小説現代

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小説現代』(しょうせつげんだい)は、講談社発行の月刊小説誌1963年創刊[1]中間小説誌の御三家の1つとして昭和中期から多くの人気作家、作品を輩出した。

創刊[編集]

講談社の大衆小説誌として1901年(明治44年)から続いていた、時代小説を中心とした『講談倶楽部』は戦後1949年から復刊したが、中間小説などに押されて1962年11月に廃刊。代わって同年12月に『小説現代』が初代編集長三木章で創刊された(1963年2月号)。誌名は当初「現代小説」を予定していたが、既に商標登録済みだったため『小説現代』となった。創刊号ラインナップは、柴田錬三郎水上勉舟橋聖一丹羽文雄山手樹一郎山岡荘八松本清張源氏鶏太石原慎太郎ら人気作家を並べ、梶山季之の連載ノンフィクション「実力経営者伝」もあった。表紙には村上豊を起用。発行部数は21万部だったが、その後は10万部近くまで下がる。

創刊当初の連載読物として、吉行淳之介の人物評「変わった種族研究」が2年間続き、戸板康二が掲載した短編にヒントを得た、作家の交友日記「酒中日記」も連載。

全盛期[編集]

1960年代半ばから、宇能鴻一郎川上宗薫泉大八青柳友子らの官能小説も手がける。その後売れ行きも伸びて、『オール讀物』『小説新潮』に並んで小説雑誌の御三家と称されるようになる。1968年には35万部となって二誌も上回り、同年末には43万5千部の最高部数を記録。この頃は多くの中間小説誌が創刊されたが、多くが『小説現代』に似たスタイルと言われた。

1969年からは大村彦次郎が2代目編集長となる。大村は当時流行のサイケ調を誌面に取り入れたが、社内外から多くの批判を受けた。1971年から連載した滝田ゆう「泥鰌庵閑話」は10年間続く。また「新・股旅小説」と銘打った時代小説のシリーズを始め、1971年3月号で笹沢佐保「赦面花は散った」は木枯し紋次郎シリーズの第1作となって人気を博し、ブームを巻き起こした。1972年3月号の池波正太郎「おんなごろし」は仕掛人・藤枝梅安シリーズとなる。この作中人物の彦次郎は大村の名を取ったもの。1冊に一人の作家が3作書くと言う「一人三人全集」には、1970年から、梶山季之、笹沢佐保、川上宗薫、野坂昭如山田風太郎が書いた。

1966年から季刊で始まった『別冊小説現代』は、その後隔月刊となり、掲載作から、佐藤愛子「戦いすんで日が暮れて」(1969年)、長部日出雄「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」(1973年)、藤本義一「鬼の詩」(1974年)が直木賞受賞。

1996年からは推理小説を中心とした『小説現代増刊 メフィスト』を年3回刊行。2003年からライトノベル系雑誌として『小説現代増刊 ファウスト』刊行。

新人発掘[編集]

創刊と同時に「小説現代新人賞」を創設。1963年第1回に中山あい子、第6回に五木寛之藤本泉、その後も赤江瀑岡本好古皆川博子などを輩出。(詳細は小説現代新人賞の項を参照) 1994年から98年には、「小説現代推理新人賞」を開催。2006年から小説現代新人賞は、「小説現代長編新人賞」に改編した。

また「今月の新人」と題して、1963年6月号から同人誌や他誌新人賞受賞者を起用、邦光史郎永井路子三好徹生島治郎田中阿里子丸川賀世子眉村卓西村滋阿部牧郎などを送り出す。芥川賞受賞直後の田辺聖子も起用した。1964年1月号からは川野彰子5編を掲載。1969年に石堂淑郎の初小説「好色的生活」、1971年にはシナリオライターとして活躍していた井上ひさしの初小説「モッキンポット師の後始末」掲載。

1986年から、それまで講談社で募集していた「星新一ショートショート・コンテスト」を、「小説現代ショートショート・コンテスト」として主催。

読者賞[編集]

1970年から読者の投票によって決まる「小説現代読者賞」を開始。

  • 第1回 1970年 笹沢佐保「見返り峠の落日」
  • 第2回 1971年 梶山季之「ケロイド心中」
  • 第3回 1972年 松本清張「留守宅の事件
  • 第4回 1973年 野坂昭如「砂絵呪縛後日怪談」
  • 第5回 1974年 池波正太郎「殺しの四人」
  • 第6回 1975年 井上ひさし「いとしのブリジッド・ボルドー」

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小説現代とは | 小説現代

外部リンク[編集]