サルマタイ

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サルマタイ(Sarmatae、Sarmatia)は紀元前4世紀~紀元後4世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧民族サルマート人サルマタエサルマティア人ともいう。紀元前4世紀後半までドン川下流とアゾフ海の沿岸に居住していたサウロマティア人と区別する。2世紀に黒海の北西一帯に進出してスキタイを駆逐したのち、5世紀まで発展したチェルニャコヴォ文化の主要な担い手である。

抽象的なデザインに宝石や貴金属をちりばめた華麗な装飾を好んだ。近世ポーランド・リトアニア共和国士族(シュラフタ)たちはサルマタイを自分たちの文化的・政治的なルーツと考えていた。弓による遠隔攻撃を見下しており、長大な槍(矛)を持ち貴金属や宝石で飾った重い鎧を纏う騎兵が敵陣への直接突撃を敢行する戦法を得意とした。その雄々しく美しいイメージから、現代では西ヨーロッパ東ヨーロッパを問わずヨーロッパの極右の間で非常に人気の高い古代民族で、ストームフロントでは常に話題の中心となっている。[1]

概略[編集]

最初に(偽)スキュラクスクニドスのエウドクソスというギリシア歴史家が、紀元前338年頃にドン川沿岸におけるサルマタイ人の情報を得ている。

紀元前5世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ黒海北岸)に移動し、スキタイ人をクリミアとドブルツァへと追い払った[1]紀元前2世紀には、サルマタイ人はヨーロッパに侵入し、そのまま残ったものはアラン人と呼ばれるようになった。その後はたびたび、ローマ帝国の北部辺境に侵入したという。62年ネロの将、シルバヌスによって遠征され、トラキア人ゲルマン人とともにサルマタイ人の軍隊にも一撃が加えられ、ダニューブ川の彼方へ追い返された。

7世紀には最後のサルマタイ文化が起こった。その後、東方からの遊牧民の侵入により衰退し、散り散りとなった。12世紀ポーランド人が、サルマタイ文化を真似る程に影響を遺した。ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級は、自らの祖先をステップの武人であった東方のサルマタイ人だとする「サルマタイ人起源説」に基づき、サルマティズムと呼ばれる独自の東方趣味や貴族文化を花開かせた。現在、コーカサス山脈に住む少数民族のオセット人は、サルマタイ人(そのうちのアラン人)の末裔だと言われている[2]

また、ブリテン島に伝わる、アーサー王伝説は、この地に派遣されたサルマタイ人の伝説が起源だという説がある。なぜなら、帝政ローマ時代のブリテン島には多くのサルマタイ人が駐屯していて、彼らは自分たちの伝説や神話を持ちこんだとされる。事実、アーサー王伝説のストーリーの一部はサルマタイ神話と奇妙なほど酷似しており、サルマタイ人のうち後述するアラン人と呼ばれた人々が騎士道精神とともにヨーロッパにもたらしたものと考えられる。[2]

古代の記録、出土品より[編集]

ローマ時代の歴史家たちは断片的なサルマタイ人の描写を残している。タキトゥス、ヴァレリウス・フラックス、アーリアヌス、パウサニアス、ストラボンヨセフスなどがそうした歴史家である。サルマタイ人は、スキタイ人の文化を継承しているとはいえ、興味を引くのはその類似点より相違点なのである。

記録から推測できるサルマタイの社会組織は封建的であって、スキタイのように世襲的な王朝をもっていたかどうかは定かでない。彼らは村や町をつくらない、純粋の遊牧民であったらしい。スキタイ人と違って彼らは黒海沿岸の都市を攻撃することはなく、ゴートと連合してギリシア都市を征服するようになった時代でさえ、被支配民の政治組織に変更を加えることなく維持させ、特にギリシア商人を代理として交易を行っていた。

常に幌馬車で移動し、その幌馬車が家である。多数の幌馬車を円形に並べ柵とする。食べ物は乳と茹でた肉が大半である。それぞれの幌馬車がひとつの家で、夜にはその幌馬車のなかで一家族が肌を寄せ合って一緒に寝る。成人は長く髪を伸ばしそれを束ね、男性は髭を生やしている。性格は温和で普段は静かに話し、また女子供そして何より来客を大事に扱う。戦争の時は男女とも一致団結して戦い家族と家畜を守る。ローマ時代には一部のサルマタイ人がローマの傭兵になった。

サルマタイ兵の主要な武器は、北東アジアに出現した長く重い矛であった。人は鎖帷子か青銅の鎧で武装し馬には皮革の馬甲が施された。集団で突撃して敵の抵抗力を破った。白兵戦では長剣を用いた。スキタイ人と違い弓矢は二次的なものに留まった。当時はサルマタイ兵がローマ兵を駆逐した戦いもあったが、レリーフや硬貨の場合はローマ人が勝った場合に作られることから、そこでのサルマタイは必ず戦いの敗北者として描かれる。

サルマタイの宗教について文献から知られていることは、火の崇拝があったらしいこと、儀式では馬の犠牲が顕著に見られることぐらいである。葬法はスキタイよりも簡素で、副葬品は東方の影響を受け幾何学文様が多く、動物文様は少ない。婦人の装飾品や壺の表面装飾は宝玉や七宝細工を多用し、ギリシアの神話や宗教的素材は引用されず、均整より多彩であることを重んじ、印象は華美である。こうしたサルマタイ人が好んだ多色様式の工芸品は、東ローマとヨーロッパ中世の美術へと継承される。

サルマタイはフン族の侵入によってポントス・ステップにおけるその覇権を失った。彼らの大半はアラン人などの遊牧民となったが、それらはサルマタイのうちスラヴ人化しなかった諸部族の俗称であるといえる。彼らは政治的には消滅した。残ったアラン人の一部はコーカサス山脈の山麓地帯に定住しオセット人の先祖となったと言われるが、オセット人のYハプロタイプは圧倒的にG-L293 P16およびP18であり、サルマタイ(とスラヴ人)のYハプロタイプの大半がスキタイのそれと共通のR-M17 P18であることから矛盾が生じる。現代のヨーロッパでR-M17 P18の割合が最も高いのはポーランド人であるが、近世のポーランド・リトアニア共和国ではサルマタイ(=サルマチア人)は自分たちの重要な先祖のひとつで、自分たちはその好ましい社会規範を引き継いでいるのだという通念があった(サルマチア主義)。

脚注[編集]

  1. ^ M・ロストフツェフ 『古代の南露西亜』 桑名文星堂、1944年、167-171p。
  2. ^ James Minahan (2000). One Europe, Many Nations. Greenwood Publishing Group. pp. 518p. 

関連項目[編集]