矢田事件

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最高裁判所判例
事件名 監禁
事件番号 昭和56(あ)558
昭和57年03月02日
判例集 集刑第225号697頁
裁判要旨
最高裁判所第三小法廷
裁判長 伊藤正己
陪席裁判官 環昌一 横井大三 寺田治郎
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
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矢田事件(やたじけん)とは、1969年大阪市部落解放同盟(解放同盟)大阪府連矢田支部が、教職員組合の役員選挙に立候補した教師の挨拶状を差別文書と認定して取り上げた事件。

目次

[編集] 概要

教師らは当初差別文書だと認めたが後に前言を翻したため事態は紛糾。遂には教師たちが解放同盟役員を刑事告訴する事態に至った。

糾弾を受けた教師らは全員が共産党員であり、彼らが前言を翻し、刑事告訴した背後には共産党大阪府委員会の強力な「指導」があった。共産党は告訴をきっかけに党の総力を挙げて解放同盟を「暴力集団」と非難する文書を配布、この事件を契機に、60年代半ばから燻り続けていた解放同盟と共産党との対立関係は決定的なものとなった。 別名、矢田教育事件。本事件の挨拶状(後述)を差別文書とみなす解放同盟の立場からは矢田教育差別事件と呼ぶ。

[編集] 経緯

[編集] 越境入学問題

1960年代後半、大阪市では、被差別部落のある公立学校を忌避し、天王寺中学校などの「名門」学校に、本来の学区内居住者でないにも関わらず架空の住民登録を使って通学させる「越境入学」が、部落差別の現れであるとして解放同盟が問題として取り上げ、行政側もその正当性を認めて解消に乗り出し,教育行政上の大きな問題となっていた。

行政による調査の結果、学校によっては、現生徒数の半数近くが本来の通学校への転校が必要となるケースも明らかとなり、それに見合う教職員の人事異動も必至の情勢となった。このため教師の間には戸惑いや,問題を提起した解放同盟,さらには解放同盟と協調して越境入学解消に取り組み始めた行政当局や教育委員会、教職員組合執行部への反発も生まれた(教師の中には、自身の子息を越境通学させている例も多く、また、名門校への勤務は、出世へのステップや、当時大阪の教育界で取り沙汰されていた「リベート」「アルバイト」などの「教員利権」の獲得に極めて有利な条件だった)。大阪市教組内の共産党フラクションに属する組合活動家は、これを勢力拡大の好機ととらえ、教組が越境問題に取り組むのをサボタージュするよう活動を活発化させ、実際に市教組が定数異動の具体案を提示する執行部提案を中央委員会で否決させるなどの成果を挙げていた。

[編集] 木下挨拶状

1969年3月13日大阪市教職員組合東南支部書記次長選挙において、候補者である木下浄教諭(日本共産党員)(大阪市立阪南中学校)が立候補挨拶状を提出。その内容は、字面の上では同和教育を「きわめて大事なこと」とした上で、行政による押しつけが原因で労働強化となっている点を指摘し、労働条件の改善を訴えたものだったが、実際には同和教育に冷淡なまま「自宅研修」の名目で早退し、家庭教師などの「アルバイト」で副業に励む教師たちの現状をそのまま維持しようと訴える性質のものだったため、解放同盟には、越境入学問題に取り組まないまま「教員利権」を保持し続けようとする姿勢を明らかにしたものと映り、これを差別文書とみなして指弾した。市教組執行委員会や大阪市教委も解放同盟の指摘を正当と認め、一旦は木下らもこれを差別文書だと認めた。

[編集] 解放同盟による糾弾と教師による刑事告訴

矢田支部と木下らが、一回糾弾会を開催しそれに出席することで問題を解決する方向でまとまりつつあったかに見えた事態は、共産党大阪府委員会が組織的指導に乗り出した段階で一転した。大阪府委員会は、矢田支部の指摘を受けそれを認めた木下らを、党員にあるまじき態度として厳しく叱責、この指導を受けた木下らは、1名を除き差別文書ではないと態度を翻した。

矢田支部は糾弾会への出席を約束しながら当日直前になって欠席を通告するという対応をとり続けた木下とその推薦者たち15名に業を煮やし、解放会館に実力で連行、深夜まで十数時間に及ぶ糾弾をおこなった。 1969年4月19日、金井清・岡野寛二・玉石藤四郎の3教諭が解同矢田支部長ならびに同書記長らを逮捕監禁強要未遂罪刑事告訴(矢田刑事事件)。

この後、挨拶状を差別文書だと認めていた大阪市教育委員会は、再三の教委の指導を拒み続けた木下たち11名の教員を左遷し、強制研修を命令。1973年7月17日、木下たち8名はこの処分の取消と損害賠償を求めて大阪市を提訴した(矢田民事事件)。

[編集] 刑事判決

部落解放同盟側が本件に関する被告人である。

1975年6月3日大阪地方裁判所は木下挨拶状を部落差別解消を阻害しかねない文書と認定、限度を超えない限り、被差別者による糾弾も社会的に認められるべきもので、本件は部分的には行き過ぎではないかとみられる部分もあるものの、木下らの態度にも原因があるとして支部長らに無罪を言い渡した。

1981年3月10日大阪高等裁判所は一審判決同様、木下挨拶状を部落差別を助長しかねない文書と認定、差別を受けた際、部落民が抗議行動を行うことは正当で、かなりの厳しさを帯有することもあり得ると判断しながらも、一連の被告人らの行為には行き過ぎがあったとして支部長に懲役3ヶ月(執行猶予1年)の有罪判決を言い渡した。

1982年3月2日最高裁判所上告を棄却。これによって被告人らの有罪が確定した。

[編集] 民事判決

木下教諭らが「原告」、部落解放同盟大阪府連の糾弾・確認に加担した行政「大阪市」側が「被告」である。

1979年10月30日大阪地方裁判所原告勝訴。大阪地裁は、木下挨拶状を「労働条件の改善を訴えるもので、差別性はない」と認定。被告大阪市は合計1140万円の損害賠償の支払を命じられる。

1980年12月16日大阪高等裁判所が一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却。

1986年10月16日最高裁判所が被告側の上告を棄却。原告の勝訴が確定。

[編集] 参考文献

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