ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公

ミハイル・アレクサンドロヴィチМихаи́л Александрович / Mikhail Aleksandrovich, 1878年11月22日1918年6月12日)は、ロシア大公ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第4皇子(大公)。兄に皇帝ニコライ2世がいる。一般にはミハイル大公として知られる。

軍人。中将、侍従武官長。騎兵総監。国家評議会議員。

1896年撮影。後列左がミハイル。真ん中:兄のゲオルギー大公、右:母のマリア皇太后、着席:妹のオリガ大公女
投獄中の1918年4月に秘書で友人でもあったニコラス・ジョンソン(右)とともに。自由の身になるまで髭を剃らないと誓っていた

生涯[編集]

1897年、親衛騎砲隊で軍歴を始め、騎兵中隊を指揮する。1909年5月~1911年5月、第17軽騎兵チェルニゴフ連隊長、1912年1月から近衛重騎兵連隊長。

1902年、ヴィクトリア女王の次男でザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレート)と、ロシア皇女マリアの四女ベアトリスと恋に落ちた。熱心に英語で文通を行い、結婚の約束を交わしたが、ロシア正教会の教会法は原則としていとこ同士の結婚を認めていないため[1]、この結婚話は立ち消えた。

1912年に二度離婚歴のある平民(弁護士の娘)、ナターリヤ・セルゲーヴナ・ヴリフェルト(ロシア語: Натальея Сергеевна Вульферт)とウィーンで極秘で結婚した。しかしロマノフ家は貴賎結婚を禁じており、相手の女性には「大公妃殿下」の称号は与えられず、ミハイルは帝位継承権を放棄せねばならなかった。 二人の間には結婚前の1910年に一人息子であるゲオルギーが誕生する。ゲオルギーは、1931年にフランスで交通事故で20歳で死亡した。彼の死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えることになる。 第一次世界大戦勃発と共に軍務復帰が許され、1915年、北カフカーズ出身者から編成されたカフカーズ土着騎兵師団(別名「野生師団」、ロシア語: Дикая дивизия)長に任命された。同年1月14日~15日の戦闘に対して、四等聖ゲオルギー勲章を授与された。戦時中の武勲により、妻には「伯爵夫人」の称号が許された。1917年1月19日、騎兵総監に任命。

1917年3月2日にニコライの退位を受けて皇帝に推挙されたが、帝政打倒を強く訴える臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーらにより半ば強制的に退位させられた。これにより、300年続いたロマノフ朝は終焉を迎えた。

10月革命後、1918年3月7日にボリシェヴィキに捕えられ、6月12日早朝に監禁先のペルミで秘書のイギリス人ニコラス・ジョンソンと共に現地のチェーカーにより郊外に連れて行かれ、射殺された。遺体は服を全て脱がされ、硫酸をかけられた後、灰になるまで焼かれた。ボリシェヴィキは、「帝政に反感を抱く労働者の集団」による犯行と発表したが、殺害に参加したチェーカーの関係者による発言が残されている。彼の遺体の投棄場所は、1975年イパチェフ館(ニコライ2世の処刑場所)の破壊と平行して線路が敷かれて現在に至る。

殺害から91年経った2009年6月8日、ロシア当局はミハイルとジョンソンの名誉回復を発表した。

脚注[編集]

  1. ^ あくまで原則。皇帝の許可証が得られれば可能であった。ロシア帝国におけるいとこ同士の結婚の例としてセルゲイ・ラフマニノフとナターリヤ・サーチナの婚姻がある。

参考文献[編集]

  • "Кто был кто во второй мировой войне. Союзники Германии", Залесский К.А., Москва, 2003
  • 植田樹「最後のロシア皇帝」 (ちくま新書) 、筑摩書房1998年 ISBN 4480057676