フーベルト・ファン・エイク

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フーベルト・ファン・エイク
『墓場の3人のマリア』
フーベルト・ファン・エイク作といわれる, ボイマンス美術館(ロッテルダム), 1410年 - 1420年頃
生誕 1366年
現在のベルギー、マースエイク
死去 1426年
分野 絵画
後援者 ブルゴーニュ公フィリップ3世
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フーベルト・ファン・エイク (Hubert van Eyck(1366年頃 - 1426年))は初期フランドル派の画家。弟に同じく初期フランドル派の画家であるヤン・ファン・エイクがいる。

目次

生涯 [編集]

フーベルトの誕生日や出生の記録はマース川流域の戦乱による破壊に巻き込まれて残っていないが、1366年頃に現在のベルギー、マースエイク (en:Maaseik) に生まれたとされている。マースエイクはベネディクト派女子修道院の庇護のもと、8世紀初頭から芸術や学問が盛んな都市だった。

しかし長期にわたる戦乱でマースエイクは衰退し、かつて隆盛だった学問も衰えてしまう。フーベルトはフランドルを転々とし、画家としての名声をフランドルで得ることになる。ブルゴーニュ公子の宮廷画家となり、ヘントの富裕な貴族の一人を顧客とすることで高く評価されるようになったのである。1421年まではブルゴーニュ公フィリップ3世から年俸を受け取っており、1424年には裁判所に絵を描き、主席裁判官から公式訪問を受けて賞賛されている。

フーベルトは1426年9月に死去し、自身が手がけた『ヘントの祭壇画』が置かれたシント・バーフ大聖堂の礼拝堂に埋葬された。16世紀からの伝承によると宝物箱に収められたフーベルトの腕はシント・バーフ大聖堂正門上に遺物として安置されている。

ヘントの祭壇画 [編集]

『ヘントの祭壇画』, シント・バーフ大聖堂, 1432年

フーベルトの描いた作品でもっとも重要なのは富裕な商人ヨドクス・フィエトの依頼で描かれた『ヘントの祭壇画 (神秘の子羊)』で、フランドル派絵画の最高峰といえる作品である。かつてはヘントのシント・バーフ大聖堂から散逸してブリュッセルやベルリンのギャラリーに分散して所蔵されていたが、現在は元通りシント・バーフ大聖堂の所蔵となっている。この祭壇画はフーベルトが制作を始めたが、その死とともに未完成になっていたものを弟ヤン・ファン・エイクが完成させた作品である。当時のほかの宗教絵画と比較して際立って特異な作品で、匹敵するのはマドリードの美術館に所蔵されている『Fount of Salvation』だけである。

『ヘントの祭壇画』は表裏あわせて24枚という多くのパネルで構成された祭壇画で、上段のパネルには審判の椅子に座るイエスを中央にして、左側に聖母マリア、右側に洗礼者ヨハネが描かれている。その外側には楽器を奏で賛美歌を歌う天使たちが、さらにその外側にはアダムとイヴが中央を見つめた姿で描かれている。下段のパネルには天使、十二使徒、預言者、殉教者、騎士、隠者などが描かれ、その中央に神秘の羊が血を流している光景が描かれている。

『ヘントの祭壇画』の裏面(外翼)

パネルの裏面(外翼)には「受胎告知」、イエス生誕を予言していた巫女と預言者が、また、下段のパネルには洗礼者ヨハネ福音記者ヨハネ、そしてその足元にひざまずくヨドクス・フィエトとエリザベト・ボルルートの夫妻が描かれている。

この作品が最終的に完成し、大聖堂のヨードクス礼拝所の祭壇に飾られたのは1432年だった。パネルの銘文には「上回る者は誰もいない偉大なる画家 (maior quo nemo repertus)」としてフーベルトを賞賛し、この不滅の作品はフーベルトが描き始め、その後ヤンが完成させたとある。

『ヘントの祭壇画』の製作を引き継いだ弟のヤン・ファン・エイクは、この作品はフーベルトとヤンが共同で描いた作品であり、ヤンだけが描いた作品であるという誤った情報を後世に残さないように望んでいた。ヤンが独りで構成し完成させた箇所も、ヤンとフーベルトが共同で描いたかのように表現したのである。ヤンと同年代の人々、ブルゴーニュ公や1432年にヤンの家を訪れたブルッヘの主席裁判官たちは『ヘントの祭壇画』はフーベルトが描き始めてヤンが完成させたという事実を知っていたと考えられる。しかし後世のフランドルの人々は『ヘントの祭壇画』へのフーベルトの業績を忘れ去り、この祭壇画に対するすべての賞賛は弟ヤンが独占することとなってしまった。

17世紀に想像で作成されたフーベルト・ファン・エイクの肖像木版画

15世紀のイタリア以外の国において、フーベルト以上に荘厳な宗教絵画を描いた画家はいない。『ヘントの祭壇画』では聖母と洗礼者の間に審判者としてイエスを写実的に描き出した。美しい表現と華麗な色使いで誠実さと深い宗教心とともにある純真さが一体となって表現され、それまでのフランドル派の作品に比べて明暗の表現や細部の豊かな描写は群を抜いていた。1410年から1420年頃にかけてフーベルトが考え出し、当時フーベルトとヤン以外は誰も知らなかった、油とワニスの微妙な混合で構成された溶剤を用いて、『ヘントの祭壇画』は驚くべき新しい油彩技法で描き上げられたのである。この新しい油彩技法は近隣地域のギルド組合員にも秘密にされていたが、15世紀末になってイタリア人によって解析されることとなる。

フーベルトは芸術活動と、画家として驚くべき成功を収めたその生涯を通じて、自身の芸術のすべてを弟ヤンに教え込んだ。そして残されたヤンは後にフーベルトを超える地位と名声を手に入れることになったのである。

外部リンク [編集]

参考文献 [編集]