中華共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
中華共和国
中華共和國
中华共和国
中華民国 1933年 - 1934年 中華民国
中華共和国の国旗
(国旗)
中華共和国の位置
共和国の版図(色のついている地域)
公用語 中国語
首都 福州市
主席
1933年 - 1934年 李済深
面積
1933年 121,400km²
人口
1933年 10,853,200人
変遷
福州事変 1933年11月22日
崩壊 1934年1月13日

中華共和国(ちゅうかきょうわこく)は、1933年に発生した福建事変(閩変)の際に、陳銘枢李済深及びに十九路軍によって、福州で樹立された政権の名称。1933年11月22日に正式な成立を果たしたが、1934年1月13日国民政府の中央軍が福州へ侵攻したため、政権の維持はわずか50数日であった。

国民革命軍十九路軍[編集]

中華共和国を成立させた国民革命軍十九路軍の前身は広東軍第一師団である。1926年、広東軍第一師団は国民革命第四軍に改編され李済深が軍長に任命された。北伐の過程で第四軍は大きな戦果を上げ、陳銘枢が師団長に任じられていた第十師は第十一軍に改編されている。

1930年中原大戦に第十一軍が参加し馮玉祥及び閻錫山を撃破した。その後第十一軍は十九路軍と改編され、蒋光鼐を総指揮、蔡廷鍇を軍長とする」体制が確立された。十九路軍はその後第3次囲剿紅軍の作戦に参加している。

1931年満州事変が勃発すると十九路軍は上海防衛を任務とされた。この時期対日方針を巡って内部対立が続いており、蒋介石が下野すると南京政府は広東派系による運営が始まる。1932年第一次上海事変では十九路軍の抵抗が行われ、国際都市である上海における戦闘は国際社会において中国同情論を惹起している。その後軍事的指導者不在の南京政府は再度蒋介石体制を確立、これらの日本軍との衝突は外交交渉の結果塘沽停戦協定による外交解決が図られた。

事件後上海を離れた十九路軍は福建地区での共産党勢力討伐作戦に従事している。当初は順調に進捗したこの作戦も彭徳懐軍との戦闘に敗北して後膠着状態が続く。蔡廷鍇等は共産党との和解交渉により停戦した。

この時期陳銘枢がヨーロッパより帰国すると6月に桂系の李宗仁陳済棠等と連絡を取り「人民政府」を成立させ南京国民政府に対抗する提案を行うが、両者はこれに賛同していない。しかし蒋介石がこの情報を入手するに至り、政変への準備が急速に進められた。

成立と崩壊[編集]

中華共和国の首脳陣
李済深(左上)陳銘枢(右上)蔡廷鍇(左下)蒋光鼐(右下)

1933年11月20日福建事変が勃発すると、福州では生産人民党及び第三党による「中国全国人民臨時代表大会」が開催され中華共和国人民革命政府の成立を決議、同日中に、李済琛、陳銘枢、陳友仁蒋光鼐、蔡廷鍇、方振武、黃琪翔の11名が政府委員に選出され、江西の中華ソビエト共和国臨時政府と停戦及び経済協力の文書を交換し、「農工商学兵代表大会」が政府の最高権力機構であることが宣言された。同月22日、中華共和国人民革命政府の成立を宣言し中国国民党を廃止、独自の紀年法として中華共和国元年と定めた。

しかし中華共和国は国民党内のその他勢力の支持を獲得することができなかった。陳済棠は蒋介石の懐柔により中華共和国への不支持を、宋慶齡も政権樹立に反対の立場を表明した。そのため中華共和国は中国共産党との協力関係を模索するが、同時共産党内部では毛沢東を首班とする毛派と王明を首班とする国際派の権力闘争が行われ交渉が進捗しないばかりか、12月5日には王明により福建政府は非人民的、非革命的であり革命路線と非革命路線の中道を行くもので失敗は免れないと強い批判を受けるに至った。

蒋介石はこの政変に対処すべく8個師団の陸軍部隊を投入するとともに、海上・航空兵力を駆使して攻撃を加えた。圧倒的軍事的優勢を誇る中央軍の前に十九路軍は壊滅、五個軍団中四個が前線で叛乱を起こし中央軍に投降している。中央軍は1月13日福州に進駐、中華共和国政府は成立後2ヶ月足らずで崩壊した。

21日に十九路軍の残存部隊も中央に投降し、ここに福建事変は正式に終結した。蒋光鼐、蔡廷鍇、陳銘枢、李済深等は香港に逃亡、十九路軍は解散となり、兵力は各部隊に分散して再配置された。