漢口事件

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湖北省

漢口事件(かんこうじけん/はんこうじけん)とは、1927年(昭和2年)4月3日国民革命軍武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。漢口四三事件とも言う。日本海軍の軍人も傷害や暴行を加えられた。被害は150戸、被害見積額は92万円[1]共産党の扇動により発生した[2]日本海軍水兵と中国の少年との口論を端緒に次第に拡大していったとされる。

概要[編集]

事件前の状況[編集]

  • 二月ごろから、日本租界外の同文書院付近の支那公園や富豪の屋敷の立ち樹や垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった。やがて日本人住宅にも及んだ。多くは女子供であったが、後には大人も出動し、大っぴらに斧で立ち樹を切り倒した。
  • 3月24日南京事件が発生すると、中国人側は邦人凌辱事件を誇大に取沙汰し、無頼の徒の如きは、漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだと放言していたとされる[3]
  • 半月前より中国人の日本人を蔑視する傾向が強くなり、日本人宅に盗難が頻発した。また、婦女子に悪戯や投石し、一週間前からは、水兵にも投石するようになった[要出典]
  • 人力車夫は無理に乗車を迫り、やむなく乗ってやると、不当の賃金を強要した[要出典]
  • 苦力は日本人の手荷物を強奪して運搬し、不当の要求をした[要出典]
  • 中国人は海軍陸戦隊の行軍に対し、侮辱的態度をするようになった[要出典]

事件発生数日前に唐生智は日本官憲に対し、イギリス人アメリカ人の居留民は引揚げを断行したが日本人居留民に対しては十分に保護を行うので漢口に止まるよう勧告を行った[4]

事件発生[編集]

日本側の被害者の証言によれば、4月3日午後3時過ぎ、水兵2名が日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」の横手を通行中、支那人子供から投石され、口論中に30人ぐらいの支那人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めた。水兵は一人の車夫を突き倒して、近くの料理店「山吉」に逃げ込んだ。たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は跡形もなく破壊された。さらに、「日本水兵が支那人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが喧伝され、ちょうど日本租界北側の平和街に差し掛かかっていた農民協会成立大会の祝賀行列の一団が、日本租界に殺到し、租界の三分の二は暴民によって埋められた。日本人を見れば取り囲んで殴打し、日本人商店は軒並み襲撃された。これらの暴徒の襲撃は徹底的にしかも巧妙に行われた。事件を聞いて駆けつけた田中副領事も、日本領事だと叫んだにもかかわらず、暴行された。南小路から平和街に出る角の理髪店の隣の田村氏の宅では、産後間もない身を病床に横たえていた妻女が、暴徒によって足蹴にされ遺骸は放置された[3]

午後4時ごろ、数千の群衆は子供を先頭に立て赤旗を振るい、指揮者の下に喚声をあげて河岸に殺到しようとしていたところ、陸戦隊が上陸し、まず空砲を放ち、数発の実弾を撃った。すると暴民は雪崩を打って退却、略奪しつつ租界外に向かった。平和街に接近するや頑として退かず、やむなく陸戦隊は本願寺の土堤に向かって機銃の威嚇射撃を行うと、群衆は逃げ去った。陸戦隊によって租界を追われた群衆は、他国の租界にある日本人商店を襲撃した[3]。水兵6名は飲食店にいたところを襲われ、散々殴打されて拉致され、総工会本部に監禁された。夜には日本人25名がイギリス艦ビー号に避難し保護された[5]同仁病院も漢口から引き上げを行った[5]

唐生智は4日朝、軍隊を派遣して引き取ったが、総工会は、日本側に有利な条件を容れさせるための人質なので、そのまま返したら承知せず、と言って、唐生智が日本側に送ろうとしても、糾察隊は衛戍司令部を監視して妨害した。総領事が協議した結果、7日夜にようやく取り戻した[3]

国民政府外交部長の陳友仁は事件の夜に駆けつけ、高尾総領事に対して遺憾の意を表し、当方にて全責任をもって解決すると言った。武漢衛戍総司令の唐生智も来て遺憾の意を表し、租界は支那軍隊にて護衛するので陸戦隊の撤退を要求した。総領事は支那側の誠意を尊重して陸戦隊の撤退を希望し、また支那側は軍隊を租界の周囲に配し、糾察隊とともに群衆を遠ざけ、日本人に危害を加えるな、略奪するなといったポスターを貼るなど誠意があるように見えたので、陸戦隊は一時大正ホールに引き上げた。しかし軍隊の略奪が行われ、直ちに陸戦隊を配備した。本願寺に進入した唐生智の軍隊は木堂内の略奪容疑で、何健の軍隊に代えられ、それも陸戦隊の抗議により、本願寺から撤退した。総工会の代表は「支那人が十人死んだ。発砲は不法だ。衝突の原因を明らかにされたい。陸戦隊を即刻引きあげられたい」など勝手な注文を持ち出したが、総領事のために一蹴された。また総工会は食糧封鎖を強行しようとした[3]

4月6日には、婦女子1320名が大福丸と襄陽丸に乗って引き揚げた。その後数回に分けて引き揚げ、二千数百人の在留邦人は五百余名となった。

事件影響[編集]

漢口には上海から糧食を満載した天龍及び第十八駆逐隊の天津風時津風磯風が派遣された[6]

4月3日、宜昌ではスタンダード石油は店を閉鎖し、アメリカ人全員がイギリス艦、アメリカ船にて引揚げることを決する[7]。アメリカ公使は在北京アメリカ人に対して北京からの引揚げの勧告を行った[8]

4月12日、共産党を警戒する列強の支持を受けた蒋介石上海クーデターを起こし多数の共産党幹部を処刑した[9]

脚注[編集]

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  1. ^ 服部龍二編『満州事件と重光駐華公使報告書』
  2. ^ 「漢口事件解決に関する文書」『日本外交年表並主要文書 下』
  3. ^ a b c d e 田中秀雄編『もうひとつの南京事件』
  4. ^ 『支那の声明は信頼できぬ 某消息通談』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
  5. ^ a b 『漢口の租界周囲に群集刻々に増す 同仁病院も引揚ぐ』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
  6. ^ 『巡洋艦と駆逐艦三隻糧食を満載して漢口へ 日本陸戦隊撤退を拒絶』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
  7. ^ 『宜昌も引揚げ 英国領事をはじめ 英米人全部が両三日中に』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
  8. ^ 『北京の米人ぞくぞく引揚ぐ 天津方面へ向って』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
  9. ^ 浅野典夫 『図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ秀和システム2005年、288頁。

参考文献[編集]

  • 『満州事件と重光駐華公使報告書』 服部龍二編。
  • 『もうひとつの南京事件 : 日本人遭難者の記録』 中支被難者聯合会原編、田中秀雄編集・解説、芙蓉書房出版2006年(原著1927年)。ISBN 4-8295-0381-5
  • 「中国・その周辺」『世界史年表』 日比野丈夫編、河出書房新社1997年、第4版、189頁。ISBN 4-309-22311-7 - 発生年月について

関連項目[編集]