タチアナ・ニコラエヴナ

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タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ、1914年

タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァТатияна Николаевна Романова / Tatiana Nikolaievna Romanova, 1897年5月29日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第二皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクイパチェフ館において家族・従者と共に21歳の若さで銃殺された。正教会聖人新致命者)。

生い立ち[編集]

1906年
1910年
1911年頃。ヴォスネセンスキー・ユサール連隊[1]の正装を身につけたタチアナ
1913年

タチアナは細身で背が高く、赤褐色の髪に、濃い青灰色の瞳をしていた。皇帝の娘にふさわしい高貴な顔だちは、洗練された彫刻のようと称され、当時の人々をしてタチアナを4姉妹中最も美貌の皇女と言わしめた。

長姉のオリガ皇女に代わり、生来のリーダーシップで子供達をまとめ、妹達からは"女性家庭教師"と呼ばれ慕われた。タチアナは姉妹の誰より母のアレクサンドラ皇后と親密であり、母と娘達の意思疎通に心を砕いていた。そして、母の最愛の娘であった。姉のオリガ皇女ととても仲が良く、周囲は2人を"ビッグ・ペア"と呼んだ。これに対し、妹のマリア皇女アナスタシア皇女の2人は"リトル・ペア"と呼ばれた。4人はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた。

控えめで信心深く、バランスのとれた気性の持ち主だったと言われている。また手先が器用で、手細工を作ったり刺繍をするのが得意だった。

1911年9月10日キエフのオペラハウスで観劇中のニコライ2世の御前で発生したピョートル・ストルイピン首相暗殺の瞬間を姉のオリガとともに父の後ろにいて目撃している。ニコライ2世はマリア皇太后に宛てた手紙の中でこの日に両方の娘を狼狽させる出来事が起こったと述べている。タチアナはすすり泣き、2人はその日は眠れぬ夜を過ごした[2]

第一次世界大戦では、母アレクサンドラ皇后、姉オリガ皇女と共に看護師として従軍、負傷した兵士達の手当てをし、幾十人かの最期を看取った。

トボリスク滞在時のタチアナの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている[3]

彼女は母親の性質を受け継いでいます。彼女の非常に多くの特徴が彼女の母親と同じでした。威厳のあるただずまい、生活の中での順序の傾向、責任感。彼女は家族の統制を担当していました。アレクセイ・ニコラエヴィチの面倒を見ていました。いつも庭で皇帝と散歩していました。皇后に最も似ていました。この二人は友人でした。アレクセイ・ニコラエヴィチに付き添うために、トボリスクを離れる皇后に同行しませんでした。彼女は断然、彼女の両親にとって家族の中で最も重要な位置を占める人物でした。しかし、私には彼女が彼女の母親と同様に陽気ではなかったように思えました。何故か私は彼女とは全く会話をしなかったし、話したくもありませんでした。・・・彼女は家事を好んでいました。服を刺繍したり、アイロンがけをするのが好きでした。

結婚の交渉[編集]

幾つかの情報源によると、セルビア国王であるペータル1世は息子のアレクサンダル王子の花嫁としてタチアナを望んでいた。ニコライ2世は家族との夕食時にアレクサンダルがタチアナを多く見つめている事に気付いた。結婚の交渉は第一次世界大戦の勃発によって終了したが、タチアナはその後もアレクサンダルと手紙を交換していた。アレクサンダルはタチアナの死を知った時に取り乱した。

皇室ヨット『スタンダルト』号にて。1914年。姉オリガ、妹マリアと(中央がタチアナ)
1914年。父のニコライ2世と

イパチェフ館での生活[編集]

1918年5月からエカテリンブルクイパチェフ館に家族や従者とともに監禁されたタチアナは時折お茶を飲みながら、家族について質問したり、解放された後にイギリスで始める新しい生活の希望について語る妹と警護兵らの会話に参加した。警護兵が身の程をわきまえずにいかがわしいジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らを注意深く見つめて「このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません?良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか?許容可能な礼儀正しい男性となら、仲良くやっていけます」と𠮟りつけたこともあったという[4]。タチアナはまた、この頃には満足に歩くことが出来なくなっていた関節炎に苦しむ母親のアレクサンドラや重病を患う弟のアレクセイと一緒に座り、弟の遊びに付き合ったり、母親に朗読を聞かせたりすることに多くの時間を費やした[5]。タチアナと彼女の姉妹達は自分達で洗濯をしたり、パンを作らなければならなかった。医師エフゲニー・ボトキンは自身の腎臓の痛みを和らげるためのモルヒネを投与する注射を看護技術を持つタチアナに頼んだ[6]

7月14日は日曜日であり、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にタチアナと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している[7]。タチアナが書き記していたノートの最後のページには「あなたの悲しみは言葉で表せないほどであるが、世界の罪のためのゲッセマネの園における救い主の悲しみは計り知れず、彼と悲しみを共にすることでその中に慰めを見つけるだろう」とあり、有名なロシア正教会聖人クロンシュタットのイオアンの言葉から引用したと述べている[8]

ところが、7月15日のタチアナと彼女の姉妹は冗談を言い合うほど快活で、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった[9]

7月16日、タチアナの人生最後の一日。アレクサンドラの日記によると、午後にタチアナは母親と一緒に座り、旧約聖書文書の『アモス書』と『オバデヤ書』を拾い読みした。聖書を読んだ後に2人は座ったまま話をして時間を過ごした[10]。その後に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフ英語版が館から姿を消したことが判明した。実はロマノフ家のメンバーと一緒に彼を殺したくなかったために警護兵が少年をイパチェフ館から通りの向かいの宿舎へ引っ越させていた。しかし、殺人の計画を知らないロマノフ一家はセドネフの不在に怒っていた。タチアナとボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えることでタチアナを宥めたが、家族は納得しなかった[11]

殺害[編集]

イパチェフ館に監禁されていた元皇帝一家らは1918年7月16日の夜に眠りに付くが、遅い時間に起こされ、市内の情勢が不穏なので、家の地下に降りるように言われた。アレクサンドラやアレクセイを楽にさせるために他の家族は枕やバッグなどを運んで自分の部屋から出た。アナスタシアは家族の3匹の犬のうちの1匹、ジミーという名前のを連れて出た。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右に立ち、タチアナは彼女の姉妹や使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。元皇帝一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、彼らを指揮するユロフスキーが殺害を実行する事を発表した。タチアナと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた。7月17日の早朝の時間帯だった[12]

最初の銃の一斉射撃によって父のニコライ2世、母のアレクサンドラ、料理人イヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップが殺害され、ボトキン、マリア、メイドアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人、ピョートル・エルマコフ英語版が弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗した。最終的にアレクセイはユロフスキーが頭部に向けて発射した2発の弾丸によって殺害された。ユロフスキーとエルマコフはお互い寄り添い合って母親の遺体がある方を向いて叫び声を上げながら、背面の壁にうずくまるオリガとタチアナに近付いた。エルマコフはオリガとタチアナの両者を長さ8インチの銃剣で刺したが、これも2人の衣服に縫い付けてあった宝石によって失敗した。2人が立ち上がって逃げようとしたところに、ユロフスキーがタチアナの背後から彼女の後頭部に向けて発射した一発の弾丸によってタチアナは即死した。その直後にオリガもエルマコフが彼女の頭部に向けて発射した弾丸によって死亡した[13][14]

聖人[編集]

タチアナの遺体はニコライ2世、アレクサンドラ、オリガ、アナスタシアや4人の従者とともに殺害から80年後の1998年7月17日にサンクトペテルブルクペトル・パウェル大聖堂に安置された[15]

タチアナは他の6人の家族とともに2000年にロシア正教会によって列聖された。これより20年近く前の1981年在外ロシア正教会によって聖なる殉教者として列聖されていた。

1916年。皇帝の離宮があるツァールスコエ・セローにて。左からニロブ提督、ニコライ2世、タチアナ、オリガ、マリア、アナスタシア、アレクセイ。マリアの前はヴァシーリー公、後列左からニキータ公ロスチスラフ公ドミトリー公
1917年春に監禁地のツァールスコエ・セローにて。アレクセイ、彼女のお気に入りのフレンチ・ブルドッグ
1918年春にトボリスクにて。アレクサンドラ、タチアナの既知の最後の写真
1994年。複顔術によって生前の姿に顔面が再建された

脚注[編集]

  1. ^ 皇帝より彼女に与えられた彼女の連隊で、タチアナ皇女はその連隊の名誉大佐(指揮官)だった。彼女はこの連隊を深く愛しており、閲兵する事を非常に好んでいたと言う。ちなみに「ヴォスネンスキー」とは「キリストの昇天」と言う意味である(意訳すれば「キリスト昇天驃騎兵連隊」、となる)
  2. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko (英語). A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. Doubleday. p. 344. ISBN 9780385486736. 
  3. ^ OTMA's Camera - Tumblr” (英語). otmacamera.tumblr.com. 2014年4月24日閲覧。
  4. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 242. ISBN 978-0471727972. 
  5. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 140. 
  6. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 99. ISBN 978-0312603472. 
  7. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 276. 
  8. ^ アレクサンダー・バクラノフ (英語). The Romanovs : Love, Power and Tragedy. Leppi Publications. p. 311. ISBN 9780952164401. 
  9. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. 
  10. ^ ピーター・カース (英語). Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. Back Bay Books. p. 311. ISBN 978-0316557887. 
  11. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 180. 
  12. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 184-189. 
  13. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 303. 
  14. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 190. 
  15. ^ 17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II” (英語). Romanovfundforrussia.org. 2006年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月24日閲覧。

関連項目[編集]