ドナー隊

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パトリック・ブリーンの日記の28ページめ。1847年2月末の状況が記されている。「26日…(中略)…昨日マーフィー夫人が来て、ミルトを食べることを考えてしまうと言った。たぶん彼女はまだそうしてはいないと思いたい。悲惨だ。」

ドナー隊(-たい、Donner Party)、あるいはドナー=リード隊 (Donner-Reed Party) とは、1846年の春、アメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。彼らは旅程の遅れのために、1846年晩秋から47年早春までシエラネバダ山脈山中での越冬を余儀なくされ、過酷な環境の中で多数の餓死者や凍死者を出した。生存者たちは、必然的にカニバリズム(人肉食)に走らざるを得なかった。

アメリカ西部への幌馬車による旅は、大抵の場合は6ヶ月を必要とする。しかしドナー隊はヘイスティングズ・カットオフと呼ばれる近道を選択したところ悪路に阻まれ、さらにワサッチ山脈グレートソルト湖周辺の砂漠地帯を越え、ハンボルト川の谷に従って進みネバダ州に至る間に多くの幌馬車と家畜を失い、グループ内にも分裂が生じた。

1846年11月、一行はカリフォルニアに至る最後の障壁・シエラネバダ山脈に差し掛かる。しかし早い冬の訪れに伴う大雪に阻まれ、海抜2,000mに位置するトラッキー湖(現在では、ドナー湖と呼ばれている)湖畔での越冬を余儀なくされる。食料は早い段階で尽き、幾人かは雪の山脈を越えてカリフォルニアに助けを求めた。しかし救援隊は1847年2月になるまで到着せず、結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアの地を踏んだのは48人だった。歴史家は、この事件を西部開拓史における壮大な悲劇と位置付けている[1]

背景[編集]

ネバダ州のハンボルト川で、テントと幌馬車を利用して野営する1859年の移民団。

1840年代、アメリカ合衆国では東部の故郷を捨て、西部のオレゴンやカリフォルニアへの定住を目指す者が劇的に増加した。1830年代には年間に数十人だったものが、数千人単位にまで膨れ上がった。

カリフォルニア・トレイル#統計」を参照

移民たちの中には、パトリック・ブリーンのように、カトリックとしての信仰生活を体現するべく新天地を目指す者もいたが[2]、大抵の者は、アメリカによる北米全域の領有を正当化する思想「マニフェスト・デスティニー」に触発されて西部を目指した[3]

列成す移民の馬車の大部分は、ミズーリ州の町・インディペンデンスを起点として大陸分水嶺に向かう街道オレゴン・トレイルを、1日平均15マイル(24km)[4]のスピードで進み、4ヶ月から6ヶ月で踏破した。街道は、全般的に川に沿って続いており、やがてサウス・パスという比較的に馬車行に無理の少ないワイオミングの山道を抜ける[5]。人々は、ここからめいめいの目的地に至るルートを選択した[6]

ランスフォード・ヘイスティングズという初期の移民は、1842年にカリフォルニアに入り、その未開発の土地に将来性を見いだした。さらなる定住者の増加を促すため、『オレゴン・カリフォルニア移民への手引書』(The Emigrants' Guide to Oregon and California)を出版[7]。この著書においてヘイスティングズは、カリフォルニアまでのルートとしてワサッチ山脈グレートソルトレイク砂漠を通過するグレートベースン横断の旅程を解説している[8]。しかしながらヘイスティングズ自身がこのルートを始めて使ったのは1846年初頭にカリフォルニアからブリッジャー砦までの移動した際のことで、それ以前はまったく足を踏み入れたことがなかった。なお、ブリッジャー砦とは、探検家のジム・ブリッジャーが相棒のピエール・ルイ・バスケスと共にワイオミング州のブラックスフォークに設立した交易所である。ヘイスティングズは自身が提案した近道を旅行者たちに伝授すべく、この砦に滞在していた[7]。1846年当時、グレートソルトレイク砂漠南部の横断に成功したのは、文書として残る限りヘイスティングズで2人めだったが、ヘイスティングズもその先達者も馬車で達成したわけではなかった[8][note 1]

カリフォルニア行きの旅における最大の難所は、最後の100マイル(160km)、シエラネバダ山脈横断である。この山脈には、海抜12,000フィート(3,700m)を越す峰が500以上も聳え[9]、東側は非常に急な斜面になっている。さらに山脈自体の高度と太平洋に近い立地条件ゆえ、北米大陸では有数の豪雪地帯である[10]。ミズーリ以降カリフォルニアやオレゴンに至るまで続く広大な荒野を突破するのに重要なポイントは、旅行のタイミングを計ることだった。さもなくば春の雨によって泥濘化した道が幌馬車を立ち往生させたり、あるいは9月以降の山で積雪に行く手を阻まれたりすることになる。また、牛馬を伴う以上、周囲に若草が生い茂る季節のうちに旅を終えなくてはならない[11]

ドナー隊の構成家族と結成経緯[編集]

1846年、春。ミズーリ州インディペンデンスの町から500近い幌馬車が西部を目指し出発した[12]。その最後尾にあったのが[13]、ドナー家とリード家、さらに彼らの雇い人、総勢32人が乗り込む9台の幌馬車だった[14]。時に5月12日のことである[15]ジョージ・ドナーは元々ノースカロライナ州出身だったが、ケンタッキー州インディアナ州、そしてテキサス州という具合に、次第次第に西へと居を移していた。1846年初めの時点で、ジョージ・ドナーはイリノイ州スプリングフィールドに住む62歳の農民だった。妻のタムゼンと、3歳から13歳までの5人の娘も旅に伴っていた。また、ドナーの兄弟[note 2]ジェイコブも参加した。ジェイコブは妻の他、10代の養子2人、9歳を最年長とする5人の実子を伴っていた[16]

A man and woman, shown from the waist up. He has dark bushy hair and a beard and is wearing a three-piece suit with wade lapels and a bow tie. She has dark hair and wears a 19th-century dress with lace collar and bell sleeves.
ジェイムズ・リードと妻のマーガレット

ジェイムズ・リードは、1831年にイリノイ州に定住した裕福なアイルランド系移民で、旅に同行するのは妻・マーガレット、娘のパティとバージニア、息子のジェイムズとトーマスである。他に、リードの義理の母親であるサラ・キースも伴っていたが、彼女はかねてから肺結核を患っており[17]、5月28日に客死、遺体は路傍に埋葬された[18]。長らく体調にすぐれないマーガレットにとって、西部の気候はきっといい結果をもたらすとリードは期待していた[19]。旅に備え、リードは贅を凝らした特大の幌車をあつらえた。後年、リードの娘・バージニアがその贅沢さを列車の「豪華客車」にたとえている[20]ように、スプリングの効いた座席とストーブを備え、8頭の牛で曳くという代物だった。牛を追わせるために何人かの若い男を連れていた他、女中を1人伴っていた[19]

インディペンデンスを発って一週間もしないうちに、ドナーとリードは、ウィリアム・ラッセルを名目上のリーダーとする50台の幌馬車の一団に加わった[13]。一行は、6月16日の時点で出発地から450マイル(720km)を制覇し、ワイオミング州のララミー砦まで200マイル(320Km)に迫っていた。大雨と河川の増水によって旅程に遅れが出始めたが、タムゼン・ドナーはスプリングフィールドの友人宛に「実際、この先もっとずっとひどい目にあったりしなければ、トラブルは出発の準備をしたときにすべて片付いていたって言ってしまえるでしょうね」という楽観的な便りを書いている。[21][note 3]

バージニア・リードは、後年、まだ少女だった出発当初のこの当時を「完璧に幸せだった」と回想した[22]

やがて一行に他の移民が加わり始めた。未亡人のレビーナ・マーフィーは13人家族の長として、思春期を迎えた5人の子供、さらに2人の娘が嫁入りした先の家族まで引き連れていた。若夫婦と幼い子供から成るエディーの一家。パトリック・ブリーンと妻・ペギー、末っ子以外はみな男の7人きょうだい。ブリーンと行動を共にする40歳の独身男、パトリック・ドラン。そして家畜たちの世話係であるアントニオ[23][24]ドイツ出身の移民のルイス・ケスバーグは、妻と一人娘を連れて旅に参加したが、道中で新たに息子が生まれている[12]。スピッツァーとラインハートという2人の若い独身のドイツ人は、同じくドイツ人であるウォルフィンガー夫妻とその御者「ダッチ・チャーリー」ことチャールズ・バーガーと行動を共にしていた。ウォルフィンガーたちは、他に、ハードクープというベルギー出身の老人も伴っていた。ルーク・ハロランという青年は、肺結核が日に日に進行し、その面倒を見ることが時間や物資の費えとなることを忌んだ家族からまた別の家族へとたらいまわしにされていた[25]

ヘイスティングズは自身が提唱する新たなルートを広めるため、旅する移民たちに手紙を届けていた。7月12日、ドナーとリードもこの便りを受け取っている[26]。ヘイスティングズは、移民たちにメキシコ当局から妨害を受ける恐れがある(当時、カリフォルニアはメキシコ領だった)と警告し、それゆえ、寄り集まって大きな集団を結成するように薦めた。と同時に「カリフォルニアに向かう、より良い道を新たに切り開いた」と喧伝、新ルートを案内するためにブリッジャー砦で待機していると言う[27]

ドナー隊が歩んだルート。オレゴン・トレイル(紫色の線)をブリッジャー砦まで進み、近道のつもりでヘイスティングズ・カットオフ(オレンジ色の線)を通る。その後、カリフォルニア・トレイル(緑色の線)に合流する

一団はリトルサンディー川から二手に分かれる。大多数の馬車団がホール砦経由の既存ルートを選択する中、ブリッジャー砦を目指すことにした小集団は、新たなリーダーを必要とした。若手男性陣のほとんどはヨーロッパ出身の移民であり、理想的なリーダーとは認めがたい。一方、ジェイムズ・リードはアメリカで暮らすようになって久しく、年長であり、しかも軍隊経験があった。しかし、それまでの間にリードの横暴な態度に憤懣を感じたことのあるメンバーは多く、そうした人々から見れば、リードは貴族気取りの傲慢な見栄坊であった[28]。比較の結果、円熟し、経験に富んだアメリカ生まれのドナーが温和で寛容な性格であったことから、ドナーが第一に選出されることになった[29]

ジャーナリストのエドウィン・ブライアントは、ドナー隊が到着する1週間前にブラックスフォークに到着した。実際にその先に進んだブライアントは懸念を抱いた。ドナー隊が使っているような幌馬車で踏破するのは難しく、ましてや、ドナー隊には女子供が多い。ブライアントはブラックスフォークに取って返し、近道を使わないよう警告する手紙をドナー隊の複数のメンバーにあてて書置きしていった[30]

やがて7月27日、ドナー隊がブラックスフォークに到着した。しかし、ヘイスティングズはその時すでにブラックスフォークを離れ、ハーラン=ヤング隊40台の幌馬車を指揮していた[27]。交易所のジム・ブリッジャーは、ヘイスティングズ・カットオフを行き交う人が増えれば交易所が繁盛すると踏み、隊の人々を説得した。いわく、この近道を使えば起伏の激しい地形や敵対的なインディアンをさけ、カリフォルニアまでの距離を350マイル(560km)短縮しうる。2日間かけて30マイルから40マイル(48kmから64km)に渡る干上がった湖の跡を通る必要があるにせよ、道中水を得ることは容易である、と。これらの情報はリードに強い印象を与え、ヘイスティングズ・カットオフをたどることを主張した。その道を絶対に使うべきではないと訴えるブライアントの手紙は、ブリッジャーが握り潰したに違いないとブライアントは述べ、後のリードの証言でも同様の見解が示されている[27][31][note 4]

ヘイスティングズのルート[編集]

ワサッチ山脈[編集]

Mountain range with occasional patches of snow.
ユタ州内のワサッチ山脈

ドナー隊は、当時の水準としてはかなり余裕のある層に属する人々で構成されていた[11]。開拓者とは名ばかりで、山岳地帯や乾燥地帯を旅するのに必要な知識や経験を有するものはほとんどおらず、アメリカ先住民への対処法についてもまるで知るところがなかった[32]。タムゼン・ドナーの移民仲間であるJ・クイン・ソーントンによれば、当時のタムゼンは、ヘイスティングズという、彼女に言わせれば「自分勝手な山師」の助言に従って主要路を外れることを考える段になると「憂鬱で、悲しく、気が滅入る」思いをしていた[33]

1846年7月31日、4日間を休息と幌馬車の修理に当てたドナー隊は、先行するハーラン=ヤング隊に遅れること11日、ブラックスフォークを後にした。ドナーが御者を1人雇いなおした他、赤子を連れた若夫婦のマカッチェンと、インディアンに関する知識とカリフォルニア方面への土地勘を有すると自称するニューメキシコ出身の16歳の少年、ジャン・バティスト・トルドーが一行に加わっていた[34]

一行は進路を南にとってヘイスティングズ・カットオフを進み始めた。数日のうちにこの近道が話に聞いたよりもはるかに危険な地勢であることを知り、御者たちは、下り坂を滑落しそうになる馬車を制御するために車輪をロックせざるをえなかった。主要街道オレゴン・トレイルは数年来の人馬の行き来によって道が踏み固められていたが、このカットオフはそうではなく、道そのものが判別しづらい状態だった。ヘイスティングズは、木々に進行方向を刻み、書き付けを打ちつけていた。8月6日、その書き付けのひとつをドナー隊一行が発見する。それには、ハーラン=ヤング隊がとった別のルートに案内するので、それまで待機するようにと助言されていた[note 5]

リード、チャールズ・スタントン、ウィリアム・パイクは、隊に先行してヘイスティングズを追うことにした。3人の行く手に、大岩が転がり、切り立った崖の下に川を流れる峡谷が現れる。極端な難路であり、馬車を損なってしまう恐れもある。やがて3人は、グレートソルト湖南岸にいたヘイスティングズに追いつく。ヘイスティングズはリードと共にドナー隊の元に向かうが、書き付けでは危険な地域については案内すると言っていたにもかかわらず、道半ばの見晴らしのいいところまで引き返したところで、とるべき進路を大雑把に示しただけだった[35][36]

スタントンとパイクは休息をとり、リード一人が本隊の元に引き返した。本隊を離れて4日後のことである。約束のはずの案内人が得られないとなった一行は、決断を迫られた。今きた道を引き返し、一般道に復帰すべきか。ハーラン=ヤング隊の轍を追って危険地域であるウィーバー・キャニオンに踏みこむか。あるいは、ヘイスティングズが示した進路を自ら切り開くか。リードの勢いに押されるようにして、一団はヘイスティングズの新しいルートを選択した[37]。その結果として一行の進捗状況は1日に1.5マイル(2.4km)にまで落ち込んだ。のみならず、馬車が通れる道を作るためには、男手が総出で藪をなぎ払い、木を伐り倒し、重い岩を動かさなければならなかった[note 6]

ワサッチ山脈に向かう道すがら、後方からグレイブス夫妻と9人の実子、義理の息子、御者のジョン・スナイダーが乗り込む3台の馬車が追いついてくる。こうして、ドナー隊は60から80台の馬車を有する87名の移民団となった[38]。グレイブス一家は、その年西部を目指してミズーリ州を出発した最終組の一部で、ドナー隊がこの年の移民団の最後尾にあることを知っていた[39]

ワサッチ山中にあった一行が、かなたにグレートソルト湖の姿を認めたのは8月20日のことである。ワサッチ山脈を越えるのに約2週間を要したことになる。人々は騒ぎ始め、このルートを選択した人々、特にジェイムズ・リードの知見に対する疑念をあらわにした。備えが潤沢でなかった家では、食料物資が不足し始めた。先にリードと共に隊を離れたスタントンとパイクは、道に迷って隊に戻ることができなくなっていた。一行が2人を見つけたのは、2人がそれぞれの乗り馬を食料にする寸前のことだった[40]

グレートソルトレイク砂漠[編集]

8月25日、ルーク・ハロランが肺結核で客死。その数日後、一行は破れてぼろぼろになっているヘイスティングズの書き付けを発見する。その断片からうかがうに、行く手には草地も水場もない2昼夜の難路が控えていると思われた。一行は、牛たちを休ませ、旅に備えた[41]。36時間後、進路上にあった1,000フィート(300m)の山を踏破。その頂から一行が目にしたのは、その山に至るまでに突破してきた以上の規模を有する、乾燥し、塩に覆われた不毛の平坦地だった[42]。ラリックの言う「地球上もっとも人を寄せ付けぬ場所のひとつ」である[8]。牛たちはすでに疲労し、水もなくなりかけていた[42]

8月30日、他に選択肢もないまま、一行は前進し続ける。日中の熱気に温められた塩だらけの大地の下からは水分が立ちのぼり、足元は粘土のようだった。その地面に車輪をとられ、ときには車軸近くまで沈んでしまう馬車も出た。日中は酷暑、それでいて日が落ちれば酷寒の砂漠気候。一部のグループは、幌馬車と湖の幻を見、ついにヘイスティングズに追いついたと思い込んだ。3日め、水が底をつく。一行の中には、馬車から牛を解き放ち、先に行かせて水場を知ろうとする。その一方では、衰弱のあまり、くびきを外してそのまま打ち捨てられる家畜もあった。リードの10頭の牛のうち9頭は、渇きのために狂ったようになり、脱走して砂漠の中に逃げていった。その他の家族の牛馬も同様に行方をくらました。この旅程で修理不可能なダメージを受けた馬車もあったが、失われた人命はなかった。40マイルを2日という話が、80マイルにわたったグレートソルトレイク砂漠を通過するのに6日を要したのである[43][44][note 7]

砂漠を抜けた先の水場[note 8]で疲れた身体を休める一行は、もはやヘイスティングズ・カットオフに対する信頼を完全に失っていた。数日後、一行は砂漠の中に遺棄した馬車や家畜の回収に当たり、食料などを他の馬車に移し変えた[note 9]。誰よりも多くの損害を被ったリードは、それにもかかわらず前進をいっそう強く主張し、他の家族に食料などの目録を作って差し出すよう求めた。そしてリードはカリフォルニアのサッター砦に先発隊として2人を送るという提案をする。砦の主人であるジョン・サッターがわがままな開拓民にきわめて気前がよく、物資面で援助を行う余裕があることを、リードは聞きつけていたのである。チャールズ・スタントンとウィリアム・マカッチェンが、この危険な役に名乗りを上げた[45]。残された馬車のうちまだ実用に耐えうるものを、雄牛に牝牛、騾馬など寄せ集めの家畜が引いてゆく。9月中旬。行方不明になった牛を探しに出ていた2人の若者が、前方に40マイル(64km)の砂漠が広がっていることを報告した[46]

リード追放[編集]

家畜はすでに憔悴していたが、ドナー隊は新たに出現した砂漠を比較的に大過なく突破する。この辺りから旅路は楽になり始め、とりわけルビー山脈沿いの渓谷はまずもって良路といえた。一行はヘイスティングズに対し憎しみに近い感情を抱きながら、しかし、数週間前のものと思われるヘイスティングズのつけた轍の跡を追う他に選択肢を有しなかった。ヘイスティングズ・カットオフに分け入ってから2ヶ月後の9月26日、一行は、今日のハンボルト川にあたる川に沿って続く既存ルートであるカリフォルニア・トレイルに合流した。「近道」であるはずのヘイスティングズ・カットオフを選択したことが、ひょっとすると1ヶ月の遅れを招いたと言えるかもしれない[47][48]

ハンボルト川沿いを進む一行は、パイウート族の集団に遭遇する。パイウート族は2日間ドナー隊に同行した後、何頭もの牛馬を撃ち殺したり連れ去ったりした。10月に入って旅は順調に進捗するようになり、ドナー兄弟の馬車は他の家族を引き離して先行しはじめた。後続する家族間の2台の馬車が交錯し、激怒したジョン・スナイダーは牛を鞭打つが、しかしその牛はリードの雇い御者であるミルト・エリオットが扱う牛だった。そこにリードが口を挟むと、スナイダーはリードに鞭を向ける。激昂したリードは、ナイフでスナイダーの胸を刺し、死に至らしめた[47][48]

その晩、リードの犯した殺人をめぐって目撃者たちの間で議論が持たれた。合衆国の法律は大陸分水嶺の西側では適用できず(当時はメキシコの領土である)、移民団が自分たちの正義をもって裁きを行うのは珍しくなかった[49]。しかし、隊のリーダーであるジョージ・ドナーはリードたちのところから1日ほど先行していた[50]。スナイダーがジェイムズ・リードに暴力をふるったのは衆目の一致するところで、さらに一部はリードの妻マーガレットにまで暴力をふるったと主張した[51]が、スナイダーは人気者で、リードはその逆である。ケスバーグはリードを絞首刑に処すべきだと主張したが、結局リード1人を追放し、妻子は他の家族の庇護の下に置くとすることで事態の沈静化が図られた。10月6日の朝、リードは丸腰で去っていった[52][53][54][note 10]が、リードに同情的な人物が馬で先回りし、食料とライフル銃を手渡すことにどうにか成功している[55]

最後の前進[編集]

隊の崩壊[編集]

水面の一部が凍結した小川
冬季のトラッキー川

ここまで様々な試練に苛まれた結果、ドナー隊の面々は派閥を作り始め、派閥内では互いに監視しあい、よその派閥に対しては猜疑心を抱くようになっていた[56][57]。周囲に自生する牧草はまばらになり、日に日にやせ衰える牛馬の負担を減らすため、人は馬車を降りて徒歩で進むのが望ましかった[58]。ケスバーグは自分の馬車からハードクープを追い出し、この老人に対して死にたくなければ歩けと命じる。何日もしないうちに、ハードクープはすっかり足を腫らした姿で小川のかたわらに座り込んでいるところを目撃されたが、それが最期の姿となった。その後、一行の中にハードクープの姿が見えない事に気づいたウィリアム・エディーはどこかで行き倒れたものと思われる彼を探し出してくれるよう他のメンバーに頼み込んだが、70歳近い年寄りに割く余裕などないと吐き捨てられ、誰にも動いてはもらえなかった[59][60]

その頃、1人で西へと向かったリードはドナー家の隊列に追いつき、御者のウォルター・ハーロンを伴ってさらに先に進んだ。2人は1頭の馬を乗りあっていたにもかかわらず、1日につき25マイルから40マイル(40kmから64km)を稼いでいた[61]。他の家族はドナー家に合流したが、しかし不運が続く。グレイブスはインディアンに馬を追い散らされ、一台の馬車を置き去りにせざるをえなくなる。牧草の不足から家畜の放牧範囲を広げたところが、一晩でパイウート族に18頭を盗まれ、さらに数日の後には21頭を撃ち殺された[62]。ここまでに100頭近い牛を失い、食料はほぼ完全に尽きていた。そこに新たな砂漠が広がった。エディーは車を牽く牛をインディアンに殺されたため、馬車をやむなく遺棄した。一家は保存食をすべて食べつくしていたが、そんな彼らの子供を他の家族達は助けようともしなかった。エディー夫妻は、子供たちを抱え、渇きに苦しめられながら、しかし歩くしかなかった。追放されたリードの妻・マーガレットや子供たちも、いまや馬車を失っていた[63][64]。しかしまもなくの10月16日、砂漠は尽き、一行は青草が美しく茂るトラッキー川に到達する[64]

雪の訪れの前に山脈を越えるべく、一行は休息もそこそこにして旅を続ける。そこへ支援を求めて一月前に隊を離れた2人のうち1人、チャールズ・スタントンが、食料を携え、何頭かのラバと2人のコサム族[65]インディアン、ルイスとサルバドールを引きつれて戻ってきた。また、リードとハーロンが、飢えに苛まれやつれながらもサッター砦へ到達したというニュースももたらした[66][67]。なお、スタントンと行動を共にしていたウィリアム・マカッチェンは、サッター砦にたどり着きはしたものの体調を崩し、現地で療養していた。ここまでの推移についてラリックは、「旅塵にまみれ、なかば飢えたドナー隊の面々には、最悪の問題は突破されたように思えただろう。彼らは、すでにこの時点で、それまでのあまたの移民団よりも苦難に耐えぬいていた」という見解を述べている[68]

雪の檻[編集]

山上へと向かう曲がりくねった道
1870年代に撮影された標高2,160mのフレモント峠。ドナー隊が通過を試みた1846年晩秋には、早い段階で雪に閉ざされた。現在、ここは「ドナー峠」と呼ばれている。

話に聞いていたよりもはるかに険しいシエラ・ネバダ山脈を目の当たりにした一行は、そのまま進むか、あるいは家畜を休ませるかという選択を迫られた。10月20日のことである。一行は、山に雪が積もるのは11月中旬になってのことであると聞かされていた。ウィリアム・フォスターが装填作業中の銃が暴発し、ウィリアム・パイクを死なせてしまったという事故[69]に感じるものがあったのか、一行は、一家族また一家族と出発していった。一番手はブリーン家、次にケスバーグ家、スタントンとリード家、グレイブス、マーフィー家が続いた。最後になったのはドナー家である。険しい道を数マイル進んだところでドナー家の馬車の一台の車軸が折れてしまう。ジェイコブとジョージの兄弟は森に分け入って木を伐り出し、代替品をこしらえる。この作業の際、ジョージ・ドナーは手にうっかり傷をつけてしまうが、しかしこのときは浅い傷のように思えた[70]

雪が降り始めた。先頭を行くブリーン家は高低差1,000フィート(300m)の「ほぼ垂直に近い大斜面」を登り、頂上まで後3マイル(4.8km)のトラッキー湖に到達、そこにあった2年前にここを通過した開拓民が築いた丸太小屋の近くに野営した[71][note 11]。エディーとケスバーグがブリーンに合流し、共に峠道を越えようと試みるが、すでに積雪は1.5mから3mもの深さに達し、どこが道かもわからない状態だった。トラッキー湖畔まで引き返した3家に、その日のうちにドナー家をのぞく各家族が合流し、野営する。ドナーたちは、約半日分、5マイル(8km)後方にいた。11月4日の晩、再び雪が降り始めた[72]

冬営[編集]

リード、救援を試みる[編集]

トラッキー湖、オルダー川周辺図。リード夫人、ブリーン、グレイブス、マーフィーらはトラッキー湖東岸の丸太小屋に身を寄せ、ドナー一家はオルダー河畔にテントを張った。

さて、殺人事件が原因で隊を追放されたジェイムズ・リードは、一足先にカリフォルニアにたどり着き、サッター砦で身を休めていた。落ち着くにつれ、雪の山中で難渋しているであろう家族や友人達の身が案じられてならない。リードはジョン・C・フレモント大佐に、仲間たちを助けるためのチームを組織するように懇願し、代償として米墨戦争でリードがフレモントの部隊に参加することを約束した[73]。そこに、ドナー隊の先発隊としてスタントンと共に山越えし、そのまま居残ったマカッチェンや、例のヘイスティングズの手紙に書かれていた移民団であるハーラン=ヤング隊の一部のメンバーが加わった。10月8日にサッター砦に到着していたハーラン=ヤング隊は、1846年にシエラネバダ山脈越えに成功した最後の移民団だった[74]。リードたちは、ドナー隊は山の西側のベアバレー周辺で餓えに苦しんでいるに違いないと見当をつけ、約30頭の馬と12人の男が糧食を積んで救援に向かった。しかし一行がベアバレーで発見できたのは、別の移民団からはぐれて飢えかけていた夫婦者だけだった[75][76]

2人のガイドが馬とともに離脱したが、リードとマカッチェンはユーバ・ボトムスに歩を進め、最後の数マイルを徒歩で乗り切った。ブリーン家が雪で先に進めないことを知ったのとおよそ同じ時期に、リードとマカッチェンはその反対側の、頂上からわずか12マイル(19km)のところで、行く手を雪に阻まれた。2人は意気消沈し、サッター砦に引き上げた[77]

トラッキー湖畔では、ブリーン、グレイブス、リード、マーフィー、ケスバーグ、エディーの各家族が、越冬を決意した。利用することにしたのは数年前に建てられていた松材の丸太小屋だった。それぞれ間隔を置いて建てられていた3棟の小屋は、床は汚れ、屋根は雨が降れば漏るお粗末なものだったが、一つにブリーン一家が住まい、一つにエディーとマーフィー一家が身を寄せ、一つにリード夫人とグレイブス一家が落ち着くことにした。ケスバーグはブリーン一家の丸太小屋の壁に片流れの屋根を差しかけて小屋を作り、そこを住まいとした。雨が漏る屋根には、幌布や牛皮であてをした。窓もドアもなく、出入り口は壁に穿たれた大穴だけだった。トラッキー湖畔の60人は、18歳以上の男性19人、女性12人、子供29人からなっており、子供たちのうち6人は幼児以下である。そこから道を多少戻ったところのオルダー川付近では大慌てでテントが張り連ねられた。そこに、ドナー家、ウォルフィンガー夫人とその子供、そしてドナー家が雇った御者から成る、総勢21人が野営した。その内訳は、成人男性6人、女性3人、子供12人である[78][79]

食糧はほとんど残っていなかった。牛たちは飢えで次々と倒れ、死体は凍るままに積み上げられた。トラッキー湖はいまだ氷結していないものの、開拓民らはこの湖に住むを捕えるすべを知らない。経験豊かな猟師でもあるエディーは一頭の熊を仕留めたが、以降、その手の幸運に預かることはほとんどなかった。リード家とエディー家はほとんどすべてを失っており、マーガレット・リードは、グレイブス家とブリーン家から3頭の牛を譲り受けるにあたって、カリフォルニアに到着したら2倍にして返すという約束をした。グレイブスはエディーに対し、飢え死にした牛1頭につき、通常なら健康な牛が2頭買える25ドルという値をつけた[80][81]

「決死隊」[編集]

越冬地では絶望感が膨らんでいく。中には、徒歩でならば馬車では通れない道を抜けることができるはずという判断をした者もあった。そして何度か少人数のグループで挑戦するものの、その度に挫折を味わう。そこに猛吹雪が襲った。吹雪は1週間以上続き、付近一帯を、人々に残された唯一の食料だった牛や馬ごと、深い雪で埋め尽くした[83]

トラッキー湖畔のキャンプでは死者が出始めた。まずスピッツァー、次にリード家の雇い人であるベイリス・ウィリアムズが死亡した。死因は飢餓というよりも栄養障害である。一方、フランクリン・グレイブスは牛のくびきと獣皮を使い、14足のスノーシュー(西洋式のかんじき)を作り出した。これを足に装着して雪原を歩み、徒歩で山を越えカリフォルニアに赴いて助けを呼ぼうというのである。この任務に男女に子供、合計17人が名乗りを上げた[84]。17人中、4人の父親と3人の母親が、自らの幼子の後事を他の女性に託して参加したところから、かれらの覚悟の程をうかがい知ることができる。軽装を旨としたかんじき組は、6日分の食料、ライフル銃1挺、各人に毛布1枚、手斧1振、そして何丁かのピストルを準備し、カリフォルニアのベアバレーを目指し出発した[85]。歴史家のチャールズ・マクグラシャンは、のちに彼ら17人を「決死隊」と名づけた[86]。メンバーは17人だが、かんじきは14足。チャールズ・バーガーと10歳のウィリアム・マーフィーは早々とトラッキー湖畔に引き返している[87]。その他のメンバーたちは、最初の晩、荷造りに使われていた馬用の荷ぐらの一つからかんじきを1足作り、レミュエルにはかせた[87]

Profile of a man with a long nose and straight hair reaching his collar.
チャールズ・スタントン

かんじきは扱いづらいものだったが上り坂では威力を発揮した。12フィート(3.7m)という深い積雪の中に野営する術を心得ていなかった一行は、3日目には大半の者が、雪原に照りつける陽光の反射に目を痛め、いわゆる雪目になっていた。6日目、エディーは自身の荷物の中から、半ポンドの熊肉を見つけ出す。それは彼の妻が密かに荷物に入れていたものだった。12月21日朝、出発しようとした一行に、ここ数日遅れがちだったスタントンが、すぐに追いかけると声をかけ、後に残った。スタントンは翌年にその場で遺体となって発見される[88][89]

しかしかんじき組は道に迷ってしまう。飢餓状態で2日以上歩む中、パトリック・ドランは提案する。誰か1人がその身を犠牲にし、みなの糧になるべきだ、と。決闘で決めることを提案する者がいたその一方で、犠牲となるメンバーを決めるための籤(くじ)が作られようとした、という後日談もある[89][90]。エディーは「誰かが倒れるまでとにかく歩き続けるべきだ」と提案したが、その前に猛烈な吹雪が襲来し、一行の足を止めた。最初に御者のアントニオが死に、続いてフランクリン・グレイブスも絶命した[91][92]。折りしもクリスマスの日の出来事である。

風雪が吹き募る中、パトリック・ドランは錯乱状態に陥り、うわごとを喚きながら衣類を脱ぎ捨てて森の中に走り込んでいく。彼は自力で戻ってきたものの、数時間後に息を引き取った。それからほどなく、12歳のレミュエル・マーフィーが危篤状態に陥ったのが引き金となったのか、一部のメンバーはドランの屍肉を食べ始めた。レミュエルの姉は弟に少しでも食べさせようとしたが、レミュエルはその直後に息絶えた。エディー、サルバドール、ルイスは口にするのを拒んだ。翌朝、一同はアントニオ、ドラン、グレイブス、マーフィーの遺体を解体し、その肉を各々が自分の身内を食べずにすむように留意しつつ数日かけて乾燥させ、蓄えとした[93][94]

Head and bust of a man with a high forehead, hair reaching his shoulders, wearing a 19th-century three-piece suit and a cravat.
ウィリアム・エディー

3日間休息した後、一行はカリフォルニアへの道を再度探し始めた。エディーもやがて飢えに屈して人肉を口にしたが、しかしそれもすぐになくなってしまった。一行はかんじきに使われている牛皮や革紐を剥がし取って齧るなどしていたが、やがてインディアンの案内人・ルイスとサルバドールを殺して食べる企みが持ち上がる。エディーから警告された2人は、ひそかに一行の下を去った[95]。夜半にはジェイ・フォスディックが死亡し、残ったメンバーは7人となる。エディーとメアリー・グレイブスは狩猟に出発し、鹿肉を得ることに成功したが、戻ったキャンプではすでにフォスディックの遺体が切り刻まれ食料に変わっていた[96][97]。トラッキー湖畔を出発してから25日後、彼らは隊を逃げ出し山中を彷徨っていたルイスとサルバドールに遭遇する。9日間何も食べていなかった2人は瀕死の状態だった。ウィリアム・フォスターは、このインディアンの肉こそ餓死に瀕したグループを救う最後の希望と信じ、2人を撃った[98]。しかし、ジョセフ・A・キングは、フォスターに撃たれたときに2人のインディアンが死にかけていたという説に異を唱えている。「サッター大佐が他の生存者たちから聞いた話によれば、大佐の言う『いい子たち』(サルバドールとルイスのこと)はドングリを集めている最中に殺されたのである」[65]

1847年1月12日、ミウォーク族の村にやつれ果てた白人が数名転げ込んでくる。村人は驚いて逃げ出したが、事情を知ってドングリや山菜、松の実など、自分たちの食料を施した[98]。数日後、エディーはミウォーク族に助けられ、カリフォルニアのサクラメントの外れにある農場にたどり着く[99][100]。急ごしらえの救援隊が他の6人を救出したのは、1月17日のことだった。山脈東側のトラッキー湖畔を出発してから33日目のことである[96][101]

トラッキー湖[編集]

Three log cabins with flat roofs set in the midst of tall trees, with mountains in the background. People, livestock, and covered wagons are engaged in various activities in a clearing in the middle of the cabins.
一行が越冬したトラッキー湖。現在では「ドナー湖」と呼ばれている。[note 12]

パトリック・ブリーンは、1846年11月、かんじき組が出発する数日前から日記をつけ始めている。始めのうちは毎日の天候、嵐の様子、積雪量を中心としていたが、12月になると神への祈りをこめた記述が徐々に含まれるようになった[102]

en:Donner Party timeline」を参照

トラッキー湖畔の生活は惨めなものだった。人々は狭苦しく汚らしい丸太小屋に閉じ込められ、打ち続く吹雪と積もり続ける雪で外出もままならない。食べ物といえば、細切れにした獣皮を煮詰めて作った「顔をしかめたくなるような」粘々の塊。牛馬の骨はスープの出汁として何度も煮返したため、歯で簡単に噛み砕けそうなほどボロボロになっていた。この骨は、ときに、火にくべ柔らかくして食べることもあった。マーフィーの子供たちは、炉辺に敷かれていた牛皮を少しずつ千切りとっては、炙って口にした[103]。かんじき組が出発した後、トラッキー湖畔に残った者は3分の2までが子供である。グレイブス夫人はレビーナ・マーフィーやエレノア・エディーと共に、子供達の世話に勤しんでいた[104]。小屋に迷い込んだネズミは捕まえられ、食用にされた。トラッキー湖畔の人々の多くが、すぐに衰弱し、一日の大半を寝床の中で過ごすようになる。ドナーたちと連絡をとろうと思えば、1日がかりの雪中行が必要だった。消息といえば、ジョージ・ドナーの兄弟ジェイコブの他に3人の雇い人が死亡した。その内の1人ラインハートは、死の床で自身のウォルフィンガー殺しを告白している[105]。ジョージ・ドナーはかつて馬車修理の折に負った傷が化膿し、オルダー川の野営場で満足に働ける男は4人となっていた[106]

リードの妻・マーガレットは食料を節約し、クリスマスの日に煮込み料理を作って子供たちを喜ばせた。しかし年明けて1月になると彼らも飢えに直面し、屋根の覆いに使われている牛皮を食べることを検討し始める。マーガレット・リード、娘のバージニア、御者のミルト・エリオット、召使の少女エリザ・ウィリアムズは、座して子供たちが飢えるのを見守るよりもどこかかから食料を調達してくるほうがましと考え、徒歩での脱出に挑戦するが、大雪に阻まれ4日後には引き返さざるをえなくなる。彼らの丸太小屋は、屋根の牛皮を食料とした結果、住むこともままならない。リード家はブリーン家の小屋に身を寄せ、雇い人は他の家族と暮らし始める。ある日、グレイブス家はリード家に対して借財の清算を求め、リード家にとって唯一の食料であった牛皮を取り上げた[107][108]

救出[編集]

カリフォルニアには軍隊が集結し、壮健な男子は徴発され、米墨戦争に駆り出されていた。道路は封鎖され、情報は錯綜し、物資は入手困難になっていた。その中でドナー隊救助のために名乗りを上げたのはわずか3人だった。米墨戦争に従軍していたリードは、サンノゼで局地的叛乱や軍内部の混乱に巻き込まれ、そこに2月まで足止めされる。その間、リードは他の開拓民や知人に惨状を訴え、同情したサンノゼの人々がアメリカ海軍へトラッキー湖畔にいる遭難民を救援するようにと要請する。地元の2紙は、山越えの旅で発生したカニバリズムを書き立て、いまなお雪に囚われた人々への同情を集める。もとより移民が多いヤーバ・ブエナでは1,300ドル(2010年の31,000ドルに相当する)もの義捐金が募られ、救助隊を物資面で支援するためのキャンプが2箇所に設営された[109][110]

2月4日、ウィリアム・エディーを含む救援隊がサクラメントを発ったが、豪雨や川の増水に数日の遅れを余儀なくされる。エディーはベアバレーに駐在することにし、他のメンバーは、暴風雪の中、安定してトラッキー湖へと進んでいく。途中に設けられたキャンプで食料を補給することができたため、救助隊は携帯する食料を最小限に抑えることができたためである。うち3人は途中で引き返したものの、残る7人は少しずつ目的地に近づいていった[111][112]

第1の救助[編集]

2月18日、救助隊7名がフレモント峠を越え、トラッキー湖畔に至る。エディーの話では丸太小屋があることになっていたはずの場所にくると、大声で呼ばわりはじめた。すると雪穴の中からマーフィー夫人が姿を現し、救助隊をじっと見つめて問いかけた[113]

「あなた方はカリフォルニアから来たのですか? それとも天国から来たのですか?」[113]

救助隊はドナー隊に食料を施したが、飢えて衰弱した彼らが食べすぎで死なないよう、少しずつ与えるように留意した。どの丸太小屋も雪に埋もれていた。屋根葺きの獣皮が濡れて腐りはじめており、耐え難い悪臭を放っていた。死者のなきがらは小屋の屋根にほど近いところに浅く埋葬されていた。生き残りの中には情緒不安定に陥っている者もいた。救助隊のうち3人がドナー一家らがキャンプを構えるオルダー河畔に向かい、4人の飢えた子供と2人の大人を伴ってトラッキー湖畔に戻ってきた。そのうちの1人、リーナ・ドナーにとって、オルダー川からトラッキー湖までの急斜面は辛い道のりだった。後の手紙で「あの日の痛みと惨めさは、言葉に表すこともできません」としたためている[114]。ジョージ・ドナーの手の傷は一層悪化して腕全体が壊死し、動くこともできない。しかし、最後の訪問者が訪れてから今まで死者は出ていなかった。救助隊は全生存者のうち23人をカリフォルニアに連れ帰り、トラッキー湖畔の17人とオルダー川の12人はそのまま現地に残ることになった[115][116]

救助隊は、かんじき組の末路を生存者たちに隠し、彼らは凍傷が原因でここに来られないのだと取り繕っていた[117]。出発後すぐにパティー・リードとトーマス・リードは体力的に雪道を踏破できそうにないことが分かり、2人を担いでいける力のある者もいなかった。母親であるマーガレット・リードは、年長の2人の子供のみがベアバレーに同行し、下の子たちが親もなくトラッキー湖畔に戻っていくのを見守るという、辛い立場を味わうことになった。マーガレットは、救助隊の一員のアキーラ・グローバーに対し、そのフリーメイソンの名誉にかけて、子供たちをトラッキー湖畔に連れ戻すことを誓わせた。パティーが母親に言う。「あのね、お母さん、もしかしたらこれでもう私と会えなくなるかもしれないけど、お母さんは精一杯がんばって欲しいの」[118][119]

パティーとトーマスの姉弟はトラッキー湖畔へと戻った。ブリーンは帰ってきた2人を小屋の中に入れまいとしたが、グローバーが残していく食料を増やすことにすると、渋々ながら受け入れた。一方、生存者21名を伴いカリフォルニアに向かう救助隊は、あらかじめ道中に隠しておいた食料は動物に荒らされているのを知って狼狽する。それはつまり、食料なしで4日間を過ごすことを意味した。峠道を何とか越えた後、ジョン・デントンが昏睡状態に陥って死亡した。幼いエイダ・ケスバーグもまもなく死亡し、悲しみに沈む彼女の母親はその遺体を置いていくことを拒絶した。この困難な道のりをさらに数日進む中で、救助隊は同行する子供たちが生きて山を下りられないのではないかと懸念を深める。子供たちは救助隊員のズボンについていた鹿皮の房飾りや、靴紐を食べるなどし、救助隊を仰天させている。山を降りていく途中で、一団は第2の救助隊と遭遇した。この中には、ジェイムズ・リードもいた。夫の声を聞きつけたマーガレットは、こらえ切れず雪の中に倒れ込んだ[120][121]

救出された移住者たちはベアバレーに入ってようやく安全を得る。ここでジェイコブ・ドナーの義理の息子、ウィリアム・フックは、食料庫に押し入って飢えのままに胃袋を満たした結果、命を落とすことになった。他のメンバーは移動を続け、サッター砦に到着した。ここに来てバージニア・リードは「本当に、天国に足を踏み入れたのではないかと思いました」と書き残している。年齢的にも12歳に過ぎず、飢餓からの療養中であったにもかかわらず、ある若者から結婚を申しこまれたということも面白おかしく書き残しているが[122][123]、実際、このプロポーズは断っている[124]

第2の救助[編集]

3月1日、第2の救助隊がトラッキー湖畔に到着する。経験豊かな登山家たちで組織された彼らに、ジェイムズ・リードとマカッチェンも同行していた。リードは娘のパティや衰弱した息子のトーマスと再会している。ブリーンの丸太小屋の住人は比較的に良好な状態にあったが、マーフィーの小屋の状態は、スチュワートの表現を借りれば、「筆舌はおろか想像力の限界すらをも超えかねない状態」だった。レビーナ・マーフィーは、8歳になる息子のサイモンと、ウィリアム・エディーとフォスターのそれぞれの子らとを世話していたが、心を病み、目もほとんど見えなくなっていた。子供たちは元気がなく、何日も体が汚れたままにされていた。ルイス・ケスバーグが小屋に入り込んでいたが、ケスバーグもまた脚に負傷し、ほとんど身動きできない状態だった[125]

第1の救助隊が離れ、第2の救助隊が到着するまでの間、トラッキー湖畔では死者は出ていない。パトリック・ブリーンは2月26日の日記に、2月9日に死亡したリード家の御者ミルト・エリオットの遺体をマーフィー夫人が食べたがっていたと書き記している。そしてリードとマカッチェンは切り刻まれたエリオットの遺体を発見している[126]。オルダー川のキャンプの状況も大差なかった。救助隊員のうち、先にキャンプに到着した2人は、トルドーが人の脚を持ち運んでいる場面を目撃している。2人の姿を認めると、トルドーはその脚を雪穴の中に投げ捨てた。その穴の中には、前年12月に死亡したジェイコブ・ドナーの遺体が、手足を切断された状態で置かれていた。ジェイコブの妻・エリザベスは夫の遺体を食べることを拒否していたものの、子供たちはその血肉によって養われていた[127]。さらに救助隊は、ほかに3体の手をつけられた遺体を発見する。別のテントにいたタムゼン・ドナーは健康だったが、彼女の夫・ジョージは腕の壊死がもはや肩にまで達し、重篤な状態に陥っていた[128]

Lake beside snowy mountains with railroad construction sheds in foreground.
ドナー峠からトラッキー湖を見下ろす。セントラル・パシフィック鉄道は1868年に完成した

第2次救助隊は、17人をトラッキー湖畔から連れ出すことにした。ここに成人は3人しか含まれていない。ブリーン家とグレイブス家は、全員が含まれている。トラッキー湖畔に残るのはケスバーグ、マーフィー夫人、その息子サイモン、エディーの息子、フォスターの子供の計5人である。タムゼン・ドナーは、第3の救助隊が間もなく到着するとリードから聞くと、夫ジョージの看病のために居残ることを選択した。娘のエリザ、ジョージア、フランシスも手元に残すことにした[129]

ベアバレーまでの道のりは、遅々として進まない。リードは途中で2人の男を先行させ、隠し置きの食料の回収に向かわせた。セリム・ウッドワースが率いる次の救助隊が近づいてきていることを期待してのものである。一行がようやく峠道を越えたあたりで猛烈な吹雪が襲来し、5歳のアイザック・ドナーが凍死。リード自身も死に瀕した。メアリー・ドナーは凍傷のために感覚を失い、脚が焚き火であぶられていることにも気づかず眠りこけ、大火傷を負う。嵐が過ぎ去った後、数日間食事を摂れなかったブリーンとグレイブス一家は放心状態で、そのうえ極度の疲労で起き上がることもできない。救助隊は、彼らを置き去りにせざるを得なかった[130][131][132]

一方、救助隊員のうち3人は居残った。トラッキー湖畔に1人、オルダー川キャンプに2人である。そのうちの1人、ニコラス・クラークが狩りに出ている間に、残った他の2人、チャールズ・キャディーとチャールズ・ストーンはカリフォルニアに戻る計画を立てた。タムゼン・ドナーは3人の子供を2人に託し、カリフォルニアに連れて行ってもらうように段取りした。スチュワートの説によれば、このとき500ドルの現金が渡されたという。キャディーとストーンは子供たちを伴って出発したが、トラッキー湖畔に置き去りにし、数日のうちにリードたちに合流した[133][134]。数日後、クラークとトルドーは共に脱出することで合意した。トラッキー湖畔でドナーの娘たちを見付けた2人は、オルダー川に引き返してこのことをタムゼンに知らせている[135]

ジョン・スターク

かんじき組の生き残りであるウィリアム・エディーとウィリアム・フォスターは、リードと落ち合うつもりで、ジョン・スタークという男とともにベアバレーを出発した。翌日、3人はリードに遭遇する。リードが連れ出した子供たちはみな、凍傷を負い、血まみれになっていた。山向こうに残る自身の子供をなんとしても助けようとするエディーとフォスターに情実と金銭をもって説き伏せられた4人の男たちが、トラッキー湖畔まで一緒に戻ることになった。湖へ戻る道中、一行は、解体され食用に供された2人の子供とグレイブス夫人の遺体を発見する。グレイブス夫人のなきがらの傍らでは、まだ1歳だったエリザベス・グレイブスが泣き叫んでいた[136]。11人の生存者が取り囲む焚き火は、それ自体の熱のために雪の穴に沈みかけていた。救助隊はここで分散した。エディーとフォスター、及び2人の救助隊員はトラッキー湖に向かった。2人の救助隊員は、健康状態から見てもっとも有望な者だけでも救おうと、2人の子供を選び、他を置き去りにしようとしたが、スタークはそれを拒んだ。スタークは、子供2人とすべての食料を担ぎ、残された9人のブリーン家、グレイブス家の人々を支え励ましながら、ベアバレーに脱出した[137][138][139]

第3の救助[編集]

開けた森に残る人の背丈よりも高い一群の切り株。
ドナー一家が越冬したオルダー川河畔。切り株の高さが、積雪の深さを表す。1866年撮影。[140]

3月14日、ようやくトラッキー湖畔にたどり着いたフォスターとエディーは、それぞれの子供がすでに死亡していることを知る。ケスバーグからエディーの息子を食べたことを告げられたエディーは、もしカリフォルニアでケスバーグに会うことがあったら必ず殺すと誓った[141]

ジョージ・ドナーと、ジェイコブ・ドナーの息子のうち1人はまだオルダー川河畔で生存していた。マーフィーの小屋をちょうど訪ねてきていたタムゼン・ドナーはまだ自分で歩き回ることができる状態だったが、次に救助隊がくるのはいつになるかわからないと聞かされながらも、夫の元に戻ることを選択した。結局、4人の子供とトルドー、彼らの世話をするため居残っていた救助隊員のクラークのみで出発することになる[142][143]

まだ生存している可能性のある人々を救出するため、新たに2つの救助隊が召集されたが、どちらもベアバレーに入る前に引き返し、以降、救助の試みは絶えた。第3の救助隊がトラッキー湖畔を発ってからほぼ1ヶ月後の4月10日、サッター砦近隣のアルカルデ(メキシコの行政官)がドナー家の資産を回収するためのチームを結成。この資産を売却し、その一部を孤児となったドナー家の子供たちの支援に用いようというのである。山脈を越えた回収隊は、オルダー河畔のテントで死後数日のジョージ・ドナーの遺体を発見したが、他には誰もいなかった。トラッキー湖に向かった一行はその途中でルイス・ケスバーグと出会う。ケスバーグによると、マーフィー夫人は第3次救助隊が出発した1週間後に死亡。さらに数週間後、峠道を越えようとしたタムゼン・ドナーは、その途中にケスバーグの小屋に寄ったが、全身びしょぬれで見るからに正気の沙汰ではなかった。ケスバーグは毛布を与え、朝まで休んで出発するようにと言ったが、タムゼンは夜の間に死亡していた。ケスバーグが語ったこの顛末を、救助隊は鵜呑みにしなかった。ケスバーグの小屋の中からは、人肉がぎっしりと詰まった壷、ジョージ・ドナーのピストルや宝石、250ドル相当の金が発見された。リンチにかけると脅されたケスバーグはドナー家のものである273ドルの現金を所持していることを白状し、これはタムゼンが、自分の子供たちのために役立てて欲しいと言って託したものだと言った[144][145]

反響[編集]

これほどおぞましくて悲惨な光景を、いまだ見たことがない。カーニー将軍の命に従い、ソーズ少佐の指揮の下、ここにあった遺体を、集め、埋葬する。丸太小屋の中央に掘られていた「隠し場所」に収める。死者に対するこの気がめいる任務の後、丸太小屋ごと、辺り一体に散見される憂鬱でおぞましい悲劇の遺留品を、少佐の命令に従って焼き払った。シーツに包まれたジョージ・ドナーの遺体を8マイルか10マイルか離れた本人のキャンプで発見。分遣隊によって埋葬された。

スティーブン・W・カーニーの部下の手記より。1847年6月22日[146]

ドナー隊の悲報は、ケスバーグを伴ってサッター砦に引き上げる回収隊に行き会った末日聖徒イエス・キリスト教会の長老でありジャーナリストでもあったサミュエル・ブラナンによって、アメリカ東部にも伝わった[147]。第一報が海路を通じニューヨーク市に伝わったのは1847年7月である。国を挙げて西部開拓に熱を入れるアメリカ合衆国内では、ドナー隊のニュース報道にさまざまなバイアスがかけられた。一部の新聞は、当時センセーショナルな物語がもてはやされていたにもかかわらず、ドナー隊の悲報を数段落の小さな記事に押しこめた。カニバリズムについて誇張されたイラスト入りで報じた新聞も、地元カリフォルニアのものも含め、1紙ならず存在する[148]。出版された論説の中には、ドナー隊を英雄に祭り上げ、カリフォルニアは大きな犠牲を捧げるに値する楽園であると論じるものもあった[149]

翌年に西部へと向かった移民の数は減少している。この要因は、ドナー隊の教訓よりも進行中の米墨戦争の結果に対する恐怖のほうに求めるべきだろう[148]。1846年にカリフォルニアに移住した開拓者は推定1,500人だったが、1847年には450人、1848年には400人に落ちこんだ。ところがカリフォルニア・ゴールドラッシュにより、1849年には25,000人と急激に跳ね上がっている[150]。大半の移民はカーソン川をたどるルートを選択したが、フォーティナイナーと呼ばれる1849年の移民の中に、ドナー隊と同じルートをたどった者があり、その当時の情景を記録に残している[151]。ドナー隊が冬営した地域はそのエピソードから広く知られるようになり、ドナー隊が越えようと試みたシエラネバダ山脈のフレモント峠はドナー峠、一冬を越したトラッキー湖はドナー湖と呼ばれるようになった。

1847年6月、スティーブン・W・カーニー旗下のモルモン大隊の部隊が遺体を埋葬し、2棟の丸太小屋を部分的に焼き払った[152]。その後数年にわたり、あえてこの山道を通過した人々は、この近辺で人骨や遺留品、リードとグレイブス一家が越冬していた丸太小屋を目にしている。1891年には、トラッキー湖畔の地中から現金が発見された。これは恐らくグレイブス夫人が蓄えていたもので、第2次救助隊が到来した折、後で取りに戻るつもりで隠したものと思われる[153][154]

ランスフォード・ヘイスティングズは命をおびやかす脅迫を複数から受けている。ドナー隊以前に大陸を横断したとある移民は、自分たちが直面した難路についてヘイスティングズに捻じ込んだ。そのときのことを語って「もちろん奴の口から出る言葉は、『それは本当にすまなかった、良かれと思ってのことだった』の一点張りさ」と報告している[155]

生還者たち[編集]

ワサッチ山脈以西に向かった87人のうち、生存者は48人だった。リード家とブリーン家は一家全員が無事だったが、ジョージ・ドナー、ジェイコブ・ドナー、フランクリン・グレイブスは妻ともども死亡し、子供たちは孤児となった。ウィリアム・エディーは家族全員を失い、マーフィー一家は大半が死に絶えた。家畜もほぼ全滅し、カリフォルニアに生きてたどり着いたのは3頭のラバのみだった。ドナー隊の所持していた財産は、大半が打ち捨てられてしまった[156]

体験した災難のうち半分も書いてませんけど、あなたが災難というものが何か分かってないということを知ってもらうには、もう十分だと思います。でも神さまのおかげ様をもちまして、私のうちは人の肉を食べなくて済みました。いま私の周りにはなんでもあって、ないものといえばどうでもいいものです[note 13]。私たちは生き延びることができたんです。でも、この手紙を、誰かの何かをしたいという気持ちに水を差すものだなんて受け取らないで。ただとにかく、近道をしたり、しゃにむに急いだりしては絶対に駄目です。

—バージニア・リードより、いとこのメアリー・キーズへ。1847年5月17日[note 14]

もとより女性の少ないカリフォルニアゆえ、生存者のうちで未亡人は数ヶ月以内に再婚した。リード家はサンノゼに落ち着き、ドナー家の2人の遺児を引き取って新生活を始めた。やがて到来したゴールドラッシュの波に乗り、リードは成功を収める。リードの娘・バージニアは、父親の検閲の下、イリノイ州在住のいとこ宛に「私たちがカリフォルニアに向かったときのトラブル」について手紙を書き送っている。1847年6月、ジャーナリストのエドウィン・ブライアントはその手紙を手に入れ、多少手直しした上で1847年12月16日付の『イリノイ・ジャーナル』に掲載している[157]。トラッキー湖畔での越冬の折、小屋の中で祈り続けるパトリック・ブリーンを見て自ら結んだ願掛けを実行し、カトリックに改宗した。マーフィーはメアリーズビルで暮らし、ブリーン一家はサンフアン・バウティスタの街に向かい[158]、そこで旅館を経営した。1862年の『ハーパーズ・マガジン』に掲載された、人食いを疑われる人物のもとに宿泊していると知ったときの激しい不愉快感を書き綴った物語は、名指しこそされてはいないが、ブリーンを題材としたものである。多くの生存者が似たような扱いを受けていた[159]

ジョージ・ドナーの娘、エリザとジョージア。中央はブルーナ夫人

ジョージとタムゼン夫婦の遺児は、サッター砦の近隣に住む老夫婦に引き取られた。ドナー家の末女エリザは、1911年にドナー隊の記録を出版している。しかし彼女は1847年当時にまだ3歳だったため、内容は既刊の論説や姉たちからの伝聞に基づくものである[160]。事件当時1歳だったブリーン家の末女イザベラは、ドナー隊の最後の生き残りとして1935年に死去した[161]

私から親身で有益なアドバイスなど申し上げたいと思います。故郷を離れてはいけません――あなたは素晴らしい場所にいらっしゃるのです。多少気に入らないことがあるとしても、飢えて死ぬ恐れはないのですから。

—メアリー・グレイブスから レヴィ・フォスディック(メアリーの姉サラ・フォスディックの義理の父親)へ。1847年。[162]

グレイブス家の子供たちのその後はさまざまである。メアリー・グレイブスは早くに結婚したが、最初の夫は事件に巻き込まれて殺されてしまった。彼女は監獄に収容された夫殺し犯のために食事を作り、彼が絞首刑に処せられるまで飢えることがないよう気を配った。メアリーの孫の1人は、彼女が深刻な表情で語っていたと回想している。「泣き叫ぶことができたらと思う。でもできない。あの悲劇を忘れさってしまえば、泣き叫ぶとはどうやるものか思い出せるかもしれないけれど」[163]。メアリーの弟・ウィリアムは一所に居つこうとしなかった。その妹ナンシー・グレイブス(1846年冬から1847年の当時9歳)は、事件の正確な記録を得ようとしてコンタクトを試みた歴史家たちに対してさえ、取材を拒否した。伝聞によれば、弟と母の肉がカニバリズムの対象になったときに自分が果たした役割に正面から向き合うことができなかったと言われる[164]

エディーは再婚し、カリフォルニアでの新生活を始めた。息子を食べたケスバーグとの因縁を果たそうとするものの、ジェイムズ・リードやエドウィン・ブライアントに思いとどまらされている。翌年、エディーはJ・クイン・ソーントンに当時のことを語った。ソーントンは、他にリードの体験談も用い、ドナー隊のエピソードに関する最初のまとまった文書を執筆している[165]。エディーは1859年に死去した。

晩年のルイス・ケスバーグ

ルイス・ケスバーグは、自身にタムゼン・ドナー殺しの濡れ衣を着せたとして、救助隊の何名かを名誉毀損で訴えている。法廷は彼に損害賠償として1ドルを裁定して与えたものの、裁判費用はケスバーグの負担とした。1847年の『カリフォルニア・スター』紙は、ケスバーグが救助隊員から受けたリンチに近い扱いを記事にするとともに、ケスバーグの振る舞いを怪物扱いの筆致で語り、春の雪解けによって得られるようになった牛馬の肉よりも人肉を好んで食べたと報じた。歴史家のチャールズ・マクグラシャンは、ケスバーグがタムゼンを殺したと訴えるのに足る情報を集めたが、ケスバーグとの面会後、殺人はなかったものと結論付けた。エリザ・ドナー・ホートンもまたケスバーグは無実であると信じていた[166]。ケスバーグは老いるにしたがって爪はじきにされ、しばしば脅迫を受けたりしたため、家にこもりきりになった。ケスバーグはマクグラシャンにこのように言っている。[167]

「常に思うのは、人が何程の辛苦に耐え得るか試すべく、神は己れを選んだ」[167]

後世への影響[編集]

Three figures on a tall stone plinth.
州立ドナー記念公園のモニュメント。台座の高さ22フィート(6.7m)は、事件当時の雪の深さを表す。

ドナー隊のエピソードは、オレゴンやカリフォルニアに向かった数十万の移民の物語の中でとても有意義と言えるものではない。しかし現代に至るまで、アメリカでは歴史、小説、ドラマ、詩、映画などといった分野において数多くの著作の礎となっている。

en:Donner Party (disambiguation)」を参照

作家ジョージ・R・スチュワートによれば、ドナー隊に関心が向けられるのは、それが本当に起きたこととするに足る裏づけがあるからであって、事実、「ドナー隊にとって極一部のエピソードと言うべきかもしれぬところのカニバリズムが、大衆の頭の中では首座を占め、ドナー隊と言えばカニバリズムという図式ができあがっている。これは、タブーというものが、人を反発させると同時に蠱惑する、大いなる力を有するからである」[168]

これに対し文献学者であるクリスティン・ジョンソンは、1996年に編んだ研究書に寄せて、この事件は特別な人々でなく家族や普通の人々に起きたものであり、この事件は「カリフォルニアの肥沃な大地での新しい人生が人々に抱かせた富や健康への希望が、多くの人々をカリフォルニアの門前で絶望や飢餓、そして死に追いやったという、凄惨な皮肉」であったとした[169]

丸太小屋周辺は1854年には早くも観光名所となっていた[170]。1880年代、チャールズ・マクグラシャンがドナー隊を記念するモニュメントの建立を推進し始める。モニュメント建立用の土地取得に力を尽くしたマクグラシャンの助力もあり、1918年6月、ブリーンとケスバーグの丸太小屋があったとされる位置に、開拓民の家族の像が建てられ、ドナー隊に捧げられた[171]。そして1934年、銅像や丸太小屋跡はカリフォルニア州の歴史的建造物と認定された[172]

カリフォルニア州は、1927年に州立ドナー記念公園を設立した。元々はモニュメント周辺の11エーカー(4,500平方メートル)の土地から出発したこの公園は、20年後にマーフィーの丸太小屋周辺も購入されて追加され[173]、1962年には、カリフォルニアへの移民の歴史を展示する移民街道博物館(Emigrant Trail Museum)が新たに加わる。さらに1963年、マーフィーの丸太小屋とドナーの記念碑はアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定された。マーフィーの丸太小屋の炉に使われていた岩にはドナー隊の生存者と死亡者の姓名を書き記した青銅製のプレートが張られている。カリフォルニア州はこの地が記憶されるべき理由を、ドナー隊のエピソードが「広く人口に膾炙するようになった、アメリカの歴史において他に例を見ない悲劇的出来事」であるため、としている[174]。2003年だけで、この地に推定で20万人もの観光客が訪れたという[175]

死者[編集]

ドナー隊の死亡者一覧
名前 性別 年齢 没年月日 最期の地 死因 遺体への処置 所属
サラ・キース(Sarah Keyes) 不明 1846年5月29日 カンザス州 老衰、病死 路傍に埋葬 リード家
ルーク・ハロラン(Luke Halloran) 25 1846年9月4日 ユタ州グランツビル 肺結核 路傍に埋葬 ドナー家と同行
ジョン・スナイダー(John Snyder) 25 1846年10月5日 ネバダ州アイアンポイント リードに刺殺される 路傍に埋葬 ドナー家の御者
ハードクープ(Mr. Hardkoop) 60~70 1846年10月10日以降 街道沿い ケスバーグに置き去りにされる 行方不明
ウォルフィンガー(Mr. Wolfinger) 不明 1846年10月25日以降 ハンボルト川 ケスバーグ、ラインハート、スピッツァーらに殺される? 不明 ドイツ人移民
ウィリアム・パイク(William Pike) 32 1846年10月30日 トラッキー川 銃の誤射 路傍に埋葬 マーフィー家
ベイリス・ウィリアムズ(Baylis Williams) 25 1846年12月14日 リード夫人の小屋 栄養失調 埋葬 リード家の雇い人
ジェイコブ・ドナー(Jacob Donner) 65 1846年12月20日以前 オルダー川 不明 「食料」 ジョージ・ドナーの兄
サミュエル・シューメーカー(Samuel Shoemaker) 25 1846年12月20日以前 オルダー川 不明 「食料」 ジェイコブ・ドナーと同行
ジョセフ・ラインハート(Joseph Reinhardt) 30 1846年12月20日以前 オルダー川 不明 「食料」 ウォルフィンガーと同行
ジェイムズ・スミス(James Smith) 25 1846年12月20日以前 オルダー川 不明 「食料」 リード家の御者
チャールズ・スタントン(Charles T. Stanton) 30~35 1846年12月21日以降 シエラネバダ山中サミットバレー 飢餓と疲労 放置 ドナー家と同行
フランクリン・グレイブス(Franklin Graves) 57 1846年12月24日か25日 シエラネバダ山中 低体温 「食料」 グレイブス家
アントニオ(Antonio) 23 1846年12月24日か25日 シエラネバダ山中 低体温 「食料」 ドナー家と同行
パトリック・ドラン(Patrick Dolan) 35~40 1846年12月25日 シエラネバダ山中 低体温 「食料」
レミュエル・マーフィー(Lemuel Murphy) 12 1846年12月26日 シエラネバダ山中 飢餓と疲労 「食料」 マーフィー家
チャールズ・バーガー(Charles Burger) 30 1846年12月29日 ケスバーグの小屋 飢餓 埋葬 ドナー家の御者
ジェイ・フォスディック(Jay Fosdick) 23 1847年1月6日以降 シエラネバダ山麓 飢餓と疲労 「食料」 グレイブス家
ルイス(Luis) 不明 1847年1月8日 シエラネバダ山麓 ウィリアム・フォスターに撃たれる 「食料」 インディアンの案内人
サルバドール(Salvador) 不明 1847年1月8日 シエラネバダ山麓 ウィリアム・フォスターに撃たれる 「食料」 インディアンの案内人
ルイス・ケスバーグ・ジュニア(Louis Keseberg Jr.) 1 1847年1月24日 マーフィーの小屋 飢餓 不明 ケスバーグ家
ランドラム・マーフィー(Landrum Murphy) 16 1847年1月31日 マーフィーの小屋 飢餓 「食料」 マーフィー家
ハリエット・マカッチェン(Harriet McCutchen) 1 1847年2月2日 グレイブスの小屋 飢餓 埋葬 マカッチェン家
マーガレット・エディー(Margaret Eddy) 1 1847年2月4日 マーフィーの小屋 飢餓 埋葬 エディー家
エレノア・エディー(Eleanor Eddy) 25 1847年2月7日 マーフィーの小屋 飢餓 埋葬 エディー家
オーガスタス・スピッツァー(Augustus Spitzer) 30 1847年2月8日 ブリーンの小屋 飢餓 埋葬 ドナー家の御者
ミルト・エリオット(Milt Elliot) 28 1847年2月9日 マーフィーの小屋 飢餓 「食料」 リード家の御者
キャサリン・パイク(Catherine Pike) 1 1847年2月20日 マーフィーの丸太小屋 飢餓 雪に埋もれる マーフィー家
エイダ・ケスバーグ(Ada Keseberg) 3 1847年2月24日以降 第1次救助隊 飢餓と疲労 雪に埋もれる ケスバーグ家
ジョン・デントン(John Denton) 28 1847年2月25日以降 第1次救助隊 飢餓と疲労 雪に埋もれる ドナー家と同行
ウィリアム・フック(William Hook) 12 1847年3月27日以降 フットヒルキャンプ 過食 埋葬 ジェイコブ・ドナー
ジョージ・フォスター(George Foster) 1 1847年3月 ブリーンの小屋 飢餓 「食料」 マーフィー家
ジェイムズ・エディー(James Eddy) 3 1847年3月 ブリーンの小屋 飢餓 「食料」 エディー家
アイザック・ドナー(Isaac Donner) 5 1847年3月6日以降 第2次救助隊 飢餓と疲労 「食料」 ジェイコブ・ドナー
フランクリン・グレイブス・ジュニア(Franklin Graves Jr.) 5 1847年3月8日以降 第2次救助隊 飢餓と疲労 「食料」 グレイブス家
エリザベス・グレイブス(Elizabeth Graves) 45 1847年3月8日以降 第2次救助隊 飢餓と疲労 「食料」 グレイブス家
ルイス・ドナー(Lewis Donner) 3 1847年3月7日 オルダー川 飢餓 雪に埋もれる ジェイコブ・ドナー
エリザベス・ドナー(Elizabeth Donner) 38 1847年3月 オルダー川 飢餓 不明 ジェイコブ・ドナー
サミュエル・ドナー(Samuel Donner) 4 1847年3月 オルダー川 飢餓  不明 ジェイコブ・ドナー
レビーナ・マーフィー(Lavina Murphy) 36 1847年3月 ブリーンの小屋 飢餓 「食料」 マーフィー家
ジョージ・ドナー(George Donner) 62 1847年3月 オルダー川 飢餓と感染症 「食料」 ドナー隊の隊長
タムゼン・ドナー(Tamsen Donner) 44 1847年3月か4月 ブリーンの小屋 不明 「食料」 ジョージ・ドナーの妻

大半の歴史家は、ドナー隊のメンバー数を87人とカウントしている。スティーブン・マッカーディーは『西部医学ジャーナル』において、マーガレット・リードの母サラ・キース、インディアンのガイド・ルイスとサルバドールも加えて90人とした[176][177]。そのうち5人がトラッキー湖に至る前に、肺結核(ハロラン)、外傷(スナイダー、ウォルフィンガー、パイク)、遺棄(ハードクープ)で死亡している。さらに1846年12月から1847年4月までの越冬で34人が死亡した。その内訳は、男性25人、女性9人である[178][note 15]

幾人かの歴史家や他の権威は、その死亡経緯を研究し、栄養面に恵まれない個々人において生死を分ける要素が何であるのかを突き止めようとしている。かんじき組15人について見てみると、男性10人中8人(スタントン、ドラン、グレイブス、マーフィー、アントニオ、フォスディック、ルイス、サルバドール)が死亡しているが、反対に女性は5人全員が生き残っている[179]。ワシントン大学のとある教授は、このドナー隊のエピソードについて 「自然選択が働いた結果の事例」と述べている[180]

トラッキー湖畔、オルダー河畔、さらにシエラネバダ山脈越えにおけるいくつもの死は、栄養失調、過労、酷寒が組み合わさってのものだろう。ジョージ・ドナーをはじめとする何人かは、飢えによって感染症への抵抗力が落ちていた[181]わけだが、しかし生存者にもっとも顕著な特徴を3つ挙げると、年齢と性別、そして家族の規模である。ドナー隊の生存者は、平均すれば7.5歳死者より若い。6歳から14歳までの子供の生存率は非常に高く、死亡率62.5パーセントを示した6歳以下の幼児層(旅路で生まれたケスバーグの子供を含む)よりも、35歳以上の成人よりも高い。49歳以上の生存者はいない。そして、20歳から39歳までの男性の死亡率は66パーセントときわめて高い[178]。女性はタンパク質の新陳代謝が男性にくらべて低く、さらに体内に脂肪を溜め込むことができるため、飢餓や過労による健康面への悪影響があらわれるのが遅い。また、男性は女性よりも危険な作業への従事を求められる傾向がある。例えば、トラッキー湖畔に到着するまでの旅路で、一行の成人男性全てが路上の障害物を取り除ける作業に追われていた。これら過労により、壮年男性は体力を消耗していたのだろう。家族で移動していた者は、独身者よりも生存率が高かった。これは食料を分け合うのに他人同士よりも家族同士のほうが融通が利いたためと考えられる[176]

カニバリズムを巡って[編集]

後年のエリザ・ドナー

一部の生存者たちはカニバリズムの存在に異議を唱えたものの、チャールズ・マクグラシャンは、40年間に渡って生存者と文通し、かれらの回想の多くを記録に残している。中には自らの恥部に触れることを潔しとしない者もあったが、最終的には屈託なく語った者もいる。マクグラシャンが1879年に発表した『ドナー隊の歴史』(History of the Donner Party)では、幼年者の死に至るまでの苦しみや、第3次救助隊が子供たちを全員連れて行く中、絶望したマーフィー夫人が床に伏せ表を見ようともしない様子(ジョージア・ドナーの証言による)といった、陰惨な詳述は割愛されていた。また、オルダー河畔のカニバリズムについてはあえて言及を避けた[182][183]

同年、マクグラシャンの本の出版を受けたジョージア・ドナーは、マクグラシャンに手紙を送っていくつかの点をはっきりさせた。それによれば、オルダー河畔のキャンプでは、2つのテント両方で人肉が用意された。しかしそれは、彼女の記憶(1846年から1847年の冬当時4歳)にあるかぎり、幼い子供たちだけのためのものだった――「父は嘆くばかりで、その最中は私たちのほうから目を背けていました。私たち小さな子供は、これはどうしようもないんだという気持ちでした。他には何もなかったのですから」。彼女はまた、ある朝ジェイコブ・ドナーの妻であるエリザベスが、25歳の御者サミュエル・シューメーカー(Samuel Shoemaker)の腕を料理したと言っていたのを思い出した[184]。ジョージアの妹・エリザは、自身が3歳の折に体験した試練を1911年に発表しているが、オルダー河畔におけるカニバリズムについては言及していない。考古学的な所見からは、オルダー河畔におけるカニバリズムの存在は証明されていない[note 16][185]

エリザ・ファーナムによる1856年のドナー隊の論述は、おもにマーガレット・ブリーンの談話に基づいている。その説明は、ジェイムズ・リードや第2次救助隊に置き去りにされたグレイブスやブリーン一家が、雪穴のなかで陥らざるを得なかった境遇が詳しく述べられている。それによれば、当時7歳だったメアリー・ドナーが、凍死したアイザック・ドナー、フランクリン・グレイブス・ジュニア、エリザベス・グレイブスの遺体を食べることを周りの人々に提案したとのことだった。なぜならば、ドナー家はオルダー河畔の時点ですでに、メアリーの父親・ジェイコブをはじめとする人々を食べ始めていたからである。マーガレット・ブリーンは、自身と家族は決して人肉に口をつけなかったと証言したが、クリスティン・ジョンソンやイーサン・ラリックの他、ブリーンに同情的な論調のジョセフ・キングですら、すでに9日の間何も食べていなかったブリーンたちが人肉を口にすることなく生き延びたとするのは無理があると見ている。キングは、ファーナムがマーガレット・ブリーンにあたることなくこの一節を挿入した可能性を示唆している[186][187]

キャプションを参照。
壮年時代のジャン・バティスト・トルドー。オルダー河畔でのカニバリズムについて相反する証言を残した。

H・A・ワイズの1847年の出版物によれば、ジャン・バティスト・トルドーは、己の活躍を英雄気取りで吹聴するとともに、ジェイコブ・ドナーをどのようにして食べたかをことこまかに語り、さらに赤ん坊を調理せずに喰らったと力説した[188]。その後何年も経ってからエリザ・ドナー・ホートンに会ったトルドーは、カニバリズム行為を否定し、さらに1891年、当時60歳のトルドーはセントルイスの地元紙のインタビューを受けた折、重ねてカニバリズムの存在を否定している。結果としてトルドーはオルダー河畔にタムゼン・ドナーをひとり残して生還したにもかかわらず、ホートンや他のドナー家の子供たちはトルドーに好意を抱いていたし、トルドーもドナー家の子らを悪く思っていなかった。作家のジョージ・スチュアートは、トルドーが1884年にホートンに語った内容よりもワイズに語った内容のほうが正確性を有するとみなし、トルドーはドナー夫妻を見捨てたのだと断定した[189]。一方、クリスティン・ジョンソンは、ワイズがトルドーから聞き取ったのは「世間の注目を浴びたい、年長者に一泡吹かせてやりたい、という思春期特有の欲望」の産物であり、後年は、ホートンを刺激しないように話を調整しなおしたと考えた[190]。また、歴史家のジョセフ・キングとジャック・スティードは、トルドーの行動について見捨てた云々したスチュワートの見解を「むやみな道徳主義」とし、その主要な論拠として、ドナー隊の面々はいずれも難しい選択を強いられたのであるのだから、としている[191]

そして、これに共鳴するようにイーサン・ラリックは書いた。「……燦然たる英雄譚、あるいは猟奇たる外道譚といった型には収まりきるまい。ドナー隊は、英雄を気取るでもなければ、外道をうそぶくでもないままに重ねられた、苦渋の決断の物語なのである」[192]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この砂漠を横断したという現地部族が文字で残した記録はなく、また移民たちの書簡などの中にもこの道に関する言及はない(Rarick, p. 69)。
  2. ^ ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの長幼関係は2説ある。1つは、エリザ・ドナー・ホートンの記録を元に弟ジョージ、兄ジェイコブとする説。いま1つは、ドナー家の家系記録を元に兄ジョージ、弟ジェイコブとする説である (Johnson, George and Jacob Donner: Who was older? in New Light on the Donner Party) 。
  3. ^ タムゼン・ドナーの手紙は、1846年の『スプリングフィールド・ジャーナル』紙に掲載された(McGlashan, p. 24)。
  4. ^ ジェイムズ・リードは、ララミー砦でカリフォルニアから来ていた旧友のジェイムズ・クレイマンに出会った。クレイマンはリードに対し、ヘイスティングズ・カットオフを馬車で抜けるのは難しく、ヘイスティングズの情報は不正確だと警告した(Rarick, p. 47)。ドナーやリードと途中まで同行したJ・クイン・ソーントンは自著『1848年・オレゴンとカリフォルニアから』(From Oregon and California in 1848)において、ヘイスティングズを「当地の旅行者きってのほら男爵」と決めつけている(Johnson, p. 20)。
  5. ^ ヘイスティングズが所用の折、その仲間たちはハーラン=ヤング隊をウィーバー・キャニオンに導いたが、これはヘイスティングズにとって予定のルートではなかった(Rarick, p. 61)。
  6. ^ ドナー隊が取ったルートは、現在のイミグレーション・キャニオンである(Johnson, p. 28)。
  7. ^ 1986年、四輪駆動のトラックに乗った考古学者のグループが、同じ季節にこの砂漠地帯を越えようとしているが、挫折している(Rarick, p. 71)。
  8. ^ ドナー隊が休養したパイロット・ピークの麓は、現在ではドナー・スプリングの名で知られている(Johnson, p. 31)。
  9. ^ リードの説明によれば、移民団の数多くがいなくなった各々の牛の行方を探したとされている。ただし、他のメンバーの記憶によれば、皆が探していたのはリードの牛である(Rarick, p. 74, Reed's self-penned "The Snow-Bound, Starved Emigrants of 1846 Statement by Mr. Reed, One of the Donner Company" in Johnson, p. 190)
  10. ^ 1871年にドナー隊の記録を書き残したリードは、スナイダー殺害の一件を省略したうえで、サッター砦に助けを求めるスタントンとマカッチェンを案じて後を追ったとした。1847年5月、彼の娘・バージニアが書いた手紙でもこれに触れられているが、しかしこの手紙はリードによって大幅に編集されている(Johnson p. 191)。
  11. ^ これら丸太小屋は、1844年にここを通過したスティーブンス隊の3人の男ジョセフ・フォスター、アレン・スティーブンス、モージス・シャレンバーガーによって1844年11月に築かれた(Hardesty, pp. 49-50)。後年、バージニア・リードはこの隊のメンバーであるジョン・マーフィーと結婚している。なお、ジョン・マーフィーはドナー隊のマーフィー一家とは無関係である(Johnson, p. 262)。
  12. ^ Donner Partyには越冬の用意をするドナー隊の絵が掲載されているが、その絵はいくつかの点で不正確である。それぞれの丸太小屋はかなりの距離を置いて建てられ、互いの様子を伺うことはできなかった。さらに湖畔にたどり着くとまもなく雪が降リ初め、移民も家畜も寒さと飢えで次々と斃れていった。
  13. ^ "We have left everything but..." と作るバージョンが存在する (Ric Burns, 1992, The Donner Party)。この場合、「私たちは何もかもを捨ててきましたが、でも気にしません」となる。
  14. ^ バージニア・リードのスペリングには一貫性がない。この手紙の随所にも、文法、句点の打ち方、スペリングの誤りが見出される。この手紙は少なくとも5回、それぞれに手を入れられて出版され、一部は撮影されている。スチュワートは、オリジナルのスペリングや句点をそのままにして自著に採録したが、この少女が言わんとするところを読者が理解するのに必要であろう部分については、手を加えている。英語版ウィキペディアの Donner Party に掲載されている原文は、スチュワートにならいつつ、スペリングと句点の打ち方を改めたものである(Stewart, pp. 348-354)。
  15. ^ グレイソンは1990年に発表した死亡率調査票で当時1歳だったエリザベス・グレイブスを死者に加えているが、彼女は第2次救助隊に助け出されている。
  16. ^ オルダー河畔の囲炉裏跡から発見された骨の中で、明確に人骨だと判断できるものはなかった。ラリックによれば、残されていたのは料理に使われた骨であり、ドナー隊が人間の骨を料理に使う必要があったとは考えにくい(Rarick, p. 193)。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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読書案内[編集]

  • The Donner Party Chronicles: A Day-by-Day Account of a Doomed Wagon Train, 1846–1847 by Frank Mullen Jr.
  • The Expedition of the Donner Party and its Tragic Fate by Eliza P. Donner Houghton
  • Excavation of the Donner-Reed Wagons: Historic Archaeology Along the Hastings Cutoff by Bruce R. Hawkins and David B. Madsen
  • American Experience: Donner Party (video), a 1992 documentary film directed by Ric Burns
  • The Indifferent Stars Above: The Harrowing Saga of a Donner Party Bride by Daniel James Brown
  • The Perilous Journey of the Donner Party by Marian Calabro
  • Searching for Tamsen Donner by Gabrielle Burton
  • "The Year of Decision: 1846" by Bernard DeVoto

外部リンク[編集]