吉行エイスケ

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吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年明治39年)5月10日 - 1940年昭和15年)7月8日)は、日本ダダイスト詩人、小説家。

概要[編集]

アナキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐりと結婚し、長男の吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。

上京後、詩人の辻潤清沢清志高橋新吉らと交友を通し、『ダダイズム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆し、1940年狭心症のため急死した。34歳の若さだった。

略歴[編集]

評価[編集]

この当時の厭世観・閉塞感から、ダダイズムが流行したが、第二次世界大戦に向かっていく時代もあり、徐々にその活躍を許される場は減っていった。そのために筆を折ったが、文筆活動そのものには未練が無かったようで死後の本棚には、文学関連の書籍はただの2冊しかなく、残りは全て株に関するものであった。エイスケのその生涯は、ダダイズムを実践するような所があり、退学以前には友人を東京まで連れてゆき、芸者と人力車を一日借り切って乗り回したり、不倫相手と子どもを一緒に旅行につれて行くなど破天荒であった。

自身の子どもに対して、気分次第で怒鳴り散らすことが多かったが、新作の玩具が出るとそれをもとに一緒に遊んだり、当時珍しかった車を購入しドライブにつれていく側面もあった。ただ学歴に関してかなり軽視をしていたようで、淳之介に対し進学する必要は無いと常々口にしていた。

急死する頃には、身上をほとんど食いつぶし生活資金は妻のあぐりに頼っており、家屋敷は二重に抵当に入っていたように、株式には才覚がなかった。

新感覚派と新興芸術派が、当時流行であり新興芸術派の旗手として活動したが、新興芸術派自体が、日本の文壇に置いて、後世の評価としては極めて低いと言わざるを得ない。息子の淳之介をして、「父の小説を終わりまで読んだものは、一作もない」と言い、冬樹社から全集を出したいので許可が欲しいといわれたときも「許可を出すのは構わないが、私は売れるとは思わない」と答えたという。妻のあぐりもその活動を評価をしていたが、作品そのものは「難解で分からなかった」と述懐している。同時代を生きた伊藤整は、「読むにたえる小説は新興芸術派にはなかった」と評している。

刊行物[編集]

以前、冬樹社から全集がでていたが、当時はまったく売れず、絶版となった。しかし、朝の連続テレビ小説あぐり」で、野村萬斎の演じた「エイスケさん」が注目された影響もあって、1997年、国書刊行会から『吉行エイスケ、作品と世界』、文園社から『吉行エイスケ作品集』が相次いで出版された。また、2001年より、ゆまに書房から、彼の著作である新興芸術派叢書の『女百貨店』、同じく『新種族ノラ』、紀行文集『新しき上海のプライヴェート』が復刻出版されている。

代表的な著作[編集]

  • スポールティフな娼婦
  • バルザックの寝巻姿
  • 女百貨店
  • 職業婦人気質
  • 新種族ノラ
  • 戦争のファンタジイ
  • 大阪万華鏡
  • 地図に出てくる男女
  • 東京ロマンティック恋愛記
  • 飛行機から墜ちるまで
  • 孟買挿話
  • 恋の一杯売

家族[編集]

美容師の吉行あぐりは妻。小説家の吉行淳之介は長男、女優の吉行和子は長女、詩人の吉行理恵は次女にあたる。

外部リンク[編集]