少年ライフル魔事件

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少年ライフル魔事件
場所 日本の旗 日本
神奈川県高座郡座間町
東京都渋谷区
標的 一般市民、警官隊
日付 1965年昭和40年)7月29日
概要 殺人人質、銃乱射事件
武器 ライフル銃ピストル
死亡者 1名
負傷者 約18名
犯人 少年A(事件当時18歳)
対処 死刑執行済み
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少年ライフル魔事件(しょうねんライフルまじけん)は、1965年昭和40年)7月29日に発生した、事件当時18歳の少年によるライフル乱射事件。

少年と警察との間で銃撃戦が繰り広げられ、警視庁に逮捕された。

事件の概要[編集]

1965年(昭和40年)7月29日、当時18歳のAは神奈川県高座郡座間町(現在の座間市)の山林でライフル銃を所持していた(「警官をおびき出して拳銃を奪う目的で、A自身が嘘の110番通報をした」ともされる)。そこへ通りかかった警察官がAを訊問したところ、Aはこの警察官をライフル銃で銃撃した。弾丸は警察官の胸を撃ち抜き、さらにはAが繰り返し警察官の頭を殴打したため、警察官は死亡した。Aは拳銃の奪取に成功し、さらにその他の装備品(警察手帳、手錠、ヘルメット、制服)を奪って着替えた。そこへ1名の警察官が応援に来たが、これにも銃撃し重傷を負わせた。

その後、山林から逃走したAは警察官のふりをして民家に協力を仰ぎ、車を出させることに成功した。その後、通りかかった車に乗り込む、運転手をだます、奪ったピストルを使って脅すなどをしつつ、乗用車4台を乗り継いで逃走。午後6時過ぎに東京都渋谷区北谷町(現在の神南一丁目)の「ロイヤル銃砲火薬店」に到着した。この銃砲店から武器弾薬を強奪し、従業員男女3人と従業員の妹の4人を人質にとって立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた。また流れ弾を避けるため付近を通る日本国有鉄道山手線は全線運休し、3000人もの野次馬が集結、付近は騒然となった。

Aは従業員に命じて、店の沢山の銃に銃弾を次々と補充させ、警官隊および通行人に向けて合計110発(130とも)のライフル弾を発射した。警察官5人、野次馬、報道関係者それぞれ一人が重傷を負い、軽傷者を含めると合計15人を負傷させた。これに対し、警察は催涙弾で応戦した。午後7時20分、Aが催涙弾に耐えかねて、2人の女性店員をに路上に出たが、Aの背後にいた男性店員が持っていた銃でAの後頭部を殴って逃走した。Aはその男性に対し、銃を連射したが当たらなかった。弾切れによりAの銃撃が止んだところを、応援で現場にいた原宿警察署刑事の緒方保範(のちに「(捜査の)赤鬼」の異名をとる。)が突撃し、Aに体当たりしたが、Aが隠し持っていた拳銃の反撃を受け、顔と背中の合計2発被弾した。Aは逃走を試みたが、しかし別の警察官10人がAを取り押さえて逮捕し、事件は収束した。

また、本事件の同時期、のちに永山則夫連続射殺事件を引き起こす少年(永山則夫)が渋谷の銃砲店近くの青果店で働いており、本事件の騒ぎを目撃している[1]。また、大量に集まった野次馬の群衆の中に、事件を知ってわざわざ駆け付けた作家のち政治家・都知事となる石原慎太郎がおり、他の野次馬が銃撃で負傷したのを目撃している。事件後に聞き取り調査や裁判傍聴を行い、『嫌悪の狙撃者』を執筆した。

犯人と裁判[編集]

東京都世田谷区に産まれたAは母親を小学4年次に無くしているが、翌年父と再婚した継母との関係は悪くなかったとされる。子供としては体格はよかったが内向的であった。

幼い頃から銃マニアであり、常々ミリタリー雑誌『丸』を愛読しており、傘の柄と花火の火薬でビー玉を飛ばす手製銃を作ったことがあった。軍歴がある(旧陸軍上等兵)父親もこの趣味を悪いものとは捉えていなかったらしく、高価なモデルガンを買い与えたり、「10万円(当時)ぐらいの銃ならいつでも買ってやる」と言っていた。ただし、「人は殺すな。人を殺すくらいならまず自分が死ね」とも伝えていた。7歳上の実姉は、Aの中学卒業祝いに当時としては高価な3万5千円(当時)の実銃と4千円(当時)の照準器を買い与えた。しかしAは銃所持に年齢が足りなかったため、実姉名義での銃購入と所持登録を率先して実姉が行っている。

中学1年時に大藪春彦の小説『ウィンチェスターM70』を読み、大変な影響を受けた。中学時代はアメリカの銃雑誌『ガン・ダイジェスト』や『シューターズ・バイブル』を入手し、辞書を片手に熱狂的に銃の知識を漁り、さらに詳しくなっていった。全体的な成績は中程度であり、目立つ生徒ではなかった。

中学卒業後は進学せず、銃を扱うことを目的に自衛隊に入隊しようとしたが、合格することができず入隊は叶わなかった。この自衛隊入りの計画は、親族には無断で行っている。失意のAは自動車整備工の見習いを始めた。その後、南米なら銃を好きなだけ撃てると考え、渡航するために南米行きの船員になろうと計画した。職業安定所で国内航路のコックの見習いの仕事を見つけ、船員として家を空けることが多くなり、毎航海ごとに1か月ぐらいに一度、帰宅していた。この南米(ブラジル)のことをAは調べており、犯人引き渡し条例がないため自由が確保できると考え、犯行後はブラジルに逃走することを考えていた、ともされる。

事件の同年4月15日、18歳の誕生日を迎えた。Aは18歳の誕生日の前に、職場には長期の有給休暇を申請していた。実はこの休暇の前に退職届を出していたとも言われるが、休暇の後、彼が仕事に行くことは無かった。Aはこの「合法で銃が所持できる」誕生日を入念に計画していたと推測され、誕生日と同時に姉名義であった銃を自分の名義に書き換え手続きを行い、名実ともに「自分の銃」を所持することになった。さらに18歳を迎えるためにこつこつと貯金を行っており、4万円(当時)の2連式散弾銃と2千円(当時)の銃ケースを、のちに事件の現場となった銃砲店で新規に購入した。

実銃を入手してからは射撃場に通うことが趣味となり、また、手製の消音器を制作し、室内やまだ当時は東京近郊にあった林の中で射撃を行っていた。銃弾の入手や銃の手入れのために、事件の現場となった銃砲店にはよく通っていたため、店員らとは顔見知りであった。銃の手入れはとても入念であり、4~5時間をかけることも普通であった。「指紋がつく」として、自分以外が銃に触れることを嫌っていた。

後に語られたAの犯行動機は、「『野獣死すべし』(愛読していたバイオレンス小説)のような事を実際にしてみたかった」「銃を心ゆくまでぶっ放したい」というものであった[2]。犯行後は「(銃砲店の在庫の銃を潤沢に使用し、大量に撃ちまくったため)いろんな銃を撃つことができたため、溜まっていたものを全部吐き出したような気分でスカッとした」と語っている。また、「どうせ刑務所に行くんだろうから、代わりにベトナム(同地は戦争中)に行きたい。好きな銃を思い切り撃つことができるなら死んでもいい」とも発言している。


裁判[編集]

1967年4月13日、一審の横浜地裁は、犯行の悪質さを認めながらも考え方が未熟な少年の犯罪であること、冷たい家庭環境であったことなどを理由に、社会復帰ができる可能性があるとしてAに無期懲役を言い渡した。一方、1968年東京高裁控訴審)では矯正の余地なしとしてAに死刑を宣告した。

死刑判決を受けてAは上告した。一審、二審ともにAは「銃への魅力は今なお尽きない。再び多くの人に迷惑をかけないように死刑にしてほしい」と述べた[3]が、上告にあたり趣意書を提出した。「警察や検察庁の取り調べではかっこいいと思って言われるままに自供したが、本当は殺意はなかった」として今度は死刑回避に向けた主張を行った。1969年10月2日最高裁も二審判決を支持した。「一審、二審の刑が重すぎる、事実認定が間違っているという被告、弁護人の主張は上告する理由にならない」として上告は棄却され、Aの死刑が確定した[4]

1972年7月21日宮城刑務所において死刑執行された。享年25。

この事件を扱った作品[編集]

小説
石原慎太郎『嫌悪の狙撃者』

脚注[編集]

  1. ^ 『死刑囚永山則夫』 p125
  2. ^ 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 p360
  3. ^ 『死刑囚最後の瞬間』 p117
  4. ^ 「ライフル少年の死刑確定 理由なし 最高裁が上告棄却」昭和44年(1974年)10月2日夕刊、3版、11面

参考文献[編集]

  • 事件・犯罪研究会 村野薫『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。ISBN 4-8089-4003-5 
  • 大塚公子『死刑囚の最後の瞬間』角川文庫。ISBN 4-04-187802-0 
  • 佐木隆三『死刑囚永山則夫』講談社。ISBN 4-06-263559-3