明石全登

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明石全登
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 元和4年(1618年)?
別名 道斎、守重、守之、全職
霊名 ジョアン・ジュスト
官位 掃部頭
主君 宇喜多直家秀家
氏族 明石氏
父母 父:明石行雄
兄弟 全登伊賀家久
正室:宇喜多直家の娘[1]
景行内記

明石 全登/景盛(あかし たけのり[2]/かげもり、生没年不明)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将宇喜多氏の客将で、知行は3万3千石といわれる。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。

生涯[編集]

保木城主・明石行雄(景親)の子として生まれる。備前明石氏(美作明石氏)の出身で、明石国造[3]の末裔という説もある[誰?]

宇喜多秀家軍師的存在で、慶長4年(1599年)にお家騒動宇喜多騒動)が起こって重臣の多くが出奔すると、執政として宇喜多家中を取り仕切った。翌慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで秀家が西軍に与すると、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。

戦後、宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田孝高[4]の下で庇護されたといわれている。孝高の死後、息子の長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩田中忠政を頼ったとされている。

慶長19年(1614年)、大坂の役が起こると豊臣方として参陣する。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では水野勝成神保相茂伊達政宗勢と交戦し混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ち事件が起きている。天王寺・岡山の戦いで、天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると、松平忠直の軍勢に突撃し姿を消す。その後の消息は不明で、戦死したとも南蛮に逃亡したとも言われており、死亡時期については諸説ある。

子孫[編集]

  • 秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族がある。家伝によれば大阪落城後に仙台伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われた。全登の三人の男子は弘前を離れて流浪の末に扇田にたどり着いて定住したと言われる。子孫と伝えられる明石家には全登から伝えられた仏像が残っている。元国際連合事務次長の明石康は同地の明石一族の出身で全登の子孫と伝えられている[5]

伝記[編集]

後山山麓に明石を名乗る一族がある。祖先は岡山城主宇喜多秀家の老臣だった明石掃部介といわれる。

「東作誌」を見ると「家伝に曰く掃部介全登大阪より落魄して後山村に来りし時 凌霄花今を盛なるに愛でてついに足を駐むと云う。貯の黄金若干あり田地多く買得し熾なる時は高百八十石もあり 土人等富有なると緩怠なるを悪み 喧嘩に乗じて之を殺す、其旧趾今に喧嘩橋と云う、掃部介の妻子是を聞いて大いに憤怒し眉尖刀(なぎなた)を振出して七人斬殺せる故土人退散す 今其の旧趾を十日の祖母と云う…」とある。

~中略~

元和元年五月七日大阪城落城のときあやうく戦場を脱出し浦上時代より縁故の多い播磨の奥地に匿れ、やがて後山山麓の凌霄花の花盛りに心ひかれて土着し農となり一族各地に繁栄する。

全登に四男あり。長子は吉野郡讃甘庄今岡村(現美作市下町)に住む(明石屋敷なる地名、石垣あり)俗称義蔵という。豪邁の人物で又俳諧に名を得、蛙我と号す。

二子、三子は商人となり、四子が後山村にて農耕に従事する。 ~後略~

東粟倉村史(現岡山県美作市)より

脚注[編集]

  1. ^ 正室を田中吉政の娘とする説がある。
  2. ^ (全登)の読みは、「たけのり」の他に「てるずみ」「ぜんとう」「なりとよ」などが伝わる。[要出典]
  3. ^ 明石に渡来した神話時代の一族、古代の明石国造は大倭国造の一族ともいわれる。
  4. ^ 孝高の父職隆の妻が明石氏。
  5. ^ 野添憲治編『秋田県の不思議事典』38ページ

演じた俳優[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]