摺上原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 摺上原の戦い | |
|---|---|
| 戦争:伊達氏と蘆名氏の抗争戦 | |
| 年月日:1589年6月5日(新暦7月17日) | |
| 場所:摺上原(現在の福島県磐梯町・猪苗代町) | |
| 結果:伊達氏の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 伊達軍 | 蘆名・佐竹連合軍 |
| 指揮官 | |
| 伊達政宗 |
蘆名義広 |
| 戦力 | |
| 21,000 | 18,000 |
| 損害 | |
| 100未満 | 約2,000 |
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)とは、戦国時代の1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日)に磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた米沢伊達政宗軍と会津蘆名義広・佐竹氏連合軍との合戦である。
目次 |
[編集] 背景
伊達政宗は人取橋の戦い以降、蘆名氏・佐竹氏との対決姿勢を強めながら、仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しつつあった。一方、それに対する蘆名氏・佐竹氏の危機感は高まっていた。伊達政宗は蘆名氏の本拠会津を奪うべく行動を開始する。だがそれは豊臣秀吉の出した「惣無事令」を無視する行動であった。
政宗は猪苗代盛国の内通(盛国の長男盛胤は蘆名軍先鋒として参戦。盛国と後妻の生んだ次男らが伊達方)で本宮から会津への道を確保すると猪苗代城を拠点にし、一方の蘆名義広は須賀川城から猪苗代湖南岸を進み、軍を黒川城へ集結させる。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち伊達勢を挑発する。伊達軍は21,000人、蘆名軍は18,000人とほぼ互角であった。
しかしながら蘆名軍には1580年の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者、伊達氏に内通する者、佐竹氏より送り込まれた当主・蘆名義広に対し不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力に乏しかった。
[編集] 経過
合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われた。開戦当初は西からの烈風が追い風となり、蘆名軍が有利に戦っていた。暫くして風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、蘆名軍は総崩れとなった。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大した。蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常陸国へ敗走した。
蘆名軍の大敗の様子は『奥羽永慶軍記』では、次のように記されている。
- 「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり……。ここにして会津勢1800余人討つ」
[編集] 影響
蘆名氏は金上盛備や佐瀬種常といった有力家臣の多くを失い、事実上壊滅。また、当主が実家の佐竹氏のもとに逃亡し、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は完全に滅亡した。
伊達政宗は南奥州の覇者となり、居城を会津黒川城へ移し、更に白川結城・石川氏らを服属させた。しかしながら翌年の豊臣秀吉の奥州仕置によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、獲得地の会津領ほかを召し上げられた。しかし会津の地は蘆名氏が復帰することはなく、蒲生氏郷に与えられた。

