ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ

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ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチロシア語:Гео́ргий Алекса́ндрович, 1871年5月9日 - 1899年8月9日)は、ロシアの皇族、ロシア大公ツェサレーヴィチ(1894年 - 1899年)。皇帝アレクサンドル3世とその妻マリヤ・フョードロヴナ皇后の間に生まれた第三子・三男であり、皇帝ニコライ2世の弟。洗礼名は母方の伯父であるギリシア王ゲオルギオス1世にちなんだもの。

生涯[編集]

子供のころ、ゲオルギーは兄ニコライよりも丈夫で健康だった。ゲオルギーは小柄な兄と違って背が高く、ハンサムで非常に陽気な性格だった。母親を困らせて自分にかかりきりになってもらうため、彼はいつもなにか悪戯をしでかしていた。兄弟たちと同様、ゲオルギーはイギリス式のスパルタ教育を受けた。兄弟は軍隊式のベッドで眠り、毎朝6時に起こされて冷たい風呂に入れられた。ただし、時々は母のバスルームにある温かい風呂に入れてもらえた。ニコライとゲオルギーは居間、ダイニング・ルーム、遊び部屋と寝室を共有していたが、どの部屋も質素にしつらえてあった。母のマリヤはゲオルギーに家族生活の重要性を教え込んだ。両親の幸福な結婚生活のおかげで、ゲオルギーは多くの王家には存在しない愛情と安心に満たされた家庭で育つことになった。

1883年5月27日、ゲオルギーの両親はモスクワクレムリンの中にあるウスペンスキー大聖堂で戴冠し、皇帝と皇后になった。ニコライとゲオルギーも正装して両親の戴冠式に出席し、一族とともに皇帝夫妻となった両親に忠誠を誓った。若くして死んだ大公にとって、両親の戴冠式は経験できた数少ない大がかりな儀式となった。

青年期[編集]

ゲオルギーは皇帝夫妻の子供たちの中では一番利発だと思われていたし、また母親に似て社交的だった。ゲオルギーとニコライは同じ家庭教師に勉強を見てもらっていたが、勉強部屋は隣り合った別の部屋で行われた。二人はそろってロシア参謀幕僚大学の課程に進んだ。二人には選りすぐりの優秀な家庭教師たちがついていた。兄弟の英語教師チャールズ・ヒースは、一番年の若い叔父たち、セルゲイ大公とパーヴェル大公の家庭教師を務めたことのある人物だった。ゲオルギーとニコライは完璧に英語をマスターした。ヒースはまた皇子たちにスポーツに対する情熱を植え付け、兄弟は特に狩猟や釣りに熱中した。兄弟はまたフランス語にも堪能だったし、ドイツ語とデンマーク語もある程度は使えた。1890年、海軍への入隊を控えたゲオルギーには生涯の持病となる結核の症状が現れた。

ゲオルギー大公、1890年

皇帝夫妻は1890年、ニコライとゲオルギーを9カ月におよぶ日本への視察旅行に赴かせることにした。ゲオルギーは海軍士官候補生として、ニコライは世界の様々な場所を見ることで帝王学を修めるためにそれぞれ赴くことになった。母のマリヤ皇后はゲオルギーの病が温暖な気候の異国の地で多少とも和らぐことを望んでいた。兄弟は1890年11月4日にガッチナを出発した。ニコライとゲオルギーは戦艦でまず始めにギリシアの首都アテネに行き、そこで母方の従兄であるギリシア王子ゲオルギオスが同乗した。三人がアテネを発ってエジプトに赴き、インドボンベイに着いた時、ゲオルギーは気管支炎を発症して倒れたため、アテネに連れ戻されてすぐに皇帝の侍医の診察を受けた。一方で、ニコライも日本に着くと大津事件に遭遇し、大怪我を負うことになった。

ツェサレーヴィチ[編集]

1894年11月に父アレクサンドル3世が亡くなると、兄がニコライ2世として皇帝の地位を継いだ。ニコライは未婚で子供もいないため、ロシアの帝位継承法に則ってゲオルギーがツェサレーヴィチとなった。ゲオルギーは相変わらず体調が悪く、カフカース地方の保養地ボルジョミで療養していた。このため、ゲオルギーはサンクトペテルブルクに戻って父アレクサンドル3世の埋葬式に出席することは出来なかった。医者が長期旅行を禁じたのだった。ゲオルギーはニコライの娘たち、オリガタチアナマリヤの洗礼にも立ち会えずじまいだった。母マリヤが時おりボルジョミへ見舞いにやって来るのは、ゲオルギーの孤独な生活の大きな慰めだった。

ゲオルギーは1899年8月9日、ボルジョミで急死した。28歳だった。大公は自転車で数時間ほど散歩をしに出かけたが、遅くなっても戻らず、心配したお付きの者たちは大公を探しに出かけた。彼らが大公を発見した時はすでに遅かった。ある農婦がゲオルギーが道端に倒れているのを見つけたが、彼は口から血を流し呼吸困難に陥っていた。農婦は大公が息を引き取るまで彼を介抱した。マリヤ皇太后は息子が死んだと聞くと卒倒し、兄のニコライ皇帝も幼い頃からずっと一緒だった弟の死を深く嘆いた。

死後[編集]

ニコライ2世は、ゲオルギーの持っていた抜群に秀でたユーモアのセンスをしばしば懐かしんだ。ゲオルギーは面白い冗談を言っては兄を非常に面白がらせたのだった。ニコライは死んだ弟の残した最も面白いジョークを選りぬいて紙に書き残し、それらの紙を箱に入れて保存していた。晩年、ニコライ皇帝はその箱から紙片を取り出しては、自分の部屋で一人笑っていたという。

ゲオルギーの死後、その次の弟ミハイルが帝位継承者となったが、彼にはツェサレーヴィチの称号は与えられず、1904年に生まれたニコライ2世の一人息子アレクセイが次のツェサレーヴィチとなった。1910年、弟ミハイルは自分の息子が生まれると、この息子に次兄と同じゲオルギーという名前を付けた。このゲオルギーも1931年にフランスで交通事故で20歳で死亡した。彼の死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えた。