郭沫若

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郭沫若
Guo Moruo in 1941.jpg
1941年、重慶にて
プロフィール
出生: 1892年11月16日
死去: 1978年6月12日
出身地: 四川省楽山県
職業: 政治家・文学者・歴史家
各種表記
繁体字 郭沫若
簡体字 郭沫若
拼音 Guō Mòruò
注音符号 ㄍㄨㄛ ㄇㄛˋ ㄖㄜˇ
和名表記: かく まつじゃく
発音転記: グオ モールオ
英語名 Guo Moruo
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郭沫若詩碑(岡山後楽園)
郭沫若先生顕彰碑
九州大学馬出キャンパス

郭 沫若(かく まつじゃく Guo Moruo)は中華民国中華人民共和国政治家文学者詩人歴史家。原名は郭開貞で、開貞は、沫若はにあたる。鼎堂。中国の近代文学・歴史学の先駆者。

経歴[編集]

1914年日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。在学時から文学活動に励み、1921年に文学団体「創造社」の設立に参加する。この設立の仲間に、郁達夫成仿吾張資平鄭伯奇などがいる。

その後、国民党に参加、北伐軍の総政治部主任となるが、蒋介石と対立し南昌蜂起に参加、直後に中国共産党に加入。蒋介石に追われ、1928年2月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構え、中国史の研究に没頭する。1937年日中戦争が勃発すると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加。重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。

戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に就任。1950年全国文学芸術連合会主席、1954年全人代常務副委員長。1958年共産党に入党。1963年中日友好協会名誉会長。文学・史学の指導に努めるが、反右派闘争以降は発言や作風が毛沢東に迎合するようになる。人民共和国建国後の作品には、『蔡文姫』『武則天』などがあり、いずれも北京人民芸術劇院によって上演された。特に『蔡文姫』は焦菊隠の演出が高く評価され、21世紀の今日まで繰り返し上演されている。

文化大革命発生直後の1966年4月14日、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行った。既に呉晗廖沫沙らが打倒されるなか自身を守るためであったが、知識人の思想改造の成功例として取り上げられ毛沢東の庇護を受けた。

毛沢東や江青らの詩を賛美し、批林批孔運動に乗り、著書『李白杜甫』で杜甫を貶めた。しかし四人組が逮捕されると一転して彼らを批判する詩を発表した。これら文革期の言動が彼全体の評価に影響している。

1978年、北京で病没。

業績[編集]

郭沫若の業績は非常に多岐にわたる。文学の代表作としては詩『女神』・戯曲『屈原』などがあり、中国古代史学においては西周時代を奴隷制時代とした『中国古代社会研究』など。甲骨研究では羅振玉に次ぐ大きな業績をあげ、日本の中島竦と旧知であり中島が所蔵していた甲骨200片を調べている。三国志関連では論文「替曹操翻案」を発表した。これは当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論の契機となった。その際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。

著書邦訳[編集]

  • 支那古代社会史論 藤枝丈夫訳 内外社 1931
  • 青銅器研究要纂 田中震二訳 文求堂書店 1935
  • 北伐 松枝茂夫訳 改造社 1938 
  • 海棠香国 村田孜郎訳 興亜書局 1940 
  • 漂流三部曲 村田孜郎訳 聖光社 1946 中国文芸叢書
  • 我が思出 村田孜郎訳 聖光社 1947 
  • 歴史小品 平岡武夫訳 1950.11 岩波新書
  • 郭沫若詩集 須田禎一訳 未来社 1952
  • 屈原 須田禎一訳 未来社 1952 のち岩波文庫 
  • 訪ソ紀行 千田九一訳 日本出版協同 1952
  • 郭沫若作品集 小峰王親,桑山竜平共訳 青木書店 1953
  • 虎符 須田禎一訳 未来社 1953 てすぴす叢書
  • 中国古代の思想家たち 野原四郎佐藤武敏上原淳道訳 岩波書店 1953
  • 日本国民に訴える 新しい愛国主義 平野義太郎編訳 三一書房 1953
  • 亡命十年 岡崎俊夫訳 筑摩書房 1953
  • 黒猫 岡崎俊夫訳 現代世界文学全集 新潮社、1956 
  • 日本亡命記 小峰王親訳 法政大学出版局 1958
  • 抗日戦回想録 岡崎俊夫訳 中央公論社 1959 のち文庫 
  • 蔡文姫 須田禎一訳 新読書社出版部 1959
  • 創造十年/続・創造十年 松枝茂夫訳 1960 岩波文庫
  • 私の幼少年時代・辛亥革命前後(小野忍,丸山昇訳) 南昌の一夜(松枝茂夫訳) 中国現代文学選集 平凡社、1962 
  • 則天武后 須田禎一訳 平凡社 1963 東洋文庫
  • 郭沫若史劇集 第1-3集 須田禎一訳 海燕社 1966
  • 郭沫若自伝 第1-6 小野忍, 丸山昇訳 平凡社 1967-73 東洋文庫
  • 郭沫若史劇全集 須田禎一訳 講談社 1972
  • 李白杜甫 須田禎一訳 講談社 1972 のち文庫 
  • 郭沫若選集 1 雄渾社 1976 少年時代 和田武司,藤本幸三
  • 8 屈原研究・屈原賦今訳 稲畑耕一郎訳 1978
  • 歴史小品 平岡武夫訳 1981.6 岩波文庫
  • 郭沫若詩集 対訳 彭銀漢訳 花曜社 1982.6
  • 選集13 青銅時代 中村俊也訳 雄渾社、1982 
  •  2 創造十年 和田武司訳 続創造十年 藤本幸三訳、1986 
  • 桜花書簡 中国人留学生が見た大正時代 大高順雄,藤田梨那,武継平訳 東京図書出版会 2005.6
  • 女神 全訳 藤田梨那訳 明徳出版社 2011.4

家庭[編集]

郭沫若は、生涯に3度結婚した。

  • 張瓊華(张琼华)(1890年-1980年)

親の決めた結婚であり、1912年3月に結婚したが郭沫若は結婚5日後に家を出て成都に戻った。子もなく離婚もしていない。張瓊華は1980年に死ぬまで郭家で生活した。

  • 佐藤をとみ(1893年-1994年)

東京京橋病院で看護婦として働いていた時、郭が友人の見舞いに来て知り合う。1916年冬に結婚。1923年に上海へ移るが、28年に国を追われて日本の市川市へ移る。37年に郭沫若だけが日本を離れる。戦後に富子は郭沫若に会いに中国へ渡るが、郭沫若は既に再婚をしていた。しかし、とみは子供たちを中国人として中国に送り出した後、自身も中国へ移住し、上海で亡くなった。2人の間には息子が4人(郭和夫、郭博、郭福生、郭志宏)と娘1人(郭淑禹)あった。5人の子はいずれも戦後中国で要職についた。郭淑禹の娘は日本へ留学し国士舘大教授で郭沫若研究家となった藤田梨那。

をとみは戦前に本を出している。「我的丈夫郭沫若」 (1938年)

  • 于立群(1916年-1979年)

1939年に結婚。元女優。4人の息子と2人の娘を生む。

また、複数の女性と婚外の関係を持っていたとされる。

郭沫若にまつわる建造物[編集]

市川市郭沫若記念館
  • 北京郭沫若記念館 - 郭沫若が晩年を過ごした旧宅。北京市西城区の高級住宅地で政治家の家が密集する什刹海地区にある。
  • 郭沫若旧宅 - 出身地である楽山市にある旧宅。楽山市の沙湾駅から南に約1.5kmの市街地にある。
  • 市川市郭沫若記念館 - 千葉県市川市の真間5丁目公園にある郭沫若の旧宅。市川市須和田にあった旧宅を移築・復元したもの。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]