最上義連

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最上義連
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保8年(1837年
死没 明治22年(1889年4月19日
改名 義連→五道
別名 内記、采女助(通称
戒名 晴雲院賣書信士
墓所 京都府京都市下京区中堂寺西寺町の長国寺
官位 従五位下、出羽守、駿河
幕府 江戸幕府
氏族 最上氏
父母 父:井上正春、養父:最上義偆
兄弟 井上正直義連井上正信
正室:松平忠固の養女
義和
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最上 義連(もがみ よしつら)は、幕末交代寄合江戸時代最後の最上家当主で、義光以降江戸幕府の役職についた当主(義智高家義実:大番頭)の中の数少ない一人であり、また勤皇家として活動した。

生涯[編集]

老中井上正春の五男として生まれる。安政4年(1857年)に最上義偆の養子となり最上家を継ぐ。文久3年(1863年)10月大番頭となり、大坂在番を務める。

元治元年(1864年)正月、従五位下・出羽守に叙任される。同年禁門の変では守衛の列に加わる。慶応2年(1866年)大番頭を辞し、名乗りを駿河守に改めた。同4年(1868年)上洛。戊辰戦争では官軍に資金や糧食を提供した。

戦後朝廷より会津松平家の役知の残米の取調の役を命じられる。同年5月に本領安堵。中太夫席。朝廷に軍資金1000両献上。

明治元年(1868年)9月、家中にあって家臣の文武修学を奨励し、明道館を創設する。

明治2年(1869年)12月、士族編入。駿河守廃称。名を五道と改める。同3年(1870年)正月、版籍奉還。永世禄150石を賜る。同年10月、京都府貫属士族となり、最上家が200年以上治めてきた近江国大森陣屋(現在の滋賀県東近江市)を離れる。

同年12月、御陵衛士を命ぜられる。同5年(1872年)8月、依頼免職。同年11月に隠居し、子の源五郎が家督を相続した。

隠居後は京都にて商売を営む。同22年(1889年)4月19日死去。享年53。

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