岡潔

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岡 潔
(おか きよし)
京都にて、1973年。
人物情報
生誕 坂本 潔
1901年4月19日
大阪府大阪市
死没 1978年3月1日(満76歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学
学問
研究分野 多変数解析関数論
研究機関 京都帝国大学ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所広島文理科大学北海道大学奈良女子大学京都産業大学
主な業績 多変数解析関数論
影響を
与えた人物
湯川秀樹朝永振一郎広中平祐
主な受賞歴 文化勲章(1960年)
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岡 潔(おか きよし、1901年(明治34年)4月19日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、日本の数学者奈良女子大学名誉教授理学博士京都帝国大学1940年(昭和15年))。

略歴[編集]

  • 1907年(明治40年)4月 - 柱本尋常小学校入学。
  • 1913年(大正2年)3月 - 柱本尋常小学校卒業。
  • 1913年(大正2年)4月 - 紀美尋常高等小学校高等科へ進む。
  • 1914年(大正3年)4月 - 和歌山県立粉河中学校入学。
  • 1919年(大正8年)3月 - 和歌山県立粉河中学校卒業。
  • 1919年(大正8年)9月 - 第三高等学校理科甲類入学。
  • 1922年(大正11年)3月 - 第三高等学校卒業。
  • 1922年(大正11年)4月 - 京都帝国大学理学部入学。
  • 1923年(大正12年)3月 - 二年生進級時に、それまで物理学志望だったのを数学志望に変更。
  • 1925年(大正14年)3月 - 京都帝国大学理学部卒業。
  • 1925年(大正14年)4月 - 京都帝国大学理学部講師
  • 1927年(昭和2年)4月 - 第三高等学校講師兼任。
  • 1929年(昭和4年)4月 - 京都帝国大学理学部助教授 フランスに留学 ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所(現・パリ第6大学フランス国立科学研究センター)に通う。
  • 1932年(昭和7年)3月 - 広島文理科大学助教授。
  • 1932年(昭和7年)5月 - 留学終え帰国。
  • 1935年(昭和10年)1月 - 前年の暮れ 多変数解析函数の分野の現状を展望したベンケ、トゥルレン共著の冊子を入手、ここで取りあげられた問題の解決に取り組む。
  • 1935年(昭和10年)9月 - 数学上の最初の発見(インスピレーション型発見)があり、これを元に論文ⅠからⅤまで次々に成る(論文Ⅰは1936年(昭和11年)5月、広島文理科大学紀要に発表)。
  • 1938年(昭和13年)1月 - 広島文理科大学休職。
  • 1940年(昭和15年)6月 - 広島文理科大学辞職。
  • 1940年(昭和15年)10月 - 数学上の第二の発見(梓弓型発見)による前年の論文Ⅵの発表により京都帝国大学より学位授与、「多変数解析函数について(英文)」 。
  • 1941年(昭和16年)10月 - 北海道帝国大学理学部研究補助嘱託。
  • 1942年(昭和17年)11月 - 北海道帝国大学理学部研究補助辞職。
  • 1948年(昭和23年)10月 - 前々年の数学上の第三の発見(情操・情緒型発見)により論文Ⅶを発表。
  • 1949年(昭和24年)7月 - 奈良女子大学理家政学部教授(のち、理学部と家政学部が分離し、理学部教授)。
  • 1951年(昭和26年)10月 - 論文Ⅷを発表。
  • 1953年(昭和28年)10月 - 論文Ⅸを発表。
  • 1954年(昭和29年)4月 - 京都大学理学部非常勤講師を兼ねる。
  • 1962年(昭和37年)9月 - 冬を終えた春の問題を扱った論文Ⅹを発表。
  • 1964年(昭和39年)3月 - 奈良女子大学定年退職 京都大学非常勤講師退職。
  • 1964年(昭和39年)4月 - 奈良女子大学名誉教授 奈良女子大学非常勤講師。
  • 1969年(昭和44年)4月 - 京都産業大学理学部教授に就任して、教養科目「日本民族」を担当[1]

受賞歴・叙勲歴[編集]

生涯[編集]

通史[編集]

岡潔は1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれた[4]。父祖の地は和歌山県の山村、和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任、1929年(昭和4年)、同大学助教授に昇進。1929年(昭和4年)より3年間、フランスに留学。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授に就任したが、1938年(昭和13年)、病気で休職、のち辞職。郷里にもどり、孤高の研究生活に身を投じた。1941年(昭和16年)秋から翌年にかけて北海道大学に赴任。札幌市在住の、終生に亘る心腹の友であった中谷宇吉郎と旧交を暖めた。後、再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた。1949年(昭和24年)、奈良女子大学教授に就き、1951年(昭和26年)から晩年までは奈良市に住まいした。文化勲章受章の翌年1961年(昭和36年)、橋本市名誉市民。1968年(昭和43年)、奈良市名誉市民。

数学者としての挑戦[編集]

フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会うことになる。当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した。一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何代数解析三位一体となった美しい理論が展開される。現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできよう。解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である。

具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で不定域イデアルという概念を考案したが、アンリ・カルタンを始めとするフランスの数学者達がこのアイデアをもとにという現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、(解析関数に関する)クザンの第2問題が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする「岡の原理」も著名である。

その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという[5]

教育者の側面[編集]

京都大学時代には湯川秀樹朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている[6]

一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。

広中平祐が33歳でコロンビア大学教授に就任が決まったとき、当時未解決の大問題であった代数多様体の特異点解消問題について日本数学会で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、岡潔が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限をつけていくのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、フィールズ賞の受賞業績となる[7]

京大の講師をしているとき、学生が黒板いっぱいに式を書き、岡は数学ではないと言って、教授会か何かのために飛び出したそうである。その会で、岡は問題を考え続け、みんなが立ち上がった時、そのままだったので、秋月康夫が岡の腕を持って立ち上がらせた。その場で、岡は短い本質をえぐる答えを得たということである。[要出典]

奈良女子大退官後、京都産業大学の教授となり、「日本民族」を講義した。

晩年の主張は超高次元の理想である真善美妙を大切にせよというもので、真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応すると述べた。一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、根本は情であるべきとも語った。また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切にすることで分別智と無差別智の働きにより知を身につけるべきと提唱している。さらに現代日本は自他弁別本能・理性主義合理主義物質主義共産主義などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを無明と位置付け、心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた[8]

人格[編集]

岡は仏教を信仰しており、特に山崎弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。

三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。

作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲雨のひまわり』を製作するために密着取材をした事があり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。

藤本によると、岡は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開 - するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と怒鳴る有様であった。 岡のこの行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。

また画家の坂本繁二郎と対話したのちに、日本人の精神統一法について思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は分別智の雲が途切れる瞬間無差別智の閃光が差し込むインスピレーションを主とする純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする日本的西洋型精神統一法を用いていたという。岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行していき、この日本的西洋型精神統一法と無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切っていたと語っている。一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、西洋の理性はすべて世間智型平等性智であるため、理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている[9]

日本の未来をいつも憂えていた。漫画家東海林さだおとの対談は最初断っていたが、実際には盛り上がった。「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。セックスは種の保存のために必要です。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」などといい、特に"そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである”という位の興奮ぶりだった[10]

随筆[編集]

前述のように晩年は『春宵十話』を皮切りに他人の手を介していくつか随筆が書かれており、教育者の側面や人格の項で触れたような内容が流麗なタッチで記されている。ただし初期は『一葉舟』のように非常に将来に対して悲観的であり、日本を憂う発言が多かった。しかし日本について詳しく調べるうち、やがてそれは自らの手で描く警鐘へと繋がり、さらに最晩年は活字にはならなかったが日本の将来は安泰だという確信に転じている。

日本史においては神代は矛盾の無い知情意のもと、素戔嗚尊に代表される「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」と雄大な歌を詠めるほど健康的であったが、大陸文化伝来と共に氏を表すという悪習(氏姓制度)が入り、それにより日本民族の心は汚れていったという。

まず西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」に代表されるように無明を直視したため美しく弱々しい「たをやめぶり」になってしまい、さらに武士の世では源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」のように無明に呑まれすっかり弱まってしまった。

太平の世であった江戸時代に(知と意は抜けているものの)神代調の情や「個性」を歌った松尾芭蕉の歌が出た以外は、神代より後の日本は概ね心が弱っているか、それすら気づかず自他対立に明け暮れているといえよう。知が暴走しやがて大東亜戦争敗戦という結果を招いた日露戦争以後や、意が暴走し社会が乱れた戦後のように。

また人智の進歩の中で一つのキーワードとなるのが仏教用語でいう「我」で、氏を表す悪習により日本民族は自他弁別本能に取り憑かれ「小我」になってしまったという。

これに対し日本民族の「準中核」にあたるのが「武士道」や「大和魂」に相当する人物で、こうした人物は小我から脱しつつあるため、旧制中学などを利用してこのような人材をまず日本は育てなさいと提言している。

それより上の次元に進むと、日本民族の「中核」である「真我」や「大我」に繋がり、この次元にまで達すると決して自他対立せず衆善奉行できるという。仁徳天皇に自らの皇位継承権を譲るために自殺してしまった菟道稚郎子や、生涯を日本に捧げた先帝陛下たる昭和天皇は典型例であろうと語っている[9]

著作[編集]

単著[編集]

  • 『春宵十話』 毎日新聞社1963年
  • 『風蘭』 講談社〈講談社現代新書 5〉、1964年
  • 『紫の火花』 朝日新聞社1964年
  • 『春風夏雨』 毎日新聞社、1965年
    • 『春風夏雨』 角川書店〈角川文庫〉、1970年
    • 『春風夏雨』 毎日新聞社、1972年、改訂新版。
  • 『月影』 講談社〈講談社現代新書〉、1966年
  • 『春の草 私の生い立ち』 日本経済新聞社1966年
  • 『春の雲』 講談社〈講談社現代新書〉、1967年
  • 『日本のこころ』 講談社〈思想との対話 2〉、1967年
    • 『日本のこころ』 講談社〈名著シリーズ〉、1968年
    • 『日本のこころ』 講談社〈講談社文庫〉、1971年
  • 『一葉舟』 読売新聞社1968年
    • 『一葉舟』 角川書店〈角川文庫〉、1971年
  • 『昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ』 月刊ペン社、1968年
    • 『昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ』 月刊ペン社、1975年、新装版。
  • 『日本民族』 月刊ペン社1968年
    • 『日本民族』 月刊ペン社、1975年、新装版。
  • 『葦牙よ萠えあがれ』 心情圏1969年
  • 『曙』 講談社〈講談社現代新書〉、1969年
  • 『神々の花園』 講談社〈講談社現代新書〉、1969年
  • 『岡潔集』第1巻、学習研究社1969年 - 収録:春宵十話、宗教について、日本人と直観、日本的情緒、無差別智、私の受けた道義教育、絵画教育について、一番心配なこと、顔と動物性、三河島惨事と教育、義務教育私話、数学を志す人に、数学と芸術、音楽のこと、好きな芸術家、女性を描いた文学者、奈良の良さ、相撲・野球、新春放談、ある想像、中谷宇吉郎さんを思う、吉川英治さんのこと、わが師わが友、春の草(私の生い立ち)、対話・全か無か(岡潔、石原慎太郎) 解題(保田与重郎) 年譜。
  • 『岡潔集』第2巻、学習研究社、1969年 - 収録:春風夏雨、片雲、女性と数学、若いおかあさまへのお願い、春の日、冬の日、二つのお願い、伊勢神宮参拝の感想、ある日の授業の回想、ふるさとを行く、科学と人間、夜明けを待つ、対話・昭和維新(松下幸之助、岡潔) 解題(保田与重郎)。
  • 『岡潔集』第3巻、学習研究社、1969年 - 収録:紫の火花、情緒、すみれの言葉、春の日射し、こころ、童心の世界、独創とは何か、新義務教育の是正について、創造性の教育、教育と研究の間、かぼちゃの生いたち、数学と大脳と赤ん坊、ロケットと女性美と古都、秋に思う、春の水音、わが座右の書、おかあさんがたに語る、人間のいのち、幼児と脳のはなし、生命の芽、対話・萌え騰るもの(司馬遼太郎、岡潔) 解題(保田与重郎)。
  • 『岡潔集』第4巻、学習研究社、1969年 - 収録:科学と仏教、教育を語る、梅日和、弁栄上人伝、人という不思議な生物、一葉舟、ラテン文化とともに、対話・人にほれる(小林茂、岡潔) 解題(保田与重郎)。
  • 『岡潔集』第5巻、学習研究社、1969年 - 収録:講演集 こころと国語、私のみた『正法眼蔵』、教育論序説、二十世紀の奇蹟――光明主義、義務教育について、小我を超える――救いへの唯一の道、「情」というものについて、日本の教育への提言、日本民族のこころ、日本人は自己を見失っている、自己とは何かを『正法眼蔵』にきく、愛国、産業界に訴える、こころの世界、中谷治宇二郎君の思い出、対話・美へのいざない(井上靖、岡潔) 解題(保田与重郎)。
  • 『わが人生観』1、大和出版販売、1972年 - 新装版。
  • 『春雨の曲』第8稿、私家版、1978年7月。- 書き直した作品だが絶筆により未完となり、没後出版となった。
  • 『春雨の曲』第7稿、私家版、1978年9月。- 完成形だが取り下げ、没後出版となった。金星の娘との出会い、生命と物質の関係、天衆の挨拶、第一の心である自然科学の顕在識(第一識から第六識)と西洋人に存在する潜在識(無明の入る第七識)、第二の心である東洋人に存在する悟り識(第八識から第十五識)、世間智を用いる自他の別、分別智を用いる時空の框、分別智と無差別智を用いる発見(インスピレーション型発見と梓弓型発見と情操・情緒型発見)、無差別智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を用いる純粋直観(知的純粋直観と情的純粋直観と意的純粋直観)、九識論を上回る日本人に存在する第十識「真情」への到達(情が知や意より先であることの当然性)、過度だと早死にを招く抜き身を自浄其意で起こすことによる第十一識「時」への到達(道元の別時)、男女の別を懐かしさと喜びから生じる好みで超えることによる第十二識「主宰性」への到達(天照大神と天月読尊の見神)、第十三識「造化」、第十四識「帰趣」、第十五識「内外」等の最晩年の境地も描かれている[11]
  • 『岡潔講演集』 市民大学講座出版局〈エク・ディエス選書 3〉、1978年10月。 - 解説:松下正寿
  • 『岡潔先生遺稿集』全7集、論文集刊行会、1983年12月。 - 解説:秋月康夫
  • 『岡潔 日本の心』 日本図書センター〈人間の記録 54〉、1997年12月。ISBN 4-8205-4297-4
  • 情緒の教育燈影舎2001年11月1日ISBN 4-924520-44-6
  • 情緒と創造』 講談社、2002年2月28日ISBN 4-06-211173-X
  • 『日本の国という水槽の水の入れ替え方 憂国の随想集』 成甲書房、2004年4月。ISBN 4-88086-163-4
  • 岡潔、胡蘭成岡潔/胡蘭成新学社〈新学社近代浪漫派文庫 37〉、2004年11月。ISBN 4-7868-0095-3 - 合本。
  • 情緒と日本人PHP研究所2008年1月31日ISBN 978-4-569-69552-5

共著[編集]

論文集[編集]

公表論文[編集]

  1. Oka, Kiyoshi (1936). “Domaines convexes par rapport aux fonctions rationnelles”. Journal of Science of the Hiroshima University 6: pp. 245-255. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n01/p001.html.  PDF TeX
  2. Oka, Kiyoshi (1937). “Domaines d'holomorphie”. Journal of Science of the Hiroshima University 7: pp. 115-130. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n02/p001.html.  PDF TeX
  3. Oka, Kiyoshi (1939). “Deuxième problème de Cousin”. Journal of Science of the Hiroshima University 9: pp. 7-19. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n03/p001.html.  PDF TeX
  4. Oka, Kiyoshi (1941). “Domaines d'holomorphie et domaines rationnellement convexes”. Japanese Journal of Mathematics 17: pp. 517-521. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n04/p001.html.  PDF TeX
  5. Oka, Kiyoshi (1941). “L'intégrale de Cauchy”. Japanese Journal of Mathematics 17: pp. 523-531. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n05/p001.html.  PDF TeX
  6. Oka, Kiyoshi (1942). “Domaines pseudoconvexes”. Tôhoku Mathematical Journal 49: pp. 15-52. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n06/p001.html.  PDF TeX
  7. Oka, Kiyoshi (1950). “Sur quelques notions arithmétiques”. Bulletin de la Société Mathématique de France 78: pp. 1-27. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n07/p001.html.  PDF TeX
  8. Oka, Kiyoshi (1951). “Lemme fondamental”. Journal of Mathematical Society of Japan 3: pp. 204-214, pp. 259-278. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n08/p001.html.  PDF TeX
  9. Oka, Kiyoshi (1953). “Domaines finis sans point critique intérieur”. Japanese Journal of Mathematics 27: pp. 97-155. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n09/p001.html.  PDF TeX
  10. Oka, Kiyoshi (1962). “Une mode nouvelle engendrant les domaines pseudoconvexes”. Japanese Journal of Mathematics 32: pp. 1-12. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n10/p001.html.  PDF TeX
  11. Oka, Kiyoshi (1934). “Note sur les familles de fonctions analytiques multiformes etc.”. Journal of Science of the Hiroshima University Ser.A 4: pp. 93-98. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n11/p001.html.  PDF TeX
  12. Oka, Kiyoshi (1941). “Sur les domaines pseudoconvexes”. Proc. Imp. Acad. Tokyo 17: pp. 7-10. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n12/p001.html.  PDF TeX
  13. Oka, Kiyoshi (1949). “Note sur les fonctions analytiques de plusieurs variables”. Kodai Math. Sem. Rep. Nos.5-6: pp. 15-18. http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/ko_ron/f/n13/p001.html.  PDF TeX

脚注[編集]

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  1. ^ 「略歴」の記述は「岡 潔 略年譜」(岡 2001、296-299頁)。
  2. ^ 朝日賞:過去の受賞者”. 朝日新聞. 2009年11月3日閲覧。
  3. ^ 高瀬 2008、31頁。
  4. ^ 岡潔文庫の年譜
  5. ^ 猪野, 修治 (2005-03-25), 著作集 岡潔, 湘南科学史懇話会, http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/oka.htm 2012年3月29日閲覧。 
  6. ^ 湯川&朝永 1990朝永 1976より引用。岡潔と秋月康夫に関する記述”. 湯川秀樹研究Wiki. 2012年3月10日閲覧。
  7. ^ 広中 1992、129頁。
  8. ^ 岡 2004、311-332頁。
  9. ^ a b 岡 2004、127-210頁。
  10. ^ 『ショージ君のにっぽん拝見』(文春文庫1976年)からで、別れ際に「日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」と岡に言われて、ショージ君が当然のように「ハイ。そうします」と応じる。
  11. ^ 数学者 岡潔思想研究会 (1)「情と日本人」の解説 【11】参考資料の図表

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]