ジェームズ・マードック

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ジェームズ・マードック(James Murdoch、1856年9月27日 - 1921年10月30日)は、日本とオーストラリアで教師として働いたスコットランドの学者、ジャーナリストである。東京帝国大学などで教え、大著『日本歴史』を著した。マードックが教えた人物には夏目漱石がいる。

教育[編集]

マードックは、スコットランドのアバディーンに近い、ストーンヘイブンで生まれた。アバディーン大学の奨学金を獲得し学士号、修士号を得た。その後、ウスター大学オックスフォード大学ゲッティンゲン大学パリ大学で学んだ。ゲッティンゲン大学では、テーオドール・ベンファイからサンスクリット語を学んだ。24歳で研究生活をやめ、オーストラリアに移住した。

1881年から1889年までオーストラリアで過ごした。メリボロー・グラマー・スクールで教えたが、無神論的な考え方から1885年に解雇され、その後ブリスベーン・グラマー・スクールで2年教えた後、学校をやめ政治雑誌、Boomerangの記者となった。ジャーナリストとして労働者階級の過酷な生活条件の改善がされないと、オーストラリアに革命が起こり社会主義の独立共和国が形成されるという記事を書いた。

来日[編集]

1889年に日本に招かれ第一高等中学校でヨーロッパの歴史と英語を教えた。この時の学生に夏目漱石がいる。教職の一方、自らの著作も行った1890年には雑誌、ジャパン・エコーの発行を始め、6号を発行した。1892年に短編集、From Australia and Japanや小説、Ayame-san(『あやめさん』)を出版した。日本人で初めてアメリカ国籍をえた浜田彦蔵の評伝を執筆した。

1893年9月、日本を去り、パラグアイに作られた実験的な共産主義的コミューン、'New Australia'に参加した。マードックが到着するまでに、入植者の約3分の1が離脱しており、想像した社会主義の楽園ではなく、貧困や、仲違いや病気があった。彼はほんの数日滞在しただけで健康を害してロンドンに戻った。ロンドンでは療養と日本における16世紀ヨーロッパの修道士の手紙を翻訳する大英博物館の仕事で5ヶ月間を過ごした後、日本に戻った。

1894年から1897年まで金沢の第四高等学校で英語を教えた。東京に戻り、高等商業学校(現在の、一橋大学)で経済史を教えていた1899年に岡田竹子と結婚した。1901年に健康のことを考えて温暖な鹿児島の第七高等学校に移った。1903年にA History of Japan During the Century of Early Foreign Intercourse (1542-1651) が出版された。

1908年に教職契約がきれても鹿児島にとどまり、新聞に寄稿する他、果樹園を作って暮らした。日本語での講演は流暢では無かったが、古い日本語の文献は自ら読むことができるようになっており、1910年に A History of Japan From the Origins to the Arrival of the Portuguese in 1542 A.D.を出版し、1915年に The Tokugawa Epoch 1652-1868を出版した。この時期は中学校の教師で収入を得た。

マードックの『日本史』は最後の第3巻がでた5年後、G・B・サンソムの『日本文化史』が出版された後、日本の歴史に関するスタンダード・ワークの地位を失った。サンソムは自らの著作の存在意義を強調するために、マードックの著書の欠点は、文体が不愉快で、妙な滑稽をまじえているのが傷であると評した。[1]

帰国後[編集]

1917年2月、オーストラリアの軍の大学とシドニー大学で日本語を教えるためにオーストラリアに戻った。シドニー大学では日本研究のプログラムを設立した。1918年、早稲田大学からの教授招請の動きがあり、シドニー大学は終身教授に昇進させた。国防省からの年間、£ 600の報酬で、日本の世論と外交政策の変化の一次情報を取得するために、毎年日本を訪問することが許可され、オーストラリアの対日政策にたいしてのアドバイザーを務めるようになった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 『漱石の師マードック先生』平川祐弘(著)講談社学術文庫

外部リンク[編集]