李克用

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李 克用(り こくよう 856年 - 908年)は、中国末期の軍閥指導者。後唐の始祖。突厥沙陀部出身。太祖武帝と追号された。李存勗(荘宗)の父で、李嗣源(明宗)の仮父。唐末期に鴉軍と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げ、朱全忠と激しい権力争いを繰り広げた。

目次

[編集] 生涯

李克用の本姓は突厥風の朱邪(朱耶)であり、父・朱邪赤心は朔州刺史を勤め、龐勛の乱鎮定にて龐勛を討ち取るなどの功績を挙げ、唐の国姓を賜り、李国昌と名乗るようになった。後に孫の李存勗により、文帝のと献祖の廟号が贈られた。

李克用は李国昌の第三子であり、母は秦氏である。李克用は生来から片目がすがめで、そのために独眼龍と呼ばれていた。また、李克用の軍は全て黒い衣装で統一していたことから軍(あぐん)との異名があり、周りからその勇猛さを恐れられていた。黄巣の乱が勃発するとこの討伐に参加して雁門節度使に任じられ、黄巣を長安から追い払ったことで河東節度使(太原を中心とした一帯)に昇格する。さらに、最終的に黄巣を殺したのも李克用であり、黄巣討伐の殊勲者であった。895年には晋王に封ぜられ、山西一帯を制圧する大軍閥となる。

黄巣の乱により実質的に唐王朝は滅び、李克用ら実力者らが唐政府の権威を利用して覇権を争い合う時代となった。李克用の最大の敵となったのが元黄巣軍の幹部であり、後に黄巣を裏切って唐側に付いて功績を挙げた朱全忠であった。

李克用は戦争には強いが、政略では朱全忠に劣り、また配下の鴉軍もその勇猛さが時に粗暴に変じたために政府中央の評判は芳しくなかった。朱全忠とは何度も激しい争いを繰り広げるが、901年に朱全忠に河中を抑えられたことで中央への進出が難しくなり、太原に閉じ込められた格好となる。ある時に、唐の朝廷内での宴会で李克用は些細なことで、朱全忠の怒りを買った。身の危険を直感した李克用は、逃げるように逸早く退席したこともあるという。

907年、朱全忠によって唐が滅亡する禅譲劇が行なわれ、後梁が建てられた。だが、李克用は当然これを認めようとはしなかった。翌年の正月に朱全忠打倒を李存勗に託して死去した。享年53。

[編集] 宗家

[編集] 后妃

  • 正室劉氏
  • 次妃曹氏

[編集] 兄弟

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