古田重然
| 古田重然 | |
|---|---|
古田織部画像(大阪城天守閣蔵)
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| 時代 | 戦国時代後期 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 天文13年(1544年)[1] |
| 死没 | 慶長20年6月11日(1615年7月6日) |
| 改名 | 景安(初名)→重然 |
| 別名 | 左介(通称)、織部 |
| 戒名 | 雲了院殿金甫宗屋大居士 |
| 墓所 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺三玄院 京都府京都市上京区堀川通寺之内上ルの興聖寺 |
| 官位 | 従五位下、織部正 |
| 主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼 |
| 氏族 | 古田氏[2] |
| 父母 | 父:古田重定、養父:古田重安 |
| 兄弟 | 重然、重則、重続 |
| 妻 | 正室:せん(中川重清の娘) |
| 子 | 重広、重尚、重行、重久、娘(古田重続室)、 娘(鈴木某室)、娘(新宮行朝室)[要出典] |
古田 重然(ふるた しげなり、-しげてる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
目次 |
生涯[編集]
武将・重然[編集]
天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田重定(勘阿弥、還俗し主膳重正と改名したという)の子として生まれ[3]、後に伯父重安の養子となったという。『古田家系図』[4]に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[5]。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない[6]。
古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた[7]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚[8]。
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[9]。 その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[10]と少ないながらも武将として活動している。
信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話[11]が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐、四国平定にも秀政と共に出陣している[12]。 同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられた[12]。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した[13]。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州征伐[14]、小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる[15]。
茶人・織部とその友誼[編集]
天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となった。慶長3年(1598年)には嫡男の重広に家督を譲り隠居した[16]。
この時期の重然は茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界と様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える存在であった。
最期[編集]
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[17]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日(7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年72。同時に重広も切腹、宗喜も処刑されている。 茶道の師である千利休同様反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなかった。また、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名にすら多大な影響力を与える存在にもなっており、このため古田氏は幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったと考えられている。
なお次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広(池田光政家臣)、四男・重行(豊臣秀頼家臣)、五男・重久がいたといわれ、菩提寺の興聖寺には重然の墓の左右に墓石が並んでいる[18]。
人物・逸話[編集]
- 大坂の陣で徳川方として従軍していた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。重然は出家していたので頭髪の無い禿頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。弾は危うく頭上をかすめたので重然は慌てて陣中に戻ったという(『茶話真向翁』)。
- 利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した(久須見疎安,『茶話指月集』)。
- 利休が茶入れの蓋を象牙で作らせたところ鬆(す)が入った疵物であった。恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部を呼んで茶会を催した。利休はその際、蓋の鬆を勝手側に向けつまみの外側に茶杓を置いて点前を進めた。すなわち織部のほうに茶杓を置いたのである。茶会のあと、織部はその茶入れを利休に乞うて持ち帰り、今度は利休を茶会に招いて茶入れの蓋の鬆を客のほうに向けつまみの内側に茶杓を置いた。利休は「さてもよくやった。織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた(『茶話真向翁』)。
- 薄板を布かずに籠の花入れを置いていたのを利休が褒めて「籠の花入れを薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。このことに関しては私があなたのお弟子になりましょう」と言った、それから利休は薄板を布かずに直に籠の花入れを置いていたという(久須見疎安『茶話指月集』)。
織部の茶の湯[編集]
- 織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げた。職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった[19]。
- 織部が利休死後、他の名だたる茶人たちを抑えて「天下一の茶の湯名人」と謳われたのは、織部のもつ大名という高い身分の力もあるとされる[20]。
- 織部好みの代表的な茶室に、藪内剣仲に譲ったといわれる「燕庵」[21]が挙げられる。
- 茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦、毛利秀元らがいる。
- 茶書としては『織部百ヶ条』などを残した。
- 書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある[22]。
- 織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字[23]」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」[24]があげられる。[25]。
- 織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた[26]。
その他[編集]
- 岐阜県岐阜市の未来会館には「織部賞展示コーナー」が常設してあったが、現在は運営が休止されている。
- 岐阜県本巣市の「道の駅織部の里もとす」には「織部展示館」が併設されている。また、道の駅に隣接して樽見鉄道の織部駅が存在する。
- 愛知県名古屋市の名古屋城御深井丸の茶席施設に古田織部を顕彰するため1955年(昭和30年)に建立された「織部堂」という茶室が存在する。利用には事前の申し込みが必要。
演じた俳優[編集]
- 映画『利休』(1989)嵐圭史、勅使河原宏監督、原作は野上弥生子「秀吉と利休」
- 映画『千利休 本覺坊遺文』(1989)加藤剛、熊井啓監督、原作は井上靖『本覚坊遺文』
- 映画『豪姫』(1992)仲代達矢、勅使河原宏監督、原作は富士正晴
脚注[編集]
- ^ 天文12年(1543年)生まれの説もある。
- ^ 丹羽基二著、樋口清之監修『姓氏』によると古田氏は藤原氏の庶流とされ、その発祥地は伊勢国員弁郡古田邑と記されている。
- ^ 竜宝山大徳寺誌
- ^ 重然の子孫所蔵
- ^ 桑田忠親「古田織部の茶道」P17
- ^ 矢部良明「古田織部 ―桃山文化を演出する―」P17
- ^ 「古田家譜」
- ^ 「古田家譜」「豊後岡藩中川家譜」
- ^ 『信長公記』より。
- ^ 「山城国上久世荘御年貢米御算用状」東寺百合文書」収録
- ^ 「烈公間話」
- ^ a b 桑田忠親「古田織部の茶道」P27
- ^ 「古田家譜」
- ^ 桑田忠親「古田織部の茶道」P240
- ^ 桑田忠親「古田織部の茶道」P62
- ^ 桑田忠親「古田織部の茶道」P70
- ^ 続武家閑談
- ^ 「茶道聚錦四」P43
- ^ 矢部良明「古田織部 ―桃山文化を演出する―」P28
- ^ 桑田忠親「古田織部の茶道」P71
- ^ 重要文化財
- ^ 桑田忠親前掲書による。
- ^ 三井記念美術館蔵
- ^ 国宝、東京国立博物館蔵
- ^ ただし、掛け物を切断する行為は他の茶人も行っており、織部が常習犯のように器物を壊していたわけではない(桑田忠親「古田織部の茶道」P181)
- ^ 海音寺潮五郎「日本の名匠」中公文庫
参考文献[編集]
- 書籍
- 児島孝 『数奇の革命―利休と織部の死』 思文閣出版、2006年1月13日。ISBN 4-7842-1283-3。ISBN 978-4-7842-1283-5。
- 『織部・遠州・宗旦』〈4〉、熊倉功夫編、小学館〈茶道聚錦〉、1983年10月29日。ISBN 4-09-384004-0。ISBN 978-4-09-384004-0。
- 桑田忠親 『古田織部―人と茶の芸術』 徳間書店〈美術・趣味シリーズ〉、1977年(原著1968年)、再版。ASIN B000JA5VJ6。
- 桑田忠親 『古田織部の茶道』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年7月10日。ISBN 4-06-158932-6。ISBN 978-4-06-158932-2。
- 桑田忠親 『へうげもの古田織部伝―数寄の天下を獲った武将』 矢部誠一郎監修、ダイヤモンド社、2010年3月18日。ISBN 4-478-00906-6。ISBN 978-4-478-00906-2。
- 矢部良明 『古田織部―桃山文化を演出する』 角川書店〈角川叢書〉、1999年7月25日。ISBN 4-04-702108-3。ISBN 978-4-04-702108-2。
- 雑誌
- 熊谷功夫編, ed.「特集 天下の茶人 古田織部の謎」、『芸術新潮』平成4年(1992年)7月号、新潮社、1992年7月。
- 「週刊日本の美をめぐる No.18 桃山3 利休・織部と茶のしつらえ」、『小学館ウイークリーブック』、小学館、2002年9月。
- 展覧会図録
- 桑田忠親・加藤土師萌 『織部 陶芸指導者・大茶人・戦国大名としての古田織部のすべて』 京王百貨店、1967年。
- 『よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇展』 秀吉・織部と上田宗箇展実行委員会編、広島県立美術館、2000年1月。[1]
- 小堀遠州・千利休・古田重然・佐野美術館 『利休・織部・遠州の書 侘びと風雅の筆あと : 特别展』 佐野美術館、1995年10月。ISBN 4-915857-34-4。ISBN 978-4-915857-34-8。