エフゲニー・ムラヴィンスキー

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エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月22日) - 1988年1月19日)は、ロシア出身の指揮者である。20世紀におけるソ連ロシア東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。

目次

[編集] 略歴

[編集] レニングラード・フィルの常任指揮者として

1938年にムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの常任指揮者に就任、士気が低迷していたオーケストラの立て直しに着手する。透明な音色と凝集度、微妙で繊細なニュアンスと重厚で雄大なクライマックスとを併せ持つ洗練された孤高の演奏は、就任当初の録音を聴いても、金管の音色を除けばロシアのオーケストラであることが連想できないほどである。晩年に至るまでの演奏様式の基本は就任当時既に確立されていたことが窺えるが、楽曲に対する解釈は年代と時期に従い常に変化と発展に富んでおり、晩年になるにつれて深度と表現の自由度とが増し、よりアカデミックになり、音色もより乾いたものになっていったと言うことができる。

ムラヴィンスキーが常任指揮者在任期間中、レニングラード・フィル以外のオーケストラに客演した例は上記のチェコ・フィル以外にソヴィエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)との極稀な共演のみである。

[編集] 芸格とエピソード

[編集] 人物像

ムラヴィンスキーは、長身痩躯で非常に舞台栄えが良く、厳しい楽曲解釈と相まって聴衆を酔わす事が出来るカリスマ性の持ち主であった。また指揮の技術にも非常に優れており、晩年には指揮棒を使わず、手の繊細な動きと視線によってオーケストラをコントロールする姿がリハーサルの映像等で見ることが出来る。

50年間に渡りムラヴィンスキーの薫陶を受け続けたレニングラード・フィルとの数々の演奏は、トスカニーニを思わせるムラヴィンスキーの厳密なスコア解釈、テンポ設定を高度なアンサンブルによってレニングラード・フィルが手足の如く表現すると言う非常にレベルの高いものであり、消え入りそうなピアニッシモから雷鳴の様なフォルティッシモに至るまで一途乱れぬ演奏は西側でも非常に高く評価されていた。

彼の家を訪れた人物や妻(アレキサンドラ・ヴァビリナ・ムラヴィンスカヤ。レニングラード・フィル首席フルート奏者として夫とともに4度来日演奏している)の証言によると、その名声とは裏腹に私生活は極めて質素であり、自然と文学や芸術を愛するつつましい生活を送っていたようである。また人を魅了するユーモアセンスの持ち主でもあり、彼との会話は笑いが絶えない非常に楽しいものであったそうである。妻には「持ち物を増やしてはならない。いつ何が起きるか分からない」と語っていたとのことである。

指揮者生涯の大部分に当たる約50年間にわたって国立レニングラード・フィルハーモニーの常任指揮者の地位を務め、レニングラード音楽院院長の要職も歴任し、国家的にも重要なポストを占めたが、生涯を通じて旧ソヴィエト指導部に対して強い疑念と反感を持ち続け、遂にソヴィエト共産党員とはならなかった。

生前は、西側諸国に登場する機会が限られていたことなどから、近年になり漸く貴重な映像や膨大な録音が発見され、資料の分析・咀嚼が進み、現在もその評価が著しく高まっている。

[編集] リハーサル

その独裁的なリハーサルは伝説的とも言われ、近年発売されたDVDやリハーサル録音等でその片鱗を伺うことができるが、徹底した厳格かつ妥協の無い完全主義を貫いたゆえに、そのリハーサルは長大な時間を費やすことも多々あった。

BBCがムラヴィンスキーの特別番組を放送した中に、旧レニングラード・フィルのヴァイオリン奏者が語った彼の仕事ぶりを示す象徴的なエピソードがある。それは、ブルックナー交響曲第7番のリハーサルの話である。

「ムラヴィンスキーはオーケストラのメンバーが完璧だと思っても満足せずに、家でスコア研究をし尽くし、メンバー全員にぎっしりと書き込みで埋まった楽譜を配布した。通しリハーサルの日は何度も何度も繰り返し細かい要求に答えなければならず体力的に厳しかった。忘れられない一日となった。最後の通しリハーサルのときはあまりにも完璧で信じられない演奏となり、そのクライマックスではまるでこの世のものではないような感覚に襲われた。しかし、最も信じ難いことは、ムラヴィンスキーがこの演奏の本番をキャンセルしてしまったことであった。その理由は『通しリハーサルのように本番はうまくいくはずがなく、あのような演奏は二度とできるはずがない』というものであった。」

ムラヴィンスキーにとって演奏は神に捧げるものであり、その時点で上手くいってしまえば後はどうでもよいものであった。

このような厳しい通しリハーサルを、演奏頻度が多かったチャイコフスキーの5番やショスタコーヴィチの5番のときでさえ、少なくとも10回は行ったという。結果的に音楽の完成度が高まるのは当然ではあるが、ムラヴィンスキーは常に不満を感じていたとのこと。オーケストラのメンバーは全く嫌気がさしそうであるが、そう言う訳でもなく周囲からは常に絶大な尊敬を浴びていた模様である。これもBBCの番組内でのインタビューで、ある旧レニングラード・フィルの女性奏者が以下のように語っている。

「ムラヴィンスキーは演奏家としてのわたしの人生に大きな影響を与えた人です。最初レニングラード・フィルに入団した時点では、ただ他人よりうまくヴァイオリンを弾けるというだけの人間でした。しかし、ムラヴィンスキーの指揮の下で演奏できたことにより、初めて本物の音楽家になれたように思えます。」

また、録音についてもいろいろ矛盾した側面を持っていた。マイクの存在と録音作業そのものを嫌い、演奏前は「マイクを全て撤去しろ」と要求したり、録音終了後「全て消去しろ」と述べたりし、関係者を困らせたりしたかと思えば、録音予定のない比較的満足のいった演奏終了後「今日の録音はうまくいったか?」と尋ねてみたりしたこともあるそうである。

ある曲目のレコーディングの際、繰り返し繰り返し10回も通し演奏を行った後、録音技師が「マエストロ、もう十分です。これらのものの良い所を繋ぎ合わせて良い物にできますから」と言うと即座に「いや、まだ不十分だ!」と返したそうである。ムラヴィンスキーにとって、継ぎ接ぎだらけの編集された録音というものは全く眼中になく想定の範囲外のものであり、完璧で理想的な通し演奏の実現のみしか念頭になかったのである。

そのような姿勢もあってか、生前の名声やその崇高な芸格と比較して発売されたレコードの量は非常に限られており、死後漸く様々な録音が発見され日の目を見たが、その種類が少ないことが惜しまれている。また、生前のレコードの種類の少なさと比較し、死後のレコードの種類の多さの差が非常に大きいのも極めて特異な例と言える。

[編集] 日本との関係

レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役でスヴャトスラフ・リヒテルが初来日している。1973年になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した。飛行機嫌いのため、シベリア鉄道と船を長期間乗り継いでの来日であった。ムラヴィンスキーは最初、遙か遠方の日本まで足を運ぶことをあまり快く思っていなかったとされているが、迎える側の献身もあり、彼は日本に対して非常に大きな好感を抱いたという。その後は1975年1977年1979年と、三回の来日を果たしている。

1981年1986年にも来日が予定されていたが、それぞれ出国の不許可、体調不良により断念した。1981年の来日断念に関しては、1979年の来日時にレニングラード・フィルの楽員から亡命者が出たことで、もともと党との関係が良好でなかったムラヴィンスキーの立場がさらに悪化したことと、日本のモスクワオリンピックボイコットによるソ連当局の悪感情が影響したためとされている。尚、1986年の来日公演は1973年以来の映像収録も予定されていた。

[編集] 代表的なレパートリー

[編集] ショスタコーヴィチ

ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチと親交を結んでおり、1937年に交響曲第5番を初演して以来、多くの曲を初演した(第6891012番等)。うち第8番はムラヴィンスキーに献呈されている。第二次大戦中ショスタコーヴィチが悲痛な運命を描いた第8交響曲で当局の不評を買って窮地に陥った際(第8交響曲は初演後1960年までの17年間上演禁止となる)、第5交響曲を積極的にプログラムに取り入れたムラヴィンスキーが聴衆の感動を誘い、ショスタコーヴィチの立場を救ったという逸話も残されている。ムラヴィンスキーが生涯を通じて二番目に演奏回数が多かったのは交響曲第5番であった。

録音に関しては、全集を残しておらず第5・6・7・8・10・11・12・15番のみである。いずれも名演として評価されているが、そのほとんどがライブ録音であり、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの芸術的完成度の高さをうかがい知る事が出来る。

交響曲以外にも、ヴァイオリン協奏曲第1番をオイストラフと、チェロ協奏曲第1番をロストロポーヴィチと共演し、初演したり、オラトリオ「森の歌」も初演し、貴重な録音も残している。

ショスタコーヴィチとの関係は、第13番の初演をムラヴィンスキーが断ったことで、いったん切れてしまう。初演を断った理由としては、当時、妻が不治の病を患っておりムラヴィンスキーが強い心痛を抱いていたことや、曲に強い政治性を感じたことなどがあるといわれる。しかしその後二人の関係は回復し、世界初演こそしなかったものの、第15番はムラヴィンスキーの手によってレニングラード初演され、純度の高い録音も残されている。なお、ソロモン・ヴォルコフ著「証言」の中では、ムラヴィンスキーは自分の曲を理解していないとかきおろされているが、もともと「証言」の信憑性に対しては一部に強い疑義があり、この発言の真偽も定かではない。

[編集] チャイコフスキー

チャイコフスキー1960年ドイツ・グラモフォンにより録音された後期三大交響曲が有名であり、ムラヴィンスキーの名を世に知らしめた名盤である。この録音以外にもこれら後期三大交響曲は演奏頻度が高く、幾多の名盤が残っている。特に交響曲第5番はムラヴィンスキーが生涯を通じて最も多く演奏した曲目であり、多くの録音が残されている。録音は、ムラヴィンスキーの演奏活動のほぼ全年代のものが残されており、その芸風の変化を比べる事もできる。

他には幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』や『くるみ割り人形』、『イタリア奇想曲』、『眠れる森の美女』、『弦楽セレナーデ』等も残している。

また、ピアノ協奏曲第1番リヒテル他、多くの有名ソリストと共演した録音が何種類も残されている。

[編集] その他

ショスタコーヴィチ、チャイコフスキー以外のロシアものとしては、超高速テンポでのグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲の名演が有名であるが、プロコフィエフ交響曲第6番を初演し定期的にプログラムに取り込んだり、ロミオとジュリエットの録音も残している。また、ハチャトリアン交響曲第3番を初演し録音している。幼少の頃親交があったグラズノフ交響曲第5番、組曲「ライモンダ」等作品や、彼が高く評価していたサルマノフの交響曲全集も完成させたり、スクリャービン交響曲第4番「法悦の詩」ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」、ムソルグスキーの「モスクワ河の夜明け」、「ホヴァンシチナ」やリャードフの「ババ・ヤガ」等の作品もレパートリーに含むなど現代物にも精力的であった。

ロシア物以外では、ベートーヴェンモーツァルトブラームスといったドイツ系の作曲家も比較的よく取り上げていた他、シベリウスヒンデミット等も演奏するなど、広いレパートリーを持っていた。

[編集] 映像

  • DVD「エフゲニー・ムラヴィンスキー」
    ブラームス交響曲第4番(全曲・リハーサル・インタビュー)、チャイコフスキー交響曲第5番(全曲・リハーサル・インタビュー)、ショスタコーヴィチ交響曲第5番(全曲・インタビュー)、ショスタコーヴィチ交響曲第8番(全曲・インタビュー)
  • DVD「エフゲニー・ムラヴィンスキーII」
    ベートーベン交響曲第4番(全曲・リハーサル・インタビュー)、ブラームス交響曲第2番(全曲・リハーサル・インタビュー)、ウェーバー「オベロン」序曲(全曲)、シューベルト交響曲第8番「未完成」(全曲)、チャイコフスキー「くるみ割り人形」(抜粋)、チャイコフスキー幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」(全曲)、ショスタコーヴィチ交響曲第12番(全曲)、サルマーノフ交響曲第2番(全曲)
  • DVD「ムラヴィンスキーとレニングラード・フィル50年の歴史」
    ブラームス交響曲第2番、ショスタコーヴィチ交響曲第5番、ショスタコーヴィチ交響曲第8番、ベートーヴェン交響曲第4番、ブラームス交響曲第4番、チャイコフスキー交響曲第5番(以上全て断片、練習、レコーディング風景)
  • DVD「ソヴィエト・ロシアン・アリストロクラット」
    「ムラヴィンスキードキュメンタリー」、ウェーバー「オベロン」序曲(全曲)、チャイコフスキー幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」(全曲)
  • DVD「ムラヴィンスキー / チャイコフスキー交響曲第5番」(1978年)
  • DVD「ムラヴィンスキー / チャイコフスキー交響曲第5番」(1982年)

[編集] 作品

1920年代に下記の音楽作品を残しており、近年白石光隆をはじめとする日本の演奏家により録音された。

  • 室内楽:夜想曲(ヴァイオリンとピアノ)、フルート、ヴァイオリン、ファゴットのための組曲
  • ピアノ曲:タンゴ、フォックス・トロット、メヌエット、小アダージョ、4つの前奏曲、ピアノ組曲、前奏曲と7つのフーガ
  • 歌曲:満ちたりし我が心

以下の作品は、現在まだ録音されていない。

[編集] 参考文献

ムラヴィンスキーと私 河島みどり / 著 草思社 : ISBN 4-7942-1398-0

[編集] 外部リンク

先代:
フリッツ・シュティードリー
レニングラード・フィルハーモニー
交響楽団首席指揮者

1938–1988
次代:
ユーリ・テミルカーノフ