土屋正忠

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日本の旗前衆議院議員 土屋 正忠
生年月日 1942年1月13日(70歳)
出身地 東京都武蔵野市
出身校 早稲田大学法学部
学位・資格 法学士
前職 武蔵野市長
世襲
当選回数 1回
所属党派 自由民主党
党役職 自由民主党東京都第18選挙区支部長
ウェブサイト 土屋正忠オフィサルサイト
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土屋 正忠(つちや まさただ、1942年1月13日 - )は日本政治家

衆議院議員(1期)、83会会長、武蔵野市長(6期)、武蔵野市議会議員(2期)を歴任した。

目次

[編集] 概要

[編集] 略歴

東京都武蔵野市出身(出生地は旧東京府東京市神田区1950年に武蔵野市に転入)。武蔵野市立第三小学校、第三中学校を経て東京都立武蔵高等学校早稲田大学法学部卒業。高校時代は山岳部に所属し生徒会長を務め、早大在学中はワンダーフォーゲル部に所属していた。大学卒業後、武蔵野市役所に就職し、武蔵野市職員組合委員長を務める。

1975年、武蔵野市議会議員選挙に出馬し、初当選。市議を2期務めた後、1983年に「高額な退職金の是正」等の公約を掲げ、武蔵野市長選挙に保守系無所属自由民主党新自由クラブ推薦)で出馬し、革新系藤元政信市長を859票の僅差で破り初当選した。6回連続当選し、2005年までおよそ22年にわたり市長を務めた。

2005年小泉純一郎首相から直々に首相官邸に呼ばれ、第44回衆議院議員総選挙への出馬要請を受ける。東京都第18区から出馬し、小選挙区では民主党菅直人に敗れたが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、初当選を果たした。なお、同年11月の武蔵野市長選挙では自身の後継候補を応援したが、菅らが擁立した邑上守正に敗れる。

総選挙後、05年初当選組の新人議員で結成された83会の会長を務める。2006年安倍内閣総務大臣政務官に任命され、安倍改造内閣でも再任された。2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では東京18区で菅に敗れ、比例復活もならず落選した。

[編集] 武蔵野市長

  • 市長就任後、土屋がまず取り組んだのは革新市政の名残である職員の高額な退職金の是正だった。財政再建のために退職金の切り下げを決定したため、全国の自治労から2000人の組合員が集結し盛んにデモが行われ、土屋市長を警視庁SPが護衛する事態にまで発展したが、土屋はあきらめず行革を断行し、就任後1か月足らずで退職金の切り下げを成し遂げた。交渉相手の労組にはかつての同僚や先輩もおり、土屋は「身を切るような思いだった」と述懐している。この行革により土屋は「ファイティング・メイヤー(戦う市長)」の異名を取った。
  • 市役所内の行革に並行し、就任後は吉祥寺駅周辺の都市計画事業に取り組んだ。北口駅前広場の開発計画は、1969年に完成した吉祥寺駅の高架化にあわせて構想され、1964年に都市計画が、1966年に事業決定されたものだが、土屋市長就任時においても北口駅前の中央部には未だ27件の未買収地が残されいた。1978年の時点で広場の一部になっている吉祥寺大通り側の工事は大半が終了していたが、中心部については用地買収が1983年まで全く進まず、取得交渉は完全に停滞。当初の完成予定である1972年から、10年以上が経過していた。そのため土屋市長はこの問題の解決のため不退転の決意をもって望む姿勢で交渉体制を強化し、未買収地が15件に減った1985年3月に土地収用法を適用。東京都下での市町村による土地収用法適用は初めての事例である。一時は成田空港のように、土地を収用される側の猛反対も予想されたが、交渉を重ねた結果、行政代執行による強制収用を回避した。1987年にバスターミナルの拡張が行われ、駐輪場も整備されたため、駅周辺の違法駐輪ランキングナンバー1の汚名は返上された。さらに駐輪・駐車場や共同荷捌き場の建設に向け、地下利用のための種地も購入された(邑上守正市政下でも地下利用は継続して検討中)。なお当初の吉祥寺駅周辺都市計画案(1962年発表)には北口だけでなく南口も含まれていたが、当時は都市計画決定の前段階で民間による開発を止められず、1970年には京王吉祥寺駅ビル(ターミナルエコー)が建設された。しかし将来的な見地から2000年に南口広場再開発の都市計画が決定され、またターミナルエコーも全館京王電鉄が所有し、建て替えが予定されている。2004年には吉祥寺の総合的なまちづくりの方向性を定める「吉祥寺グランドデザイン委員会」が設立され、土屋は委員長を務めた。
  • 市東部の井の頭公園付近が計画地に含まれる東京外環自動車道1966年に都市計画が決定されるも1970年に凍結)については、国家事業であるものの地元負担の押し付けを認めず、高架案が凍結されていた状況下では前任の藤元政信市長同様に反対し、地元の住民運動に連帯する姿勢を明確にした。のちに国・東京都が東京外環自動車道の高速道路部を高架から大深度地下に変更して推進する方向に転じたため、総合的なまちづくりの観点から外環道路の議論を行うべく、1967年以来継続して市議会に設けられていた「外環道路反対特別委員会」から「反対」の文字を外すよう市議会に諮り、2004年に「外環道路特別委員会」に名称が変更された。
  • 武蔵境駅北口の都市計画事業については、1977年(昭和52年)に北口駅前広場や取り付け道路など再開発事業の都市計画決定手続きのための市案が既に発表されていたが、地元の意向が入っていないなどの理由で白紙撤回の陳情や反対期成同盟が結成されるなどまったく進展せずにいた。土屋市政になると武蔵境のまちづくり市民委員会を組織し、そこに地元の商業者・大学・PTA関係者や南口側からも市民を入れ、さらに反対している人々の代表者からも3人加わってもらい協議を進めた結果反対がゼロとなり、1986年(昭和61年)には都市計画の線引きを新たに見直した新市案による都市計画決定手続きが行われ、翌年の事業認可手続きを経て、北口再開発事業も軌道に乗った。また、1973年(昭和48年)の武蔵野市による農林省への土地買取請求に端を発し、取得に向けて動き出した農林水産省食糧倉庫跡地については、土屋市政以前から「青少年のための施設」と位置づけられながら、東京都立による施設誘致の検討やバブル期における地価高騰による影響で150億円ともいわれた土地取得費の問題など、長期にわたる調査・検討期間、食糧庁との折衝を経て新しいタイプの公共施設建設が熟慮された。2003年(平成15年)10月から翌年2月にかけて施設の計画づくりの段階から参画し、計画を練り上げていく設計者を公募型プロポーザル方式により選考するなど正式な段階を踏み、図書館機能を含んだ複合文化施設武蔵野プレイス用地として65億円で買収されるに至り、2011年(平成23年)7月に完成した。なお、三鷹駅北口・武蔵境駅南口の駅前広場はそれぞれ三鷹駅南口・武蔵境駅北口に比べて開設が遅かったこともあってか、地権者も少なく、三鷹駅北口は1953年(昭和28年)、武蔵境駅南口は1979年(昭和54年)という早い時期に再開発事業を伴わずに駅前広場を完成していた。1995年(平成7年)には三鷹駅北口地区において駅前交通広場に通過交通が流入しないよう2本の補助幹線区画街路が計画され、2009年(平成21年)現在、梅林跡地開発等にあわせて、総合設計制度を利用するなどし、区画街路も整備されつつある。
  • JR中央線三鷹立川間の連続立体交差化事業を東京都や沿線自治体、JR東日本と連携して強力に推進した。JRがまだ国鉄だった時代の1966年(昭和41年)に中野荻窪間の高架複々線化事業が完成、1969年(昭和44年)には荻窪・三鷹間においても連続立体交差化が完成していた。中野から三鷹までは国主導のもとに地元負担なしの国家事業として国、東京都の負担で進められたが、国鉄の分割民営化等に伴い大規模な投資は控えられるなど三鷹・立川間はなかなか進まずにいた。連続立体交差化・複々線化が行われる背景として、三多摩の人口は1965年(昭和40年)頃からの40年間で200万人から400万人へと倍増したにもかかわらず、中央線の輸送力は1.1倍に留まっていたことが挙げられる。通勤5方面作戦により、東海道線が1.7倍、常磐線が3.3倍、総武線が3倍、東北線が2.4倍の輸送力になっていたが、都区部に対する三多摩格差の成せる業か、東京西部方面への大動脈である中央線の輸送力増強は進まずにいた。沿線自治体による地元負担への拒否姿勢も進まずにいた大きな要因とされる。しかし、市長に当選した土屋は新宿区中野区杉並区は東京都の特別区に属し、固定資産税都市計画税を都が特別区に代わって課税しており、市町村は独自に課税しているので地元負担なしの主張は無理がある点を指摘しリーダーシップを発揮、沿線自治体の都議、首長、当時の鈴木俊一都知事等と協力し、現状打破のためには地元負担止む無しということで足並みがそろい、1989年(平成元年)に鈴木都知事が7000万円の調査費をつけるなど事業化に向けて大きく動き出した。また、沿線の生産緑地法にかかる土地との税制上の整合性を図るための租税特別措置法改正には故橋本龍太郎総理の手助けもあった。三鷹・立川間の在来線連続立体交差化により、18の開かずの踏切が解消され、南北交通がスムーズになることが期待されている。このように開かずの踏切解消のための道路事業として行われる三鷹・立川間在来線連続立体交差化事業には、国からの補助としてガソリン税を主体とした750億円が投入され、その他に東京都負担分が550億円、地元沿線自治体負担分が200億円(武蔵野市負担分は高架橋ができる距離に応じて約50億円=中央線41億円、西武多摩川線9億円)、JR東日本の負担が300億円であり、総事業費はおよそ1800億円である。なお、複々線化事業(線路増設)に関しては1994年(平成6年)に高架の地下部分に地下方式で都市計画決定がなされており、こちらは基本的にJR東日本の単独事業となるので着工までにはまだ時間を要するようである。
  • 木の花小路公園やむさしの自然観察園、吉祥寺西公園など地域住民が計画段階から参画し維持管理も行う市立公園づくりや、都市計画法に基づく都市マスタープラン[1]など市の重要施策で市民によるワークショップ方式を取り入れた。それまでは行政が勝手に公園をつくり市民がそれを利用するという時代だった。また、御殿山通り拡幅整備のような都市計画道路築造でもワークショップ方式を取り入れる試みを行った。その他にも、戦時中に米軍の爆撃対象となり関連敷地も含め66万㎡の敷地を有していた中島飛行機武蔵製作所の西工場があり、戦後は米軍宿舎グリーンパークが設置された場所である都立武蔵野中央公園用地については、地元の強力な返還運動もあって美濃部亮吉都知事時代の1973年(昭和48年)に日本に返還され、1975年(昭和50年)には都立公園用地として東京都に払い下げられていたが、米軍宿舎が取り壊された1976年(昭和51年)以降長期にわたり原っぱのままで暫定解放されていたため、原っぱのまま残そうよという市民運動がおこった。東京都では敷地内に日本庭園も設けるなど既に整備構想を作成していたが、原っぱのままの公園にとの市民運動を受け、土屋もそれに呼応し当時の鈴木俊一都知事に面会するなど東京都に強力な働きかけを行った。武蔵野開村100年のメモリアル・イヤーだった1989年(平成元年)に都立公園としては異例の市民の要求をほぼ全面的に取り入れた10万㎡の原っぱのままの公園は開園した。加えて、土屋は都市公園整備促進協議会会長を務めた。
  • 体験教育に力を入れ、都市に生きる子ども達を自然の豊かな地方に長期滞在させ、農業自然を体験させ、人間は自然の営みの中で生き生活してきた生物であることを実感してもらう、生産の仕組みを知る、労働の意味を知るなど、普段の学校生活(ファーストスクール)では不可能な体験学習を正規の授業のカリキュラムの一環として行うセカンドスクールの充実に努めた。2003年(平成15年)、セカンドスクールは第1回「オーライ!ニッポン」の大賞を受賞した。
  • 「都市は単立できない。都市と農山漁村は対立するのではなく協力すべきだ」と主張した。1999年(平成11年)頃に、吉祥寺で土屋と意見交換を行った鳥取県選出の石破茂防衛庁長官(当時、農林水産政務次官)は、土屋の都市と農村に対する主張やセカンドスクールなど教育に対する意見に感銘を受け、「農の未来は都市にあり」の言葉を使わせてもらうと語っている[2]2003年(平成15年)には、鳥取県片山善博前知事と「都市と農山漁村との相互交流元気・活力宣言」に調印した。基礎的な自治体の市と広域的な行政の県がパートナーシップを結ぶというのは、それまで例を見ないことであった。関連して、片山前知事の主宰する「鳥取自立塾」講師を福嶋浩彦我孫子市長、石田芳弘犬山市長らとともに務めた。
  • まだ東西冷戦影響下にあった1987年(昭和62年)に始まった日本-ソビエト間を行き来する渡り鳥の研究に関する民間交流がきっかけとなった極東ロシアハバロフスク市との交流を市長として進めた。土屋は武蔵野市としての正式な交流を始める前年の1991年(平成3年)、15人の子供たちに付き添い、アムール川を始めとした現地を訪れ実地調査をしている。その他、中国北京市、テキサス州ラボック市等の青少年海外相互派遣交流、ルーマニアブラショフ市との市民交流、大韓民国ソウル特別市江東区との職員相互派遣交流などが行われるようになった。土屋市政22年の間に、市民の理解・協力もあり、武蔵野市の国際交流事業は大幅に拡充された。武蔵野市は、現在でもセカンドスクールや民泊事業など、国内においても姉妹友好市町村を中心に積極的に交流事業を続けている。関連して、武蔵野市長としてのシベリアとの野鳥観察交流や寒帯林保護などの実績が評価され、2006年(平成18年)から小杉隆文部大臣の後任として、日本野鳥の会の理事(無給)の1人に就任し、主に環境省への橋渡し役を務めている[3]
  • 1994年(平成6年)4月、当時、知事・市長・町村長(郡守)が任命制であり、翌1995年(平成7年)7月より民選に移行予定だった韓国の忠清北道知事からの招待を受け韓国を訪問、「選挙で選ばれた市長の役割」をテーマに講演し、メディアからも日本の地方自治のエースとして紹介された。また、それ以降ソウル市長など韓国各市の市長との交流や大学での講演、武蔵野市の市民団や市職員の相互派遣など多面的な交流が始まった。
  • 市民の満足度を重視する政策を採り、日本経済新聞社と日経産業消費研究所が行う行政サービス評価の全国調査で全国トップの常連になるなど、結果を残している。
  • 全国初のコミュニティバスムーバス」を導入した。今までのバスにはない、きめ細やかなバスサービスを実現し、これを手本に日本全国のコミュニティバスの基本的なシステムが構築され、関連法案も整備された。路線開設までには紆余曲折があり、路線バスの許認可官庁だった運輸省は、不特定多数を対象とする新しいマイクロバスによる路線は前例がないし、通しても需要面・経営面で成り立つのかどうかを問題視し、警察庁は幅8m以下の道路に路線バスを通すのは安全面から認可できないとの見解を示していた。武蔵野市では需要調査や高齢者の実態調査を行い、グループヒアリング調査も実施し、住民の意見を聞いたところ「そういうバスがあれば利用したい、210円のバスなら乗らないが100円ならば乗る」などの答えが多いことがわかり、当落線上は150円だった。その後、それらの調査を元に委員会を立ち上げ、運輸省や警察庁の若手官僚や交通専門家・バス会社・車両メーカーにも委員会に加わってもらい4年間の議論を重ねた。土屋は「最後にできないという結論が出てくるのはやむを得ないけれども、最初からできないということはいわないでほしい、どうしたらできるのかを考えて欲しい」と注文をつけていた。結果、運輸省・警察庁ともに認可を出し、バス会社も赤字が出た場合の補填を条件に運行委託を受入れる会社があった。こうして1995年(平成7年)11月から、都市の路線バス空白地域解消を目的としたムーバス1号路線が走り出すに至り、数年後には黒字化を達成した。この時の委員会に参加した運輸省の若手官僚は、その後、国会議員となり活躍している赤澤亮正である。1998年(平成10年)、ムーバスは日本生活文化大賞の大賞を受賞した。(『ムーバスの思想 武蔵野市の実践』参照。)
  • 「一部の団体利益より全体の市民益」として西多摩郡日の出町にある多摩地区のゴミ最終処分施設設置に関して、地権者や環境団体の理不尽な要求や圧力を拒否し続けた。
  • 青梅市二俣尾での森林の活用(農林漁業の第五次産業化の実践)や鹿害で悩む西多摩郡奥多摩町での植林事業(奥多摩・武蔵野の森事業、予算は奥多摩町50万円、武蔵野市100万円、東京都50万円)を推進し、多摩地区の市で構成するゴミ最終処分組合が日の出町の二ツ塚処分場で焼却灰の埋め立てをしてきた一方で、植林などで森林を守り育てる行動によって、人間が生活していく上においてバランス感覚が非常に大切だということを知る市民も多いようである。現在、武蔵野クリーンセンターで中間処理(焼却処理)された可燃ゴミの焼却灰は、二ツ塚最終処分場に埋め立てられず、すべてエコセメント化されている。関連して、武蔵野市では1999年(平成11年)から旧公団住宅建て替えを契機に、大型の生ごみ処理機独立行政法人UR都市機構(旧・住宅・都市整備公団)と協力して設置し、生ゴミの堆肥化を図り、主にその堆肥は農地やガーデニング用に循環利用されている。また、一般住宅でも生ゴミ処理機導入の際に申請すれば3万円を限度に助成金が支給される。生ゴミの堆肥化・焼却灰のエコセメント化それぞれに課題はあるが、エコセメント化施設の稼動によって、現実として多摩地区において自治体やゴミ処理組合の可燃ゴミ焼却施設がいくつも稼働している中で、何も対策を講じないままでいると2013年(平成25年)〜2014年頃までには満杯になり、その後の目途はまったく立たないといわれた二ツ塚最終処分場は大幅に延命化されるに至った。土屋は三多摩地域廃棄物広域処分組合(現・東京たま広域資源循環組合)の管理者を8年間務め役割を果たした。多摩地区の自治体では、ゴミの最終処分場を引き受けてくれている日の出町に感謝の意を表すため「三多摩は一つなり」交流事業を実施し、各種催し物に日の出町民を招待したりしている。なお、武蔵野市における家庭用生ゴミ処理機に対する補助金は、補助金を交付したうちの6割以上で資源化が行われていないことを背景に、2009年(平成21年)3月をもって打ち切られることになった。
  • 市長時代、2000年(平成12年)から新たに導入が検討されていた介護保険制度について、国民的論議がなく現場無視で政策決定がされている、家族介護の負担増、行革への逆行、要介護認定や財源の効率的な配分、民間NPOとの連携のあり方など地域福祉を踏まえた問題点を指摘し、改革を提言していた。公的介護の充実は図られるべきであり、国民はそのための必要な財源も新たに負担すべきだということには変わりがないとしながらも、新たに導入される介護保険制度は、保険という形を取りながらも市町村が保険者になり、公費との折衷という形で運営され、コンピュータによる機械的な認定といった国の関与も隅々まで行き渡っていて、公費でもなければ保険でもないという歪んだ形になっているが、制度は簡素・明快・公平なものにして、その公的サービスは血の通った温かいものでなければならないとした。(『介護保険をどうする 市長からの「改革」提言』参照。)
  • 中学校給食を新たに始めることに関しては一貫して慎重な姿勢を取り続けた。武蔵野市では、戦後間もない1948年(昭和23年)2月からミルク給食を開始、その後、同年9月におかずのみの給食、1955年(昭和30年)には小学校での完全給食が実施されていたが、中学校給食については、1969年(昭和44年)にミルク給食を開始して以降、完全給食は実施されて来なかった。その後、社会状況の変化から、1970年(昭和45年)前後に中学校給食の議論が始まり、武蔵野市における小学校給食の評価や今日の食生活との関わりなど、多岐にわたって議論され、武蔵野市では学校教育の一環として教育的な見地から中学校給食をやらないという方針が続けられて来た。歴代市長も中学校給食に関して難しく捉え、土屋市政以前の市議会でも与野党を問わず反対意見も多かった。土屋市政になってからの市議会において、「給食はまだ社会全体が貧しくて自分たちの食糧を個人の力で確保できない時代に始まった。しかしながら、時代が移り、今日では誰もが自由に食糧を確保できる時代になったのだから、その中で給食の持つ教育上の意味を問い直そうというのが最近の出来事であり、中学校給食を行わないのも1つの懸命な措置として評価される部分もある。」と土屋は発言しており、それまでの方針を踏襲する意思を示していた。この発言の背景として、共働きの家庭が増えたりして弁当を持ってこない家庭が増えていることなどに理解を示しながらも、「子供に食事を与えるのは親の責任である、戦後、給食が始まったのは、せめて、小さな子供たちには、きちっと栄養のあるものを食べさせようとの主旨から始まったのであり、現在は戦後の貧しい時期に比べて飢えていないので、むしろ個人個人の問題として位置づけるべき」などの反対意見も大きかったことや、これらの議論が1970年(昭和45年)以降3代の市長に渡って繰り返されてきた経緯などがある。市議会において、中学校給食実施に関する陳情が採択されたりもしていたが、市民へのアンケートで中学校給食は高齢者障害者に対する給食の充実に次いで3番目であったこと、1992年(平成4年)2月に執行機関である教育委員会が中学校給食は実施しないとした答申、それを受けた1992年(平成4年)6月の議決機関である市議会での実施への決議、中学校給食検討委員会が示した3つの条件(1.委託なしの単独調理校方式、2.複数メニューでの選択給食ができる、3.ランチルームでの食事ができる)、個ができないことを公がやるという原則など、様々な角度から総合的に判断する市長としての立場から、現段階で中学校給食はやらない、武蔵野市の長期的な方向性を定める長期計画を策定する過程で検討していくとの立場を土屋は取り続けた。また、市議会では「愛情弁当」や「親子の絆」などの言葉が議員も含め使われ、メディアなどでも「土屋市長の愛情弁当論」として取り上げられた。
  • 市の資産負債の状況を表すバランスシートの作成を市長として進めた。武蔵野市のバランスシートは、貸借対照表だけではなく、行政コスト計算書、資産収支計算書、外郭団体も含めた武蔵野市全体のバランスシートを体系的に作成しているのが大きな特徴となっており、自治体が取り組んだ先進的なバランスシートとして、日本公認会計士協会の公会計のテキストにも採用された。バランスシート作成のみに終わるのではなく、バランスシートを最大限利用し、行政評価システムへの情報提供、長期計画や予算制度への情報提供へと発展させ、武蔵野市で働く職員が常にコスト意識を持って経営改善に取り組むことが期待された。土屋は市長時代、「都市を経営する」を信条としていた。
  • 元市議の開業祝いなど、市長交際費6件を違法に支出したとして、6件分の金額7万5千円の返還を求めた住民訴訟で、違法であるとする住民側とあくまでも社会通念上の儀礼の範囲内であるとする土屋側双方の上告を棄却する判決最高裁は言い渡し、6件のうち3件を違法であると認め、土屋側に5万円の返還を命じた東京高裁判決2006年(平成18年)に確定した。このことは、市長交際費の民間交流支出の使い道に関しての初の判例となり、他自治体の市長交際費返還にも波及した。
  • 政治主導で始まった多選問題に批判的であり、地方自治の本旨(住民自治、団体自治=自治体のことはその自治体の住民が考え判断し決めていく、そして法律の範囲内で必要限度を超えた国の関与は受けないということ)にかかわる問題として捉え、更なる議論が必要であり、多選を法律で制限するという国の関与は地方分権と多様な地方自治の保障という時代の潮流に反すると主張し、「多選禁止は合憲か」というレポートを研究機関に提出している。関連して、最近民主党が政策として掲げている地域主権に関して、かつて土屋は、石原慎太郎都知事が2002年(平成14年)の行政文書で地方主権という言葉を使ったことに驚き、地元の都議を通して石原都知事に地方主権ではなく地方分権という言葉を使うべきではないかと質問してもらっていた。地方主権が地方分権の運動論のための言い回しに過ぎないとすれば、地方主権や地域主権も時代的な意味があるが、地方主権という言葉や地域主権という言葉が一人歩きすれば国民をミスリードすることになると警告していた。主権とは立法司法行政の三権を指すのであるとし、アメリカイリノイ州知事が死刑囚の刑の執行を差し止め減刑し、終身刑にするとの報道を例に挙げ、内容の評価についてはさまざまな意見があるにせよ、司法が下した判断、死刑という極刑を知事の行政命令で減刑するというのは、まさにイリノイ州知事は主権者そのものであり、アメリカはユナイテッドステーツ、連邦国家であると思い知ったとの感想を披露し、世界の中にはもう少し緩やかな連邦制もあるにはあるが、日本の道州制はユナイテッドステーツオブニッポンを目指すものではないことは明らかであるとし、その意味で地方主権という言葉には地方分権を強調するあまり、国民におもねり、国民をミスリードする響きがあり、地方分権をどう進めるかは大いに論議すべきであるが、共通の認識を得るためにも言葉の定義を厳密にしなければならないと2003年(平成15年)の市議会本会議で発言していた。さらに、憲法から派生する由来権であり、国権の最高機関である国会に結実している国民主権という言葉はあっても、地域や地方に主権という言葉をつけることはそぐわないとし、地方主権がもし当てはまるとすれば連邦制ではないかとも発言していた。このことを踏まえて、土屋の属する東京第18選挙区内に貼られた自身のポスターには「地域の力 つくる日本」と書かれていた。また、これらのことを国政転身後に所属した衆議院総務委員会でも取り上げ、佐藤勉総務大臣(当時)に答弁を求めた。この時、麻生太郎首相(当時)は外交経済には大変お強くても地方自治はそこそこなのかなと思うと発言し不規則発言を浴びたが、誰にでも得意不得意はありますからとその場で野次に言い返している。
  • その他、市内6ヶ所にあり戸籍住民登録中心の事務しか行っていなかった出張所を住民サービスの質・量の向上を図る目的で業務量を拡充した上で2カ所へと統廃合した市政センター(市役所があるために市政センター設置が当初見送られた中央地区にも後に追加設置され3ヶ所になる)、市民の健康をサポートする市立保健センター・武蔵野総合体育館の建設、武蔵野赤十字病院との市民用病床確保のための協定締結及び三鷹市小金井市も加わった小児科医療充実のための財政支援、 ダイアナ妃が英国赤十字副総裁として来日のおりに視察されたこともある単独型デイサービス対応の北町高齢者センター、都との合築による特別養護老人ホーム「吉祥寺ナーシングホーム」や「ゆとりえ」・学生と高齢者とが一緒に生活する「桜堤ケアハウス」・重度の障害を持つ人のための障害者総合センター等の設置、地域・福祉団体が市から年間1000万円を上限とする補助を受け(市がお金を出すが口は出さない)デイサービスショートステイを行う施設を起業・運営するテンミリオンハウス事業、広域化・多様化する都市行政の課題解決に向け情報交換や協議を通して各市の施策策定への一助とするための任意の広域行政協議会の設置(武蔵野市三鷹市小金井市西東京市)、市場調査の手法を用いてのニーズ調査やアンケート調査・「市長と語る会」「サラリーマン市民会議」「タウン・ウォッチング」等の開始、高齢者福祉に関する基本的事項・理念と主要施策内容について規定した高齢者福祉総合条例、都に先んじた生活安全条例・違法駐車防止条例の制定、情報公開条例の制定、 喫煙ポイント(マナーポイント)を設けた上での駅周辺の路上禁煙地区の指定、住民運動から始まった武蔵野台地の新田開発のきっかけとなった玉川上水千川上水の清流復活(事業としては東京都の事業)、武蔵野市を流れる唯一の一級河川である仙川の水辺環境再整備、雨水浸透施設の全公共施設への設置の完成とマンション等の大規模開発への設置義務要綱の制定、太陽光発電の小学校等市内都市施設への導入及び住宅用太陽光発電補助金の新設・燃料電池天然ガス自動車の導入・三多摩では初となった市庁舎のISO14001認証取得など環境負荷の少ない新エネルギー政策の推進、冷え過ぎなどの問題もある冷房に頼ることなく暑さ寒さに応じて発汗作用などの体温調節機能を乳幼児のうちに身につけさせる試みの保育園等における「涼」環境の創出、子育て支援施設の0123、高齢者・障害者の移動を助けるドアトゥドアのレモンキャブ、市内を見回る武蔵野市安全パトロール隊(ホワイトイーグル)・吉祥寺の繁華街を見回るブルー・キャップの創設、図書館3館構想に基づく中央図書館の移転建替え、市民運動を背景に国の法律にない領域を規制した「環境浄化に関する条例」及び「旅館・レンタルルーム規制条例」を根拠として「環境浄化特別推進地区」に指定された吉祥寺ヨドバシ裏地区(旧近鉄裏=風俗街)への区画道路新設の決定、吉祥寺図書館・吉祥寺シアターの設置(土屋は市議時代にストリップ劇場建設反対で市民運動の事務局長を務めた)、姉妹友好都市の物産を市民に提供するアンテナ・ショップ「麦わら帽子」、武蔵境駅南口への新しいタイプの公共施設建設(ひと・まち・情報創造館「武蔵野プレイス」)、市内及び周辺の5大学の協力を得た生涯学習の拠点「武蔵野地域自由大学」の創設、市役所西庁舎増築による危機管理の拠点・防災安全センターの設置計画など武蔵野市の培ってきた市民参加・市民自治は土屋市政時代に大幅に厚く拡充された。それとともに、選挙によって市民に選ばれた市議会を最大限尊重し、市長として意見が異なるところは意見が異なるとはっきり申し上げつつも対話を重ね、市長と市議会が車の両輪となり、それを支える市民や専門家、職員などが一体となって国の進める権限の移譲や自治権の拡充に見合った働きをしていかなければならないと市議会において市政運営に対する決意を表明し、住民にとって最も身近な行政であり基礎自治体である市町村が国の施策をリードするのであると語っていた。
  • 全国市長会理事、東京都市長会会長、49歳までに当選した市長で構成される全国青年市長会会長(土屋は設立時のメンバー)、中央教育審議会義務教育部会臨時委員などを歴任。

[編集] 衆議院議員

  • 民主党の政策を「20兆円を超えるバラマキ」[4]として厳しく批判した。しかしながら、自身の所属する自民党は民主党よりも大きな額である26兆9000億円にも及ぶ経済政策を発表。
  • 子供が被害者となる事件が多発していることから、2006年(平成18年)10月、自民党政務調査会の中に、当時の中川秀直政調会長の特命で「子どもの犯罪防止対策に関するプロジェクトチーム」が発足し、中山成彬委員長の下で事務局長を務め、子育て・教育など地方自治の現場での経験をもとに発言し、まとめ役のひとりとなった。
  • 総務大臣政務官としては、主に旧自治省の所管である地方自治の面で当時の菅義偉総務大臣を補佐し、財政再建団体となった夕張市の財政再建プロジェクトチームのリーダーとして役割を果たした。2008年(平成20年)度決算時からは、自治体の財政状況の悪化を予見し早期健全化をはかる目的の「財政健全化法」が機能し始める。また、子どもを犯罪から守るための「携帯電話フィルタリング」でも携帯電話3社の社長に強く協力を要請するなど菅義偉総務大臣の下、役割を果たした。
  • 市長時代の2004年(平成16年)、課税額総額を変えない前提で、第二住民登録・第二住民税制度の創設を自著の中で提言し、お笑いグループの爆笑問題が活用して話題になった現行のふるさと納税制度につながる提案をしており、2002年(平成14年)発行の市勢要覧においても既に第二住民登録・第二住民税制度の導入による抜本的な取り組みの必要性を記述していた。このことは、たとえ税源を地方に移譲しても税金をかけるべき所得や資産・消費などの富が三大都市圏をはじめとする大都市部に集中する以上限界があり、今までにない発想が必要であるとのことからだった。また、2007年(平成19年)6月には経済専門のブルームバーグテレビジョンに出演、総務大臣政務官としてふるさと納税制度についてインタビューを受け、その意義を説明している。2008年(平成20年)、増田寛也総務大臣のもとでふるさと納税は制度化された。
  • 公務員制度改革では、国民の批判は特権的な天下りや何度も渡っていく渡りといったキャリア組のいろいろな問題に集中しているが、この問題の本質は、ノンキャリア組を中心とした現場の労働組合が組合を通じて職場支配していることが最大の問題点であるとし、社会保険庁地方農政局の問題も労働組合が合理化反対闘争を繰り返したことの帰結であると指摘、制度改革の検討事項の一つである団体交渉権(労働協約締結権)を国家公務員に付与することについては百害あって一利なしと主張し、地方自治体に与える影響も甚大だとしている。トヨタなどの民間会社の労働組合が賃上げ要求やストライキが可能なのは、会社単位で使用者と従業員が一体となって活動して生産性を向上させ利益・富を生み出し、その利益・富を株主に配分するのか、内部留保にするのか、従業員に配分するのかという交渉・分配論であるからであり、その代わりにストライキみたいなことばかりやっていて、いつまでも妥結しないでいると商品の売上げが落ち、市場から決定的に退場させられるという、経済学でいうところの倒産の保障があるから民間では自律的労使関係が築けるのに対して、公務員には市場の淘汰や倒産・破産が無く、国民への負荷であり強制徴収権を持つ税金が給与の原資になっているのにどうして分配要求できるのかと疑問を呈し、仮に、労働協約締結権の付与を検討するならば、行政の中立性・継続性の保障や、労働三権が保障されている民間に比べて三権のうち団体交渉権・団体行動権(争議権)が制限されているなどの理由で公務員に与えられている身分保障の撤廃とセットで検討されなければいけないことだと主張した。そうでないと、身分だけはガチガチ、その中でヌクヌクと自分達の利益を追求する場面が必ず出てくるだろうとし、結局、そもそも行政とは何かという根源的なことに関わるのではないかと、武蔵野市長時代に経験した労働争議を引き合いに出し、衆議院予算委員会分科会の場で発言した。さらに、人事院の中での官民準拠による給与水準の確定を念頭に、政策的につくられた独立行政法人の給与水準を基準にし「独法をつくった後で、そういうことになっているから、だから本体も良いんだ」という説明の仕方はどうなのかと内閣府審議官へ疑問を投げかけ、今後も折を見て日本を良い国にするために御意見申し上げたいと述べた。また、別の場面では脱官僚のような行き過ぎた公務員バッシングを批判し、頑張っている職員のやる気を引き出し、国家国民のために思う存分働いてもらうよう士気を高めるのも政治の役割であるとしている。
  • 前項に関連して、2009年(平成21年)3月に自由民主党内に立ち上げられた「公務員の違法就労撲滅プロジェクトチーム」(通称・ヤミ専従撲滅PT、委員長・原田義昭)が、公務員による違法な組合活動、就労実態を正す目的で、国家公務員法で認められていたが拡大解釈され、ヤミ専従の温床になっていたといわれる「短期従事」制度を削除する「公務員違法就労禁止法案」(通称・ヤミ専従撲滅法案)を2009年7月1日に議員立法で衆議院に提出し、国会で審議されることになった。土屋も6人で構成されたヤミ専従撲滅PTのメンバーに新人議員からは唯一選ばれ役割を果たした。
  • 2009年(平成21年)1月より、事故米流通や中国餃子事件などがきっかけとなり、省庁ごとにバラバラだと批判の多い消費者行政を一元化するための省庁横断的な消費者庁設置に向けて、消費者庁設置関連3法案を審議する「衆議院消費者問題特別委員会」(船田元委員長・定員40名)の特別委員に自ら希望して加わり、地方自治の現場経験を元に発言した。また、民主党案の消費者権利院について、全国に1万人配置するとされた相談員を含む職員の数や行政改革に反する国家公務員とする理由、年間予算、強大な権限を持った消費者権利官による「もしかすると消費者問題が発生するかもしれない」という前提に立った立ち入り検査が事業者に対する風評被害の発生などにより決定的なダメージを及ぼす可能性などを指摘、民主党枝野幸男議員が答弁に立った。
  • 2008年(平成20年)1月、政府が提出していた平成20年度予算に関して、翌年度予算成立の前提となる税法が予算とセットになって毎年3月末まで議了されることが恒例になっているにもかかわらず、参議院を通過しないことが予想されたため、4月1日以降各方面に多大な影響が出て国民生活が混乱することを回避するため、現行税制を2ヶ月間延長するという内容で、ガソリン税をはじめとした税制は時間をかけしっかり議論しましょうという趣旨の法律「国民生活等の混乱を回避し、地方団体における予算の円滑な執行等に資するための地方税法の一部を改正する法律(セーフティネット法)」の提案者となった。
  • 2008年(平成20年)2月の予算委員会で、当時野党の民主党代表代行による教育特定財源がなく道路特定財源があるという指摘について、なぜ特定財源が出てきたのかという基本的な歴史の流れみたいなものが取り違えて理解されており、特定財源がなければ道路ができないのかというふうにすりかえている指摘であると発言した。近代国家の始まりが明治維新からと考えた場合に、明治2年に民部、大蔵、兵部、刑部、外務、宮内の6省が出来、宮内を除くとすべて国家治安あるいは国内の安全や治安などに関すること、まさに夜警国家ということが基本であり、そこから出発をして、初期のうちは国家の治安と教育が国家の最大の課題で、それらがを使う際の中枢だったのであると指摘、その後、明治大正昭和と時代が進むにつれ社会が複雑化する中で、社会福祉社会保障の問題が出てきて、年金においても年金保険料という形で特定の目的で使ってきたり、あるいは市町村税である国民健康保険税のような目的税として徴収するようになったのであり、社会福祉・社会保障と並行して道路整備という問題が出てきて、しかも日本では特に戦後急速に自動車交通が発達をしてきたという歴史があり、こういうことに対応して日本は道路行政が遅れていたのを取り戻すために、より目的を持った財源を確保する目的で道路特定財源ができた経緯があり、よって、教育特定財源や治安特定財源などはありようがないし、なぜかといえば教育や治安は国家の存立の基本に関わることだから昔から税でおこなってきたのであり、これらのことから道路特定財源がなければ道路ができないのかというような意見は国家の成り立ちや新しく社会的な需要が後から起こってきた、そういう需要にどうやって財源的な手当てをしてきたのかという歴史的な流れを全く無視した意見ではないかと主張した。また、2000年前にできたエチオピアからローマに通ずるアッピア街道というのがあるがと例に出し、日本にはヨーロッパのように古くからの馬車の歴史がなかったので、急速に道路を整備しなければならなかったし、特に自動車が飛躍的に発展し国民車構想ができたのは池田勇人内閣の頃で、だからこそ特定財源を必要としたという歴史的な背景があり、ナチス・ドイツヒトラーの時代にアウトバーンができていたドイツのような国とは違い、急速に発展する自動車社会に対応して特定財源を設けざるを得なかったのであると指摘した。
  • 衆議院総務委員会でNHK職員の地位利用による株のインサイダー取引について、犯罪行為で許されざるものであり、職務時間内の取引は職務専念義務違反ではないかと批判した。就業規則等でこういったことについてきちんと規定されているはずであると指摘し、処分をどうするのか、今後こういったことについて、改めて職員の株取引についての原理原則の確認を徹底するべきではないかとNHK会長に質した。また、民間放送局であっても公共の電波を使っている以上、あるある大事典の納豆ダイエットのような明らかな虚偽による放送はあってはならないと指摘した。
  • 地元のことを質問できる予算委員会分科会では、国土交通省に対し予定される吉祥寺駅改築について、高架下という限られた空間なので商業スペースの拡張だけではなく公共スペースの確保をJRに指導するよう進言した。また、大変痛ましく不幸な事故があったものの、国鉄時代には数年に1度運賃の値上げを繰り返していたが国鉄を分割・民営化し一般会社になって以来基本的に消費税以外の値上げをしていないこと、法人税固定資産税などいくつかの税金を納めるようになり国家財政や地方財政に寄与するようになったこと、従来の鉄道事業に加えて物販・ホテル・スイカ事業など総合的な事業経営により採算性を確保し良好で継続的な経営ができていること、様々な雇用を確保し雇用拡大の機会も与えていることなどの点で国鉄民営化が概ね成功してきていると評価した。さらに、JR東日本の中では南関東大地震や宮城県沖地震を想定した前提が多い中、上越新幹線の高架鉄橋の通る所に目立たない活断層を見い出し、支柱の補強を事前に実施していたことは事故に対する安全予防の点からも評価できるとし、新潟中越地震で実際にそこを列車が通過し脱線はしたものの大事故には至らず被害を最小限に抑えることができたJRの対応や先見性・技術力への評価を表明した。その他、中央線の高架化工事の安全、中央線高尾以西の東京から松本方面への各駅停車が無い点などを質問した。
  • 郵政民営化については、前島密の明治以来の大改革であり様々な論議があったにせよ既にページは1ページめくられ、郵政民営化法が可決・成立をして2006年(平成18年)4月からは民営化が実施され、現在は移行期であるが同時に3年経過したら見直すという見直し規定があるので規定にのっとって見直すことについてはひるむことなく見直すべきだとした。しかし、基本は郵政民営化大論争をやって国民に信を問うてその上で民営化の方向に行こうということを国民的な意思として決定したのだから、真摯にこのことを受けとめて、ユニバーサルサービスの維持、薄利な郵便事業会社郵便局会社の経営の継続、ゆうちょかんぽ生命が民間と互角にきちんとやれるのかどうかなどの骨太な課題を確実に前へ進めることが大事であり、多くの郵便局員も複雑な心境を抱きながらも新しい時代がやって来たと思っているのだから、ためにする批判ではなく、そういう批判もあるかもしれないが、そういう批判にはあまり耳を傾け過ぎずに、本筋においてこれからもしっかりとした郵政民営化を成し遂げて頂きたいと担当大臣の決意を問うた。
  • 2006年(平成18年)3月、83会有志15名により沖縄県名護市辺野古地区にあるキャンプ・シュワブを視察、稲嶺惠一知事(当時)や県議会議員との意見交換を行い、南部の激戦地「マブニの丘」での慰霊碑への献花など戦没者・沖縄県民への慰霊、航空自衛隊の対潜哨戒機P-3Cに搭乗しての東シナ海日中中間線付近にあるオイルリング「白樺」等の油田開発現場や日本国の主権が及ぶ尖閣諸島の空からの視察、自衛隊への激励も同時に行った。さらに、同年7月には同じく83会有志12名により北方領土現地研修会を実施し、自衛隊の輸送ヘリコプターで納沙布岬歯舞諸島国後島択捉島を視察、「北方館」を訪れ根室市長から「日本がポツダム宣言を受け入れ、武装解除した後に北方領土が占領されたという経緯とその後の返還運動」についての説明を受けた。また、旧島民との意見交換会も実施し「ソ連兵が侵入してきて命からがら逃げ帰って来た幼き日の思い出」など数々の具体の話を聞き、身につまされたと感想を述べている。さらに、同年8月24日~27日には当時の自民党武部勤幹事長に随行し、ロシアの最大与党「統一ロシア」との政党間交流でモスクワを訪問、その直前の8月16日に日本漁船がロシア国境警備隊に銃撃・拿捕されて1名が死亡した事件を受け、幹事長を中心に船員の早期釈放と北方領土問題解決を訴えた。その結果、8月30日に船員2人、10月3日には船長が釈放された。これらの行動をもとに当時の麻生太郎外務大臣などの関係閣僚に尖閣諸島への海上保安庁施設の設置・海底油田の試掘や北方領土四島一括返還等の83会提言をまとめ提出した。
  • 衆議院議員在職中、議員連盟みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会北京オリンピックを支援する議員の会日韓議員連盟に所属した。2012年現在、自由民主党東京都第18選挙区支部長、武蔵野大学講師、「ダイナミック日本・地域の力」フォーラム主宰。

[編集] 政策・主張

[編集] 著書

  • 「ムーバスの思想 武蔵野市の実践」 ISBN 4492222529
  • 「武蔵野 草の根からの行革」 ISBN 4492220607
  • 「武蔵野から都市の未来を考える」 ISBN 4492221492
  • 「介護保険をどうする - 市長からの「改革」提言」 ISBN 4532163226
  • 「ムーバス快走す - 一通の手紙から生まれた武蔵野市のコミュニティバス」 ISBN 4324050376
  • 「青年よ故郷に帰って市長になろう 地方から日本の変革を」(共著) ISBN 4643940107
  • 「学童保育ここに始まる - 武蔵野市の「ともだちの家」」 ISBN 476340329X

[編集] 外部リンク

先代:
藤元政信
東京都武蔵野市長
1983年 - 2005年
次代:
邑上守正
先代:
吉野和男
東京都市長会会長
第22代:1996年 - 1998年
次代:
臼井千秋
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