ドミトリー・パヴロヴィチ

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ドミトリー大公
1916年
1920年代

ドミトリー・パヴロヴィチ(ドミートリイ・パーヴロヴィチ;ロシア語Дмитрий Павлович Романов ドミートリイ・パーヴラヴィチュ・ラマーナフ;ラテン文字転写の例:Dmitri Pavlovich Romanov、1891年9月18日 - 1941年3月5日)は、ロシア大公ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の長男で、最後の皇帝ニコライ2世の従弟にあたる。グリゴリー・ラスプーチン暗殺の実行者として知られる。

生い立ち[編集]

1891年9月18日、モスクワ郊外のイリインスコエ村で、アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル大公とその妃、ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナゲオルギオス1世の長女)の長男として生まれる。1歳上の姉マリア(マーリヤ)・パヴロヴナ(en)がいる。ドミトリーの出生と同時に母大公妃は死亡した。

1901年頃、父パーヴェル大公がオリガ・カルノヴィチ英語版(後のオリガ・パーリィ)との再婚問題によりニコライ2世の怒りを買って海外に追放されると、姉マリアとともに伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公・エリザヴェータ大公妃(皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの姉)夫妻の手元に引き取られ、養育されることになった。

1905年2月、セルゲイ大公が馬車で外出中、エスエル(社会革命党)党員イワン・カリャーエフによって暗殺されると、ドミトリー大公は皇帝一家とともにツァールスコエ・セローで過ごす。皇帝一家との近い関係は注目されるようになり、魅力的な性格でハンサムだったドミトリーは、ニコライ2世一家のお気に入りとなった。ニコライ2世の第1皇女オリガ大公女との縁談も噂された。

なお、ニコライ2世のただ1人の男子であるアレクセイ皇太子が血友病を患っていたことから、オリガ大公女と結婚の噂のあったドミトリー大公は有力な皇位継承者と見なす向きもあるが、ロマノフ家ではパーヴェル1世によって制定された皇位継承法によって、女子の皇位継承権が否定されていたので、オリガ大公女とドミトリー大公の縁談はアレクセイ皇太子の病状とは無関係である。

大戦前[編集]

長じてドミトリー大公は、当時のロマノフ家の慣習に倣ってロシア帝国軍に入隊し、将校として近衛連隊に所属した。ドミトリー大公は騎兵将校として極めて優秀で、1912年ストックホルムオリンピック乗馬で出場、同種目で7位に入賞している。第一次世界大戦前にドミトリー大公は、ロシア国内でのスポーツ振興を目的にスポーツ競技会を開催すべく運動している。後に、このドミトリー大公の構想はソビエト政権によって引き継がれ、オリンピックに対抗して行われたスパルタキアード(w:Spartakiad)として実現した。ドミトリー大公はプレイボーイとしても知られ、社交界の中心でもあったが、彼に最も影響を与えたといえるのは親友のフェリックス・ユスポフ公爵であった。

ラスプーチン暗殺、追放、亡命[編集]

1914年第一次世界大戦が勃発し、ロシアは、連合国側に立って参戦した。戦争の長期化に伴い最初の熱狂は失せ、ロシア国内は厭戦気分と帝政に対する不満が増大した。この間、皇后アレクサンドラの信任厚かったのがグリゴリー・ラスプーチンである。ラスプーチンの秘蹟によって血友病のアレクセイ皇太子は出血を止められると皇后は盲信し、ラスプーチンは皇后の権威を笠に着て閣僚人事に容喙するようになっていった。ドミトリー大公とユスポフ公らはラスプーチンを成り上がり者の国政の壟断と見なし、戦況の悪化とともに事態を憂慮するようになっていった。

1916年、ユスポフ公らと謀ってラスプーチンを殺害する。しかし、ラスプーチン暗殺によっても帝政の崩壊を食い止めることはかなわず、ドミトリーの運命も暗転する。尊崇していたラスプーチンを暗殺されたアレクサンドラ皇后は激怒し、ドミトリー大公はペルシャ戦線に派遣された。事実上、国外追放されたドミトリー大公であったが、前線への左遷は、結果的にドミトリー大公の生命をボリシェヴィキから救うこととなる。ロシア革命によりニコライ2世を始めとする皇帝一家全員、父パーヴェル大公、伯母エラ、異母弟ウラジーミル・パーリィなどロマノフ家の大部分の皇族は、ボリシェヴィキによって殺害された。

革命後、テヘランムンバイを経てロンドン亡命する。1919年には同様に国外に亡命していたユスポフ公と再会を果たすが、その後、王政復古をめぐり2人の間には懸隔が生じた。ユスポフ公の回想録によれば、ユスポフがロマノフ朝の復辟に熱心であったのに対し、ドミトリー大公は帝政の復活について全く実現性がないと見なしていたということであった。

亡命後もプレイボーイとしてならし、さまざまな女性と浮き名を流した。ココ・シャネルとも交際し、ロシア時代のコネクションで、シャネルの香水として有名な「NO.5」の調香・開発で知られるエルネスト・ボーを紹介するなど、彼女に少なからず影響を与えた。1927年にはアメリカ人の女富豪オードリー・エメリー夫人(w:Audrey Emery)と結婚し、2人の間には男の子が生まれたが1938年に離婚している。

離婚後、ドミトリー大公は健康を害し、1930年代には慢性結核に罹った。1941年3月5日、結核により滞在していたスイスダボスの療養所で死去した。

オードリー・エメリーとの間に生まれた息子はポール・イリンスキーと名乗り、フロリダ州パームビーチの市長となった。