ワシーリー・スターリン
ワシーリー・スターリン(Василий Сталин;1921年3月21日 - 1962年3月19日)は、ソ連の軍人。ヨシフ・スターリンの次男。父親の威光で空軍中将となりモスクワ軍管区空軍司令官にまで昇進するも、1952年に不祥事により解任。スターリンの死と共に軍籍も剥奪となった。
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[編集] 経歴
[編集] 出自
スターリンと後妻のナジェージダ・アリルーエワの間に生まれる。スターリンは、息子をワシカ・クラースヌイ(Васька Красный;赤猫)と呼んでいた。モスクワの普通の学校に通わされ、警護もなく路面電車で通った。学校では、「4」(5段階評価)以上を取ることは滅多になかった。1932年11月8日、母のナジェージダが自殺した。
1938年、クリミアのカチン航空学校への入校を希望したが、彼の成績では入校は不可能だった。そこで、ワシーリーは、ラヴレンチー・ベリヤに要請して入校に協力させた。
[編集] 空軍
入校当初、ワシーリーは父親の威光を盾に皇帝のように振る舞い、個室を与えられ、他の生徒とは別に将校食堂で食事をし、毎週外出していた。後にスターリンがこのことを知ると激怒し、学校長にいかなる特別扱いもしないように指示した。普通の生徒と同じ扱いになったが、ワシーリーの陽気な性格は他の生徒たちからも愛され、生徒隊長選抜の際には推薦もされた。
1940年4月、モスクワ郊外の第16航空連隊に配属。ある日、ホッケー選手のウラジーミル・メニシコフからガリーナを紹介され、ワシーリーは彼女に夢中になった。毎晩、花束を抱えてバイクで彼女の家に通い、彼女に見せ付けるためにモスクワ川上空を飛行機で飛び回ったりした。ガリーナは情に絆され、2人は結婚した。
独ソ戦勃発時、ワシーリーは空軍参謀本部附属監察飛行士だった。1941年12月、少佐、1942年2月には大佐に昇進した。戦時中、撃墜2機、協同撃墜3機の戦果を上げた。戦時中、負傷しているが、戦傷ではなく釣りでの事故だった。
1946年に少将、1947年に中将に昇進し、1948年にはモスクワ軍管区空軍司令官となった。当時、モスクワ軍管区の航空部隊には最新型の飛行機が集められ、模範部隊とされていたが、ワシーリーは飛行機には興味がなかった。ワシーリーは、スポーツに力を入れ、彼の努力によって10ものスポーツ・チームが編成された。
1952年7月27日、トゥシノでワシーリーが指揮する空軍記念日の観閲飛行が行われた。観閲飛行終了後、全政治局員がスターリンの別荘であるクンツェヴォの祝賀パーティーに集められた。ワシーリーも呼ばれていたが、彼はズバロヴォにて泥酔状態で発見され、この後ワシーリーは解任された。
[編集] 失脚
スターリンの死後、ワシーリーが「外国の通信員に会ったら全部話してやる」と言ったという話が報告され、1953年4月28日、彼は逮捕された。ワシーリーには、党指導部の信用失墜に向けられた中傷、祖国反逆、国費の浪費の被疑事実が提示された。その外、取調中、職務上の地位の濫用、侮辱、陰謀の事実も加わった。
拷問こそされなかったが、取調べは苛烈を極め、ワシーリーの側近全員が逮捕され、その中にはレーニンを運んだことがある運転手すらいた。彼は被疑事実を全て認め、1953年12月、ベリヤと共にウラジミールスキーを銃殺したという、やってもいないことすら「自白」した。ワシーリーは、ルビヤンカに収監された。
1955年9月2日、弁護士も、検察官もなしに裁判が行われ、強制収容所8年の刑が言い渡されたが、収容所には入らなかった。ソ連最高会議幹部会の特別指示により、ワシーリーはソ連で最も警戒厳重なウラジミールスキー・ツェントラル刑務所に送られた。そこでは、ワシリエフ(Васильев)と名乗らされた。
1960年1月11日に仮釈放される。ソ連共産党中央委員会の決定により、モスクワのアパート、年金、将官待遇等が与えられた。しかし、程なくしてワシーリーはアルコール依存症となり、彼の素行はモスクワにも伝えられた。1960年4月9日、クレムリンにおいて、クリメント・ヴォロシーロフと会見し、アルコールを止めるように強く勧められた。4月15日、ワシーリーは治療のための入国許可を、中国大使館に要請した。折りしも中ソ対立の真っ最中であり、最高会議幹部会は彼の仮釈放の即時取消、全ての特恵と階級の剥奪を決定し、彼をカザンに追放した。