉄道を捜索していたというほぼ同時期の複数証言によって潤色がなされた[95]。1919年春にアナスタシアと見られる皇女の1人が逃走したという新しい証言がしきりに出てくるのを白軍の調査官が発見している[96]

ブレスト=リトフスク条約の調印に尽力した在露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハドイツ語版は「皇帝の運命はロシア人自身が決めることだ。我々の関心は当面、ロシア領内にいるドイツの(血を引く)皇女達の安全にある」との見解を表明していた[97]。1918年8月29日にロシア側が皇帝の家族を取引材料として監獄に囚われの身となっていたドイツの革命指導者カール・リープクネヒトの釈放を求めていることも注目すべき点である。ところが、それから一ヶ月も経たぬうちにロシア側はこの問題を避けるようになっていき、実は一家全員揃って7月にエカテリンブルクで殺害されていたのだと見られるようになった[98]

遺骨の発見[編集]

1994年。複顔術によって生前の姿に顔面が再建された

1991年にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された[99]。埋葬地は1979年夏に発見されていたが、当時はまだ共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた[99]。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間でジレンマがあった。アメリカの法医学博士ウィリアム・R・メイプルズ英語版がアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した[100]。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた[101]

ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚のエジンバラ公フィリップに遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている[102]

2007年8月23日に、ロシアの考古学者はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致するように思われたエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた部分的な骨格の発見を発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった皇女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「硫酸の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には金属探知機が使用された[103]2008年4月30日にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の皇女のいずれかであることが証明されたと発表した[104]。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。

DNA鑑定はアレクサンドラ、アレクセイ、アレクセイの4人の姉のうちの1人が血友病の因子を保有していたことも明らかにした。アメリカの科学者はその1人はマリアだと推定したが、ロシアの科学者はその1人をアナスタシアと推定した[105]

列聖と再評価[編集]

7月17日の他の殺人被害者と同じく1981年在外ロシア正教会によって列聖された[106]。その19年後の2000年にはロシア正教会もアナスタシアと彼女の他の6人の家族をパッション・ベアラ英語版として列聖した[107]

1998年7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクのペトル・パウェル大聖堂に埋葬された[108]

2009年10月16日ロシア連邦検察庁ロシア語版はニコライ2世一家を含めたボリシェヴィキによる赤色テロの犠牲者52名の名誉の回復を発表した[109]

大衆文化への影響[編集]

1956年公開の映画『追想』主演女優のイングリッド・バーグマン。この映画で自身2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した

アナスタシアが実は生存しているという伝説を下敷きにしてアメリカを中心に数十の本や映画が制作された[110]。最古の作品は1928年公開の映画『Clothes Make the Woman』。ハリウッド映画の中でアナスタシアの役を演じる主役の女性は彼女を以前救出したロシアの兵士によって本物のアナスタシアであることを認められた[111]

最も有名なのが主役のアンナ・コレフ役をイングリッド・バーグマンが演じた1956年公開の映画『Anastasia』(邦題:『追想』)である。架空のパヴロヴィッチ・ボーニン将軍役をユル・ブリンナー、父方の祖母であるマリア皇太后役をヘレン・ヘイズが演じた。セーヌ川に身を投げて自殺しようとして救助された記憶喪失の女性コレフをボーニン将軍ら4人はアナスタシアに仕立ててマリア皇太后を騙すことで、ニコライ2世がアナスタシアのためにイングランド銀行に預けていた多額の信託金を獲得しようと企む。ところが彼女と対面したマリア皇太后は妙な咳から本物のアナスタシアであることに気付くことになる[112]1997年にはこの作品のリメイクとしてアニメ映画Anastasia』(邦題:『アナスタシア』)も公開され、アナスタシアの声はメグ・ライアンが担当した[113]

1986年にはピーター・カースによって3年前に出版された本『The Riddle of Anna Anderson』が原作となった『Anastasia: The Mystery of Anna』(邦題:『アナスタシア/光・ゆらめいて』)が二部構成のテレビ映画として放送された。82歳で亡くなるまでアナスタシアであることを主張し続けたアンナ・アンダーソンの人生を詳述しており、1918年のエカテリンブルクの一家虐殺事件からの脱出劇も具体的に取り上げられている。大人のアンナ・アンダーソン役はエイミー・アーヴィングが演じた[114]

2004年発売のPlayStation 2RPGゲーム『シャドウハーツII』ではメインキャラクターの1人としてアナスタシアが登場した[115]

系譜[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. ロシア皇帝ニコライ1世
 
 
 
 
 
 
 
8. ロシア皇帝アレクサンドル2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. プロイセン王女シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
4. ロシア皇帝アレクサンドル3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世
 
 
 
 
 
 
 
9. ヘッセン大公女マリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ
 
 
 
 
 
 
 
2. ロシア皇帝ニコライ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
10. デンマーク国王クリスチャン9世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ
 
 
 
 
 
 
 
5. デンマーク王女ダウマー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
11. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
1. ロシア大公女アナスタシア・ニコラエヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世 (= 18)
 
 
 
 
 
 
 
12. ヘッセン大公子カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ (= 19)
 
 
 
 
 
 
 
6. ヘッセン大公ルートヴィヒ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. プロイセン王子ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
13. プロイセン王女エリーザベト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. ヘッセン=ホンブルク方伯女マリアンヌ
 
 
 
 
 
 
 
3. ヘッセン大公女アリックス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世
 
 
 
 
 
 
 
14. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
7. イギリス王女アリス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. ケント・ストラサーン公エドワード
 
 
 
 
 
 
 
15. イギリス女王ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 

関連作品[編集]

書籍
映画
アニメ
ゲーム
漫画
  • 武本サブローさいとうたかおプロ:『北の密使』(リイド社、1985年) - アナスタシアの一つ上の姉である第三皇女マリアが妹(第四皇女。代わりにアナスタシアは第三皇女)という史実と異なる設定になっている(ミスか意図的な物かは不明)。史実での人相(アナスタシア:まだ幼い平凡な容姿、マリア:10代半ば前後の長髪の美少女)や性格(アナスタシア:病弱で弱弱しい、マリア:闊達)も、作品中のアナスタシアとマリアとで全て逆となっており、作中冒頭で登場している(実際に撮影された写真画像を基にした)ロマノフ一家撮影写真カット絵でも、マリアの方の顔部分クローズアップがアナスタシアの顔として紹介されている。
  • さいとうたかおプロ:『ゴルゴ13』単行本 第81巻収録(文庫サイズ版 第68巻収録)第277話「すべて人民のもの」(小学館、1988年) - 主人公の出自とロマノフ王家の繋がりの疑惑を描いた作品。3年前に同じくさいとうたかおプロが発表した「北の密使」と設定に幾つかの共通(アナスタシアが日本軍特務機関の手引きでシベリア方向へ逃亡、逃亡に同行・護衛する日本軍兵士と恋に落ちる等)が見られるが、アナスタシア以外の登場人物の名前は両作品別個で、作品世界は繋がっていない。
  • 杉浦茂:『ガンモドキー』
  • 宇野比呂士:『天空の覇者Z
  • 平野耕太:『ドリフターズ

脚注[編集]

  1. ^ a b Peter Kurth (英語). Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. Little Brown and Company. p. 88-89. ISBN 0-316-50787-3. 
  2. ^ The Grand Duchesses — OTMA” (英語). Alexanderpalace.org. 2014年1月24日閲覧。
  3. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 43. ISBN 978-4042778011. 
  4. ^ Robert K. Massie (英語). Nicholas and Alexandra. Dell publishing company. p. 153. ISBN 0-440-16358-7. 
  5. ^ a b James Donahue. “The Strange Anastasia Mystery” (英語). The Mind of James Donahue. 2014年6月24日閲覧。
  6. ^ Charlotte Zeepvat (英語). The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album. Sutton Publishing. p. 14. ISBN 0-7509-3049-7. 
  7. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 50. 
  8. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. ちくま新書. p. 91. ISBN 978-4480057679. 
  9. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 55. 
  10. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 132. 
  11. ^ Charlotte Zeepvat. The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album. p. 153. 
  12. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 56. 
  13. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 56-57. 
  14. ^ a b ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 59. 
  15. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 133. 
  16. ^ Greg King (英語). The Romanovs: The Final Chapter. Random House. p. 166. ISBN 0-394-58048-6. 
  17. ^ Greg King (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 50. ISBN 0-471-20768-3. 
  18. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 62. 
  19. ^ Helen Rappaport (英語). The Romanov Sisters: The Lost Lives of the Daughters of Nicholas and Alexandra. St. Martin's Press. p. 94. ISBN 978-1250020208. 
  20. ^ Peter Kurth. Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. Little Brown and Company. p. 106. 
  21. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko (英語). A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. Doubleday. p. 327. ISBN 0-385-48673-1. 
  22. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 58. 
  23. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 139-140. 
  24. ^ エドワード・ラジンスキー (英語). The Rasputin File. Doubleday. p. 139. ISBN 0-385-48909-9. 
  25. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 208. 
  26. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 330. 
  27. ^ Vladimir Moss. “The Mystery of Redemption” (英語). St. Michael's Press. 2014年6月24日閲覧。
  28. ^ エドワード・ラジンスキー. The Rasputin File. p. 129-130. 
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  30. ^ Victoria's Dark Secrets Chapter6 ANASTASIA” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年6月24日閲覧。
  31. ^ Peter Kurth. Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. p. 115. 
  32. ^ Peter Kurth. Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. p. 116. 
  33. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 489. 
  34. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 507. 
  35. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 511. 
  36. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 90. 
  37. ^ Peter Kurth (英語). Anastasia: The Riddle of Anna Anderson. Back Bay Books. p. 187. ISBN 0-316-50717-2. 
  38. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 71. 
  39. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 167-168. 
  40. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 181-182. 
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  43. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 57-59. 
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  46. ^ a b Peter Kurth. Anastasia: The Riddle of Anna Anderson. p. 14. 
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  50. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 619. 
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  57. ^ Helen Rappaport. The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. p. 172. 
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  60. ^ Helen Rappaport. The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. p. 184-189. 
  61. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 303. 
  62. ^ Helen Rappaport. The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. p. 190. 
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  64. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 87. 
  65. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 92. 
  66. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 314. 
  67. ^ Greg King, Penny Wilson (英語). The Resurrection of the Romanovs: Anastasia, Anna Anderson, and the World's Greatest Royal Mystery. Hoboken: John Wiley & Sons. p. 67. ISBN 978-0470444986. 
  68. ^ Helen Mingray, John Klier (英語). The Quest for Anastasia: Solving the Mystery of the Lost Romanovs. London: Smith Gryphon. p. 70-71、82-84. 
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  70. ^ - The Pretenders -” (英語). Romanov-memorial.com. 2014年6月25日閲覧。
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  72. ^ アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳). ロマノフ家の最期. p. 262. 
  73. ^ 桐生操. 皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって. 新人物往来社. p. 159. ISBN 978-4404018120. 
  74. ^ 桐生操. 皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって. p. 161. 
  75. ^ アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳). ロマノフ家の最期. p. 303. 
  76. ^ 桐生操. 皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって. p. 171-172. 
  77. ^ アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳). ロマノフ家の最期. p. 288-290. 
  78. ^ 桐生操. 皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって. p. 172-174. 
  79. ^ アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳). ロマノフ家の最期. p. 304-305. 
  80. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 397. 
  81. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 453-455. 
  82. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 39-40. 
  83. ^ Greg King. The Romanovs: The Final Chapter. Random House. p. 194-229. 
  84. ^ Greg King. The Romanovs: The Final Chapter. Random House. p. 157. 
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関連項目[編集]