ヴィクトリア湖
座標: 南緯1度0分0秒 東経33度0分0秒 / 南緯1度 東経33度
| ヴィクトリア湖 | |
|---|---|
ヴィクトリア湖の衛星画像 |
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| 所在地 | ケニア、ウガンダ、タンザニア |
| 面積 | 68,800 km2 |
| 周囲長 | 3,440 km |
| 最大水深 | 84 m |
| 平均水深 | 40 m |
| 貯水量 | 2,750 km3 |
| 水面の標高 | 1,134 m |
| 成因 | 構造湖 |
| 淡水・汽水 | 淡水 |
| 湖沼型 | - |
| 透明度 | 0~2 m |
ヴィクトリア湖(ヴィクトリアこ、英語: Lake Victoria)は、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大(68,800 km2)の湖である。半スワヒリ語ではヴィクトリア・ニャンザ (Victoria Nyanza)とも呼ばれ、タンザニアではウケレウェ (Ukerewe)、ウガンダではナルバーレ (Nalubaale)として知られていた。
目次 |
[編集] 概要
ナイル川の主流の一つ、白ナイル川の源流となっている。世界第3位の湖水面積を誇り、湖の中にはウガンダ領のセセ諸島 (Ssese Islands) やタンザニアのウケレウェ島をはじめとする約3000の島々がある。
[編集] 形成
ヴィクトリア湖は、ちょうどグレート・リフト・バレーに囲まれているが、ヴィクトリア湖の形成はこのグレート・リフト・バレーが原因であると考えられている。グレート・リフト・バレーは、約1000万~500万前年から地表が隆起し始めたと考えられているが、ちょうどヴィクトリア湖の両側に隆起が発生し、その間が陥没することで湖ができたという説が有力である。
[編集] 水系
面積は広いものの水深は非常に浅く、最深部でも84mしかない。周囲の降水量が多いため、ブルンジから流れるルヴィロンザ川を合わせたルワンダから流れてくるカゲラ川などの多数の河川が流入するが、流出河川は北部のジンジャから流れ出すナイル川しかない。ジンジャの流出口にはオーエン・フォールズ・ダムが建設され、発電をおこなっている。
[編集] 生態系と漁業
ビクトリア湖は代表的な古代湖であり、およそ100万年の歴史をもち、多くの固有種が進化し生息する『ダーウィンの箱庭』としても有名だが、近年ナイルパーチというスズキ亜目アカメ科の全長2mを超す肉食の外来魚が食用として放流されて定着し、湖の固有種が激減している。これまでにハプロクロミス亜科のシクリッド数百種が姿を消し、そのうちの多くは絶滅したと考えられている。また、「ンゲゲ」(ngege)と呼ばれる固有種のティラピア(Oreochromis esculentus)も絶滅した。食用に加工されたナイルパーチはヨーロッパや日本へ輸出されており、ヴィクトリア湖周辺の地域にとって重要な外貨獲得源となっている。ナイルパーチによる生態系の破壊とその輸出で支えられている近郊の社会の貧困と荒廃は、ドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』にも取り上げられた。また、固有種とは別のティラピアも放流され、繁殖している。
一方で、これらの漁業が沿岸地域の産業を支えていることは否定できない。ヴィクトリア湖での漁獲高はタンザニアの総漁獲高の半分を占め、インド洋などの海水面やタンガニーカ湖、マラウィ湖などをすべて合わせたものとほぼ同じである。ナイルパーチは主に輸出に回される一方、タンザニア国内で好まれ消費されるのはティラピアであり、湖畔だけでなく海に面した首都ダルエスサラームなどでも消費され、重要なタンパク源となっている[1]。
湖の中には住血吸虫がいると言われ、泳ぐことはできない。近年では生活排水による富栄養化によってホテイアオイなどが繁殖するなど水質汚濁も問題となっている。
[編集] 歴史
ヴィクトリア湖に関する最初の記録は、アフリカ内陸部に金や象牙などの交易路を持っていたアラブ人交易商たちによるものである。1160年頃の地図において、すでにヴィクトリア湖の詳細な表現がなされており、ナイル川の水源であることも示されていた。
1500年ごろから、北岸において王国の形成が始まる。最初に大きな勢力を持ったのは北西岸にあったブニョロ王国であったが、やがて北岸の肥沃な地域を領するブガンダ王国が勢力を拡大し、北岸から北西岸にかけての地域を占有した。
ヨーロッパ人が初めてこの湖の存在を確認したのは、1858年、イギリス人の探検家 ジョン・ハニング・スピークによってである。彼は、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行い、まず二人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、この湖を確認した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、湖がナイル川の水源である事は確認できななかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した[2]。
1875年、アメリカの探検家ヘンリー・モートン・スタンリーによって、水源であることが確認された[3]。
その後はアフリカ分割の対象となり、19世紀末には北岸がイギリス領、南岸がドイツ領東アフリカとなった。第一次世界大戦ではアフリカ戦線の戦場となり、ドイツ軍のパウル・フォン・レットウ=フォルベックが湖上に創設した小艦隊はイギリス軍を悩ませた。
[編集] 人文
ヴィクトリア湖周辺は、とくに北部に肥沃な平原が広がっており、南部にも平原が、東部と西部は丘陵に囲まれているが、総じてなだらかな地形であるといえる。また、湖周辺は年間降水量が1200mmを超え、農耕に適している。そのため、東アフリカ有数の人口密集地となっており、人口密度はなおも増え続けている。湖岸には、最大都市である北岸のウガンダ首都カンパラを始め、北岸ウガンダのエンテベやジンジャ、東岸ケニアのキスム、南岸タンザニアのムワンザやブコバなどの大都市が点在している。周辺では、とくに輸出用作物として綿花やコーヒー、自給用作物としてトウモロコシやソルガムなどが栽培されている。民族としては、ウガンダに属する北西岸のアンコーレ人、北岸のガンダ人、その東のソガ人、ケニアに属する北東岸のルオ人やカレンジン人、タンザニアに属する南岸のスクマ人などが大きな民族グループである。ジンジャにあるオーエン・フォールズ・ダムはこの地域最大のダムであり、ケニアへと電力を輸出している。
植民地時代にはこの湖畔はすべてイギリス領となっており、そのため交易が盛んであった。独立後も沿岸3政府間では関税協定が結ばれ、東アフリカ共同体が結成されて経済統合を目指しており、その内海であったヴィクトリア湖経済も活況を呈していた。しかしその後3国の路線対立が表面化し、ウガンダの政治の混乱や3国の経済の低迷により交易も停滞し、1978年にはウガンダとタンザニアの戦争によって共同体はついに崩壊。交易に大打撃を与えた。その後、3国間の関係は復活し、交流もまた戻りつつある。
[編集] 交通
ヴィクトリア湖は国際水域であり、沿岸三国の交通の要となっている。キスムやカンパラ、ムワンザ、ブコバなどを基点として、湖畔の各町村や湖に浮かぶセセ諸島、ウケレウェ島への便が発着し、また上記四都市間などを結ぶ国際便も就航している。しかし近年では過積載や老朽化による事故も伝えられ、2010年にはウガンダ領海内でフェリーの転覆事故が発生した。
ヴィクトリア湖は古くから沿岸諸民族の交易ルートとなっていたが、本格的な交通の整備が始まったのは1901年にイギリスによって建設されたウガンダ鉄道が西岸のキスムに到達して以降である。これにより湖周辺の農作物の安価な輸出ルートが開け、周辺の農業開発は急速に進んだ。鉄道はさらに支線を延ばし、1931年には北岸のカンパラにまで到達。これによって湖北岸のウガンダ南部地方では綿花栽培がさかんになり、ウガンダ経済を支えるようになった。一方、南岸においてもタンガニーカ鉄道が1928年にムワンザまで到達し、湖から外部への主要ルートの一つとなった。
[編集] 水位低下
2008年3月の報道によると、水位が下がり係留されていたボートが陸に上がってしまったり、湖岸に幅10 - 20mの草地が続いていたという。NASAなどの衛星データによると、水位はピークの98年から1.5m下がっており、90年代の平均と比べても50cmも低くなっているという。原因としては、降雨量の減少と下流にあるダムへの過剰な流出があると指摘されている[4]。
干上がりかけた水たまりには蚊の幼虫が泳ぎ、マラリアが非流行地だったケニア西部の高地にも多発するようになっている [4]。 一方で、右記水位変動図に示されるように、1960年代初期の多雨期によってヴィクトリア湖の水位は2mほど上昇しており[5]、以後も以前に比べて高い水準のままであった。それが元に戻りつつあるだけだとも言える 。
[編集] 脚注
- ^ 「タンザニアを知るための50章」p105-110 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷
- ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.32-33
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.309
- ^ a b アフリカ 縮む巨大湖、蚊の巣窟に マラリアが高地にも asahi.com(朝日新聞社)2008年3月9日3時24分
- ^ 「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版、2007年4月10日(朝倉書店)p200