高谷覚蔵

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高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日1971年3月20日)は、社会運動家政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。

経歴[編集]

滋賀県大津市生まれ[1]大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年ソ連共産党員に転籍[2]コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムス[3]を取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し[4][5]、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した[1]。戦後はソ連評論家として活動すると共に、核兵器禁止平和建設国民会議の副議長を務めた[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『日外アソシエーツ whoplus』「高谷 覚蔵(タカヤ カクゾウ,社会運動家)」の項
  2. ^ 高谷覚蔵『レーニン・スターリン・マレンコフ : 体験から見たソ連の系譜』同光社磯部書房、1953年
  3. ^ コミンテルンの国際連絡機関。Otdel Mezhdunarodny Sviasy。
  4. ^ 『東京朝日新聞』1935年5月12日東京夕刊2頁「ロシヤ帰り高谷 共産党再建運動中捕る」
  5. ^ 田中清玄『田中清玄自伝』