清浄光寺

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清浄光寺
Yugyou Ji.JPG
本堂
所在地 神奈川県藤沢市西富1-8-1
位置 北緯35度20分54.65秒
東経139度29分19.12秒
山号 藤沢山
宗派 時宗
寺格 総本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 正中2年(1325年、呑海による開山年)
開基 俣野五郎景平、呑海(開山)
正式名 藤沢山 無量光院 清浄光寺
別称 遊行寺、藤沢道場
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清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。代々の遊行上人が法主(ほっす)であるため遊行寺(ゆぎょうじ)の通称の方が知られている。藤沢道場ともいう。

東国花の寺百ヶ寺神奈川15番札所。

目次

[編集] 歴史

[編集] 開山・中近世

俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺 (相模原市))に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。当時は現在より400mほど北の、光徳と呼ばれる場所にあった。その後藤沢四郎太郎に土地を提供されて西富に移った。以後、この寺に独住するようになった遊行上人を藤沢上人と称するようになる。次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。

伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている。(古遊行寺)

延文元年(1356年)八代渡船が梵鐘を鋳造し、清浄光寺と改称。応永年間に2度焼失し、より広い堂宇が再興された。

永正10年(1513年北条早雲三浦道寸太田資康との戦いにより全山焼失。本尊の阿弥陀仏は駿河国府中長善寺に移されたが、永正17年(1520年)に二十四代不外によって甲府一蓮寺に置かれた。

元亀2年(1571年)には甲斐国の武田信玄から藤沢200、俣野の内100貫の土地が寄進された。

三十二世遊行上人普光は、天正19年(1591年)に常陸国佐竹義宣に招かれ、水戸に藤沢道場神応寺を建立し、時宗の本拠とする。普光は甲府一蓮寺の天順を清浄光寺看主とし、天順は慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興させた。寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出、幕府から時宗274寺の総本山と認められる。

清浄光寺は浅草日輪寺、甲府一蓮寺、山形光明寺京都法国寺、大浜称名寺の5寺の住職任命権を持ったが、貞享4年(1687年)頃から各諸派の独立を求める動きに、それらが本山と名乗ることを許し、上位の総本山という位置づけとなった。

徳川綱吉生類憐みの令では、江戸市中の金魚の保護所となった。

[編集] 近代以降

明治元年10月10日1868年11月23日)には、東京行幸の際に明治天皇が宿泊をした。明治維新後には、それまで幕府より与えられていた回国の御朱印を失い、遊行上人は随時御信教として地方に出向くことになり、これにより遊行上人と藤沢上人は同一人となる。

明治13年(1880年)の藤沢の大川火事で中雀門を残して焼失。明治44年(1911年7月6日の火災では、書院、居間、番方庫裡および国宝一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起絵)を焼失した。

この時代には東海道を通る失業者などが身を寄せる場所になっており、昭和5年(1929年)の恐慌の際には、設けられた無料接待所を訪れた者は1年で1万1千人を数えた。

昭和44年(1969年)には真教の650年遠忌が行われ、河野静雲の句碑が建てられる。翌45年には一遍像造立、万葉植物園造成。昭和52年(1977年)に遊行寺宝物館を設置、全国に散在していた一遍関係の絵巻物を展示する。

[編集] 学寮

延享5年(1748年)に、それまで時宗の学寮が無かったことから、清浄光寺の藤沢学寮、七条道場の七条学寮が設けられた。その後浅草日輪寺に浅草学寮も設けられ、明治27年(1894年)に清浄光寺に移されて、東部大学林と称する。明治36年(1903年)に西部大学林(七条学寮)も合併して、宗学林と改称。

大正5年(1916年)に藤嶺中学校(現:藤嶺学園藤沢中学校・高等学校)を併設、後に学校法人藤嶺学園となるが、それと別に僧侶養成機関としての時宗宗学林も存続している。

[編集] 文化財

[編集] 国宝

所在する国宝は、以下のとおり。

鎌倉時代絵巻物。絹本著色で全12巻。別称に「一遍聖絵」。正安元年(1299年)作。の代表作。一遍上人絵伝は時宗の開祖である一遍(一遍智真)が訪れた各地の風景が描写されているもので、清浄光寺は一遍弟の聖戒により編纂され、円伊による筆で一遍没後十年にあたる正安元年に完成している。
一遍の遊行した各地の風景・風俗が実景に基づいて記されており、歴史・風俗資料としても貴重なものである。もと歓喜光寺京都市山科区)に伝来したもので、歓喜光寺との共同所有を経て、現在は清浄光寺が単独所有(京都国立博物館及び奈良国立博物館寄託)。

[編集] 重要文化財(国指定)

所在する重要文化財は、以下のとおり。

1900年(明治33年)4月7日指定。
  • 絹本著色一向上人像
1959年(昭和34年)6月27日指定[2]
  • 時衆過去帳 2帖
1954年(昭和29年)3月20日指定[3]
  • 六時居讃・安食問答 2帖
同上

[編集] 史跡(国指定)

所在する史跡は、以下のとおり。

敵御方供養塔
  • 藤沢敵御方供養塔
1416年応永23年)の上杉禅秀の乱で戦死した人々の供養塔。遊行14世太空が1418年(応永25年)に造立。境内に所在。1926年大正15年)10月20日、国の史跡に指定された。

[編集] 重要美術品

所在する重要美術品は、以下のとおり。

  • 色紙金字阿弥陀経(蝶鳥経)

[編集] 神奈川県県指定重要文化財

  • 延文元年(1356年)の梵鐘
  • 二河白道図
  • 遊行上人縁起絵巻(一遍上人縁起絵)
他阿真教の弟子とされる僧宗俊が編纂した絵伝。全10巻。宗俊本の模本で、室町期から江戸時代までの画風が混在しているため、年代の特定はなされていない。
  • 一遍上人像

[編集] その他

[編集] 境内

清浄光寺の一遍上人銅像

境内は自由に出入りできる。

  • 一遍上人銅像(写真)
  • 大いちょう 樹齢600年といわれる大木。
  • 中雀門 1859年(安政6年)建立。菊の御紋と三葉葵が刻まれている。
小栗判官の伝説の残る長生院(小栗堂)
  • 小栗判官・照手姫の墓 本堂裏、長生院(小栗堂)にある。照手姫は小栗判官の死後、ここで尼となり余生を過ごしたと伝えられる。 
  • 遊行寺宝物館 祝日午前10時 - 午後4時開館。
歴代遊行上人の墓
  • 遊行上人の墓 本堂裏。代々の遊行上人が眠る。

[編集] 行事

  • 開山忌 毎月23を開山忌としているが、特に春季(4月)、秋季(9月)、11月(別時念仏会)が大きな行事となっている。
    • 春季開山忌(吞海忌)
    • 秋季開山忌(一遍忌)
  • 薄念仏会(すすきねんぶつえ) 9月15日に行われる時宗独特の念仏行事。
  • 別時念仏会(べつじねんぶつえ) 以前は歳末の行われていたが、現在は11月18日の御連歌の式から、28日の大御台の式にかけて行われる念仏の儀式。特に「御滅灯」(おめっとう)または「一ツ火」と呼ばれる11月27日夜に行われる儀式では、全山の灯が消され、闇の中で懺悔を行い、火打石で「一ツ火」が点され、次第に念仏の声が高まるとともに新たな灯が仏前に点されてゆく、厳粛な儀式として知られる。
  • 遊行の盆
  • 遊行寺 薪能
  • 遊行かぶき

[編集] 参考

  • 説教節小栗判官」では、地獄へ落ちた小栗は閻魔大王によって藤沢上人のもとに渡される。この物語は遊行巫女に語り出された後に清浄光寺で物語として発展したという仮説もある[4]
  • 寺の東側にある坂は道場坂(遊行寺坂)と呼ばれ、箱根駅伝では8区後半の難所として知られる。

[編集] 脚注

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  1. ^ 同年10月16日、文化財保護委員会告示第21号。もとは、「絹本著色一遍上人絵巻 圓伊筆」として、1900年(明治33年)[[内務省 (日本)|]]告示第32号で重要文化財指定したものを、1952年に「絹本著色一遍上人絵伝 法眼圓伊筆」に名称変更して国宝指定。国宝指定時のト書として「正安元年聖戒の奥書がある 但し巻第七の絵は後補である」とある。
  2. ^ 同日、文化財保護委員会告示第31号
  3. ^ 同年7月27日、文化財保護委員会告示第15号
  4. ^ 福田晃「小栗照手譚の生成」(『國學院雑誌』1965年11月号)

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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