東京箱根間往復大学駅伝競走

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東京箱根間往復大学駅伝競走
HAKONE LOGO.jpg
開始年 1920
主催 関東学生陸上競技連盟
参加チーム数 20
加盟国 日本の旗 日本
前回優勝 東洋大学
最多優勝 中央大学
サイト 箱根駅伝公式webサイトhttp://www.hakone-ekiden.jp/
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2012年箱根駅伝 一区 東京・丸の内にて

東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)とは、例年1月2日と翌3日の2日間にわたって行われる、大学駅伝の関東チャンピオンを決める地方大会である。関東学生陸上競技連盟が主催し、読売新聞社が共催する。一般に箱根駅伝と呼ばれる。

目次

[編集] 概要

小田原中継所と予備のたすき

関東学生陸上競技連盟(「関東学連」)加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した10校と、予選会を通過した9校、さらに関東学連選抜を加えた合計20チームが出場する[1]

コースは、東京都千代田区大手町読売新聞旧東京本社前[2]から、鶴見戸塚平塚小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までの往復で、往路108km、復路109.9km、計217.9km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。

第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。これは、1912年ストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。また、学生のための大会ということで、午前中は勉強時間に充てるとして、午後1時から行われた。第二次世界大戦中に一時中断され、1947年に復活した。第32回(1956年)から、現在の1月2・3日の開催となった。

箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、1987年に日本テレビが全国完全生中継を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した[3](詳細は#報道・中継・広報についてを参照)。また、箱根駅伝出場者からオリンピック世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。

箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると全国大会で駅伝シーズンの開幕を告げる出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年体育の日開催。以下「出雲駅伝」という。)に、3位以内に入ると同じく全国大会で大学日本一を決める全日本大学駅伝対校選手権大会(同年11月第1日曜日開催。以下「全日本大学駅伝」という。)に、それぞれ関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の3校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東以外の大学は三冠を達成することはない。また3校とも箱根駅伝の往路優勝だけは逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての3冠を果たした大学は1校もない。

地方大会のため参加資格は関東学連の加盟大学に限られるが、5年又は10年ごとの記念大会では、関東以外の大学が招待されることもあった。最近では第80回(2004年)で特別に日本学連選抜チーム[注 1]がオープン参加で出場した。このほか、第79回(2003年)からオープン参加が認められている関東学連選抜もあり、当初は個人記録のみが認められていたが、第83回(2007年)からは、チームとして正式にタイム及び順位が記録されることになり、現在では、関東学連選抜が10位以内に入れば、次回のシード校(予選免除校)は10校から9校に減り、代わりに予選会からの出場校は9校から10校に増えるというルールに変更されている。またその年の出雲駅伝の関東推薦校においても10校から9校に減る。

[編集] 人物

[編集] 大会成績

東海大学のユニフォームと襷
  • 総合優勝校には、賞状、優勝カップ、メダル、優勝旗を授与。優勝校監督には記念品を授与。
  • 準優勝校、3位校には、賞状、カップ、メダルを授与。
  • 総合4位から10位までは賞状とトロフィーを授与(シード権が9位までの時、入賞は8位までだった)。
  • 往路優勝校、復路優勝校には賞状とトロフィーと副賞を授与。なお、往路優勝校に関しては往路ゴール後に箱根町から提供される地元の名産寄木細工のトロフィー(箱根町長杯)が第73回大会より授与されている。
  • 区間賞者には賞状とトロフィーを授与。
  • 最優秀選手には金栗四三杯を授与。

[編集] 歴代出場校順位成績

[編集] 歴代本戦出場校一覧

[編集] 金栗四三杯

「日本マラソンの父」と評された金栗四三の功績を讃えるため、第80回(2004年)に新設された最優秀選手賞。最も優秀な記録を出した選手に授与される。

回数 受賞者 所属大学 学年 受賞理由 備考
第80回 鐘ケ江幸治 日本学連選抜
筑波大学
4年 5区・区間賞 学連選抜初の区間賞。
第81回 今井正人 順天堂大学 2年 5区・区間新記録 区間記録を2分以上更新。11人抜き。
第82回 今井正人 順天堂大学 3年 5区・区間賞 距離が延長された新5区で初・自身は2年連続の区間賞。2分26秒差を逆転し5人抜きで往路優勝。
第83回 佐藤悠基 東海大学 2年 1区・区間新記録 13年ぶりに1区の区間記録を更新。2位に4分1秒差をつける。
今井正人 順天堂大学 4年 5区・区間新記録 1位との差4分9秒を逆転し4人抜きで往路優勝。自らの持つ区間記録を25秒更新し3年連続の区間賞。
第84回 篠藤淳 中央学院大学 4年 9区・区間新記録 中央学院大学初の区間新記録。中央学院大学は総合3位と躍進。
第85回 柏原竜二 東洋大学 1年 5区・区間新記録 1位との差4分58秒を逆転し8人抜きで往路優勝。区間記録を47秒更新。
第86回 柏原竜二 東洋大学 2年 5区・区間新記録 1位との差4分26秒を逆転し6人抜きで往路優勝。自らの持つ区間記録を10秒更新し2年連続の区間賞。
第87回 村澤明伸 東海大学 2年 2区・区間賞 2区歴代5位のタイムで最下位から2分31秒差で先行する3位までの17人をごぼう抜き。チームの往路3位、総合4位に貢献。
第88回 柏原竜二 東洋大学 4年 5区・区間新記録 自らの持つ区間記録を29秒更新し史上2人目4年連続同一区間賞。往路記録を5分5秒更新し、更に大会総合記録も8分15秒更新した。

[編集] 出場資格

[編集] 第79回(2003年)以後

箱根駅伝に出場できるのは、以下の4種類の方法で選んだ合計20チームである。

  • 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 予選会タイムの上位6チーム
  • 予選会タイムの7位以降については予選会タイムに関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)のポイント(順位・エントリー数をタイムに換算)を加算した上での上位3チーム(インカレポイントの詳細計算については外部リンクなどを参照。また後述の駅伝偏重とインカレポイントも参照)
  • なお、以上の本大会出場校以外のチームから選ばれた関東学連選抜1チームが参加する(第80回の記念大会は関東学連選抜に代わり、日本学連選抜で参加した)。また、関東学連選抜チームは、当初オープン参加扱いだったため、記録の公認は個人記録に限られ、総合順位は付けられなかったが、第83回(2007年)からは総合順位も公認されることになった。関東学連選抜チームがシード権を獲得できる総合順位10位以内に入った場合、翌年のシード枠が1つ減り、予選会からの出場枠が1つ増える。
  • 第85回(2009年)は出場校を3校増やす。これは第85回記念大会に伴う措置で、シード校9校(第84回(2008年)で関東学連選抜が第4位に入ったことにより、前項の規定に基づき第85回(2009年)のシード枠が1つ減ったため)と予選会から選考した13校に、関東学連選抜チームを加えた23チームで争われる。予選会選考方式は成績上位10校に自動的に出場権を与え、残り3校についてはインカレポイントを加味して選考する[4][5]。なお、この措置は5年ごとの記念大会に限るもので、通常の大会は引き続き20校で行うこととしている。

[編集] 過去の出場資格

[編集] 第1回 - 第31回(1920年-1955年

参加希望校の内、関東学連が承認したすべてのチーム

[編集] 第32回(1956年

出場校を15チームに限定し、出場全チームを当該同年度秋季の予選会にて選考

[編集] 第33回 - 第46回(1957-1970年

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  • 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 他の出場校については当該同年度秋季に行われる予選会に参加し、その予選会上位5チーム

※第40回(1964年)の記念大会時は、例年の15校のほかに特例として関西と九州から各1校の計2チームを招待

[編集] 第47回 - 第78回(1971-2002年

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  • 前年度の総合順位9位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 他の出場校については当該同年度秋季(第68回(1992年)から10月下旬)に行われる予選会に参加し、その予選会上位6チーム

※ 第50、60、70回(197419841994年)の記念大会時は、特例として20チームで実施。増加分の決定方法は年度により異なるので、後述の沿革を参照のこと。

[編集] 予選会について

第88回大会予選会のコース図(陸上自衛隊立川駐屯地~立川市街地~国営昭和記念公園)
第81回~第86回での予選会コース

箱根駅伝では第23回大会から予選会が実施されている[8][9]。 当初は関東学生10マイル(約16.1㎞コース)での成績を選考材料にしていたが、予選会のコース・距離及び選考方法は、次第に変遷を重ね、現在は陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園の全長20㎞のコースで予選会を行なっている(詳細後述)。

当初は参加校全校が予選会に参加し上位15校が本戦出場する規定となっていたが、第32回大会まではいずれも参加校が15校以下であり予選参加の全校が本戦出場していた。第33回大会からは規定が変更となり、前回大会の総合成績上位10校にシード権を与え、予選会からの本戦出場は予選上位5校のみとなり、これ以降は予選会で敗退校が出るようになった。第48回大会からは予選会からの出場枠が6校となり、第79回大会以降は予選上位9校が本戦出場できる(学連選抜の前回大会成績がシード圏内の場合は上位10校が本戦出場)。

予選会は、陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市内を通過して、昭和記念公園内をゴールとする20kmのコースを各校12名の走者が走って行われる。各校上位10人の合計タイムにより、まず上位6校(関東学連選抜が前回大会10位以内だった場合は7校)が予選通過となり、残り3校については関東学生陸上競技対校選手権大会の成績に基づくポイント(インカレポイント)による減算タイムを併用して順位を決定する。なお、記念大会やシード校の変更などにより、出場枠が変更される場合がある。

予選会に出場するためには、その年の1月から予選会申込期日前日までの公認記録で、10000m34分00秒00か5000m16分30秒00のどちらかもしくは両方を突破した選手を、補欠も含めて10人以上揃えなければならない[注 2]

インカレポイントは、大学の陸上部全体の成績が反映されるため、駅伝だけではなく陸上競技部全体としての取組が成績に影響する仕組みとなっている。 なお、本戦がテレビメディアに大きく扱われるようになって以後、予選会を突破しての本戦出場には、僅差のタイムにより明暗が分かれることが多い傾向にある。特に第83回大会予選会においては、出場を逃した10位の拓殖大学と9位の国士舘大学とのタイム差は、インカレポイントを含めてわずか1秒だった。

一般論として、予選に出るということは、本大会の約2か月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要がある。そのため、チームとして、年間を通しての調整面で予選突破が不要なシード校に比べてより多くの課題に取り組まなくてはいけないという面がある。

[編集] 予選会の順位決定方法

予選会での順位を決定する際の記録の扱いは、下記の通りとなっている[10]

  • (ア) 競技成績での10名の合計タイムが少ない大学を上位とする。
  • (イ) (ア)で同タイムの場合には上位10名の合計順位が少ない大学を上位とする。
  • (ウ) (イ)でも順位が決定しない場合には、各校最上位選手の順位が上位の大学を上位とする。
  • (エ) 関東インカレポイントを加味した選考を行う場合については、ポイントを加味した合計タイムで同記録となった場合には(ア)、(イ)、(ウ)の基準を順に適用し順位を決定する。

[編集] これまでの予選会実施方法

大会 予選会大会名称 予選会コース 距離 予選会
選考方法
予選
通過
枠数
備考
第23回 関東大学高専10マイル
チームレース
代田橋-井の頭公園(往復) 10マイル
(約16.1km)
平均タイム
(8選手)
15 全校が予選会に参加。
第24回 合計タイム
(10選手)
第25回 目白-練馬(往復) 平均タイム
(8選手)
第26回-第30回 関東学生10マイル
ロードレース
代田橋-井の頭公園(往復)
第31回 降雨コンディション不良のため予選会中止
第32回 全校が予選会に参加。
第33回 5 前年上位10位内にシード制を導入(予選会枠は5校)。
予選4位の順大が本大会棄権、予選6位の神大が出場 。
第34回 -
第35回 練馬区役所-石神井公園(往復) 平均タイム
(10選手)
6 予選6位の埼玉大の平均記録が60分を切り本大会に特例出場
第36回-第37回 5 -
第38回 国分寺国鉄競技場-東村山(往復)
第39回-第40回 江戸川区鹿本中-瑞江中(往復)
第41回 関東学生20キロ競走 京王多摩動物公園-野猿峠(往復) 20.0km
第42回 検見川ロードレースコース
第43回-第47回 東京箱根間往復
大学駅伝競走予選会
合計タイム
(10選手)
第48回 八王子市富士森競技場付属コース 6 シード校が前年9位以内、予選会枠6校に変更。
第49回-第53回 -
第54回-第59回 大井埠頭周回コース
第60回 11 記念大会。標準記録(11時間20分)を切った上位11校が本大会出場。
第61回-第69回 6 -
第70回 11 記念大会。上位11校が本大会出場。
第71回-第74回 6 -
第75回 今大会以降、予選会出場の標準記録を設定
第76回 -
第77回-第78回 国営昭和記念公園内コース
第79回 10 本大会の出場校数を19校に変更(シード校10校、予選会枠9校)
(79回大会は変更後初回の為シード校9校、予選会枠10校で実施)
インカレポイント制度を導入。
第80回 箱根町湖尻林間駐車場→箱根高原ホテル前 16.3km 9 記念大会。芦ノ湖畔コースで予選会実施。
第81回 陸上自衛隊立川駐屯地
→立川市街地→国営昭和記念公園
20.0km -
第82回 国営昭和記念公園内コース
第83回-第84回 陸上自衛隊立川駐屯地
→立川市街地→国営昭和記念公園
第85回 13 記念大会で予選枠が3増。学連選抜が前回4位で予選会枠が1増。
併せて上位13校が本大会出場。
第86回 11 前回3位の日体大がシード権剥奪され予選枠が1増。
学連選抜が前回9位で予選会枠が1増。
併せて上位11校が本大会出場。
第87回- 9 -

[編集] シード校について

シード(予選免除権。前年の本選で総合10位以内入賞が条件)校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームはいまだ発生していない(出雲駅伝では発生例あり)。

他の大学駅伝大会に比べると、シード校が10校とやや多くなっている。(出雲は3校、全日本は6校)

[編集] 沿革

  • 1920年(大正9年) 第1回大会として2月中旬に実施。明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校の4校が出場。東京高等師範学校(現・筑波大学)が優勝。
第1回開催に当たって東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに対して参加を呼び掛けるが、10人の選手を出場させる状況にある学校が少なく、最終的に第1回はこの4校となった。このときは午前中は授業を行い、午後にスタートした。そのため、ゴールしたときには夜になっていた[11]
  • 1921年(大正10年) 第2回大会に東京農業大学、法政大学、中央大学が初出場。明治大学が初優勝。
  • 1922年(大正11年) 第3回大会に東大農学部実科、日本歯科大学、日本大学が初出場。早稲田大学が初優勝。
  • 1925年(大正14年) 第6回大会の後日、日本大学が3区の走者としてエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退[12]
  • 1926年(大正15年) 第7回大会で中央大学が初優勝。
  • 1927年(昭和2年) 第8回大会は大正天皇崩御の影響で初めて4月に開催。そのため参加校は5校のみとなった。早稲田大学が初の完全制覇(総合、往路、復路の全部門で優勝)。
  • 1928年(昭和3年) 第9回大会に関西大学を特別招待(その後第12回大会及び第13回大会にも招待)。
  • 1932年(昭和7年) 第13回大会で慶應義塾大学が初優勝。
  • 1933年(昭和8年) 第14回大会に東洋大学、拓殖大学が初出場。
  • 1934年(昭和9年) 第15回大会に専修大学、立教大学が初出場。
  • 1935年(昭和10年) 第16回大会で日本大学が初優勝。
  • 1936年(昭和11年) 第17回大会に横浜専門学校が初出場。
  • 1937年(昭和12年) 日本大学が戦前初の3連覇をし当時の大会規約により優勝旗が授与された。その後大戦による混乱で紛失し、竿だけが大学内に保管されている[13]。日本大学は翌1938年も優勝し、戦前唯一の4連覇を達成している。
  • 1938年(昭和13年) 第19回大会で2着の明治大学が6区の走者の資格疑義により失格、以下順位が繰り上がる。失格の理由は、当該選手が夜間部に在籍する学生で二重登録に当たるというもの[14]
  • 1939年(昭和14年) 第20回大会で専修大学が初優勝。
  • 1941年(昭和16年) 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を実施(歴代大会には含めない)。
  • 1942年(昭和17年) 戦時命令により日本学連が解体する。
  • 1943年(昭和18年) 戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。青山学院大学が初出場。
  • 1944年(昭和19年) 戦況激化により再び箱根駅伝は以後3年間中断。
  • 1947年(昭和22年) 駅伝大会を復活し、第23回大会として開催。神奈川師範学校が初出場。読売新聞社が共催に入るが「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とのGHQからの指導があり、後援となる。
    • 同年の大会では明治大学が優勝。戦時中の旧ビルマ捕虜でマラリアに感染していた当時のアンカーが必死で追い上げた末、中央大学が準優勝となる。
  • 1948年(昭和23年) 同年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン)とした。
  • 1949年(昭和24年) 第25回大会で神奈川師範学校(現:横浜国立大学)が大会史上初の途中棄権〈3区〉。日本体育専門学校が初出場(現:日体大、以降現在まで連続出場)。報知新聞社が後援につく。
  • 1950年(昭和25年) 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。
  • 1951年(昭和26年) 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。
  • 1952年(昭和27年) 第28回大会に成蹊大学が初出場。
  • 1953年(昭和28年) NHKラジオによる全国放送が開始。
  • 1954年(昭和29年) 第30回大会に横浜市立大学が初出場。
  • 1955年(昭和30年) 同年11月に初めての予選会(第10回関東学生10マイル兼第32回箱根駅伝予選会)を実施。シード校制度未導入のため、予選参加19校の中から上位15校が本大会に出場。また同年より交通事情を考慮し期日を新春2日、3日に変更。
  • 1956年(昭和31年) 第32回大会に東京学芸大学が初出場。
  • 1957年(昭和32年) 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。国士舘大学が初出場。同じく予選会を突破していた順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となったため、神奈川大学が繰り上がりで出場。
  • 1958年(昭和33年) 第34回大会に順天堂大学が初出場。横浜市立大学が途中棄権〈9区〉。
  • 1959年(昭和34年) 第35回大会に埼玉大学が初出場。予選会6位ではあったが平均タイムで規定タイムをクリアしたため、特例で出場が認められる。この大会のみ16校が出場。
  • 1961年(昭和36年) 第37回大会に防衛大学校が初出場。
  • 1964年(昭和39年) 第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待(オープン参加)し、全17校にて実施。中央大学が史上初の6連覇を達成。
  • 1965年(昭和40年) 予選会の会場が千葉市の検見川ロードレースコースに変更。
  • 1966年(昭和41年) 第42回大会に復路スタートを全校一斉スタートに変更。順天堂大学が初優勝。
  • 1967年(昭和42年) 第43回大会に亜細亜大学、駒澤大学が初出場。
  • 1968年(昭和43年) 第44回大会に大東文化大学が初出場。
  • 1969年(昭和44年) 第45回大会で日本体育大学が初優勝。
  • 1971年(昭和46年) 第47回大会よりシード権枠を9校に変更。予選会の会場が八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。
  • 1973年(昭和48年) 第49回大会より自衛隊車両が大会関係車両として登場。日本体育大学が5連覇を達成。東海大学が初出場。
  • 1974年(昭和49年) 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。
  • 1975年(昭和50年) 第51回大会で大東文化大学が初優勝。
  • 1976年(昭和51年) 第52回大会より復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。青山学院大学が途中棄権〈10区、ゴール前150m地点での棄権〉。
  • 1977年(昭和52年) 予選会の会場が大井埠頭周回コースに変更。
  • 1983年(昭和58年) 第59回大会の模様をテレビ東京が初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。
  • 1984年(昭和59年) 第60回を記念して全20校で実施。本大会では過去の優勝校を無条件で参加させるのではなく、制限タイムつきでの予選会突破を義務付けたが、対象3校(中央・慶應・明治)はいずれも予選会を突破。東京大学が初出場。国立大の東京学芸大学が23年振りに出場。
  • 1987年(昭和62年) 第63回大会より日本テレビによる生中継放送が開始。山梨学院大学が初出場。
  • 1989年(昭和64年) 第65回大会で留学生選手が初めて箱根路に登場。順天堂大学が4連覇を達成。
  • 1990年(平成2年) 第66回大会より伴走車(監督車)が交通事情により廃止。
  • 1991年(平成3年) 第67回大会で大東文化大学が優勝し、出雲駅伝、全日本大学駅伝と合わせて史上初の大学駅伝三冠達成。
  • 1992年(平成4年) 第68回大会で山梨学院大学が初優勝。
  • 1994年(平成6年) 第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。まず予選通過の9校が選出され、中央学院大学、関東学院大学が初出場。後日特例として慶應義塾大学、筑波大学の出場も決まる。
  • 1995年(平成7年) 第71回大会で順天堂大学が途中棄権(10区)。
  • 1996年(平成8年) 第72回大会で史上初の2校(神奈川大学〈4区〉、山梨学院大学〈4区〉)途中棄権[注 3]
  • 1997年(平成9年) 第73回大会で神奈川大学が初優勝。前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めての快挙。監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。
  • 1998年(平成10年) 第74回大会に帝京大学が初出場。
  • 1999年(平成11年) 第75回大会より10区のコースを日本橋経由に変更。
  • 2000年(平成12年) 第76回大会より5区と6区のコースが一部変更。元の東海道を通るコースになる。駒澤大学が初優勝。予選会の会場が国営昭和記念公園に変更。
  • 2001年(平成13年) 第77回大会に國學院大學、平成国際大学が初出場。順天堂大学が優勝し、史上2校目の大学駅伝三冠達成。東海大学が途中棄権〈2区〉。
  • 2002年(平成14年) 第78回大会で法政大学が途中棄権(2区。2011年現在、最もスタートから近い地点での途中棄権)。
  • 2003年(平成15年) 第79回大会から前年度成績上位校によるシード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増加、さらにオープン参加として関東学連選抜チームを加えて20チームとする。エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。第80回を記念し、この回限定で予選会を箱根町の要望により芦ノ湖畔コースで実施。また年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われる。
  • 2004年(平成16年) 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に代わり、日本学連選抜がオープン参加した。城西大学が初出場。この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。読売新聞社が共催に復帰。この年行われた第81回大会予選会からコースが陸上自衛隊立川駐屯地立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。
  • 2005年(平成17年) 第81回大会に際し距離を再計測し、全区間の距離表示を変更(ルート自体は変更せず)。表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。予選会での外国人枠は2人までに限定。実際に走るのは1人のみ。駒澤大学が平成初の4連覇を達成。
  • 2006年(平成18年) 第82回大会より中距離ランナー、マラソンランナーの育成を目的に、往路小田原中継所の位置を東京寄りに変更。4区が20kmを切る最短区間(18.5km)、5区が2区や9区より長くなり最長区間(23.4km)になる。亜細亜大学が初優勝。
  • 2007年(平成19年) 第83回大会より関東学連選抜が正式参加となる。
  • 2008年(平成20年) 第84回大会で史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。関東学連選抜が4位に入り、シード枠を1校分減らしたため、第85回大会の予選会枠が1つ増えた。
  • 2009年(平成21年) 第85回を記念して全23チームで実施。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。上武大学が初出場[注 4]。青山学院大学が過去最長となる33年振りの出場。東洋大学が初優勝[注 5]。城西大学が途中棄権〈8区〉。関東学連選抜が9位に入ったほか、3位の日本体育大学が跳躍選手の不祥事(大麻使用歴及び偽札製作)によりシード権が剥奪されたため、第86回の予選会枠が2つ増えた。
  • 2011年(平成23年) 第87回大会で早稲田大学が優勝し、史上3校目の大学駅伝三冠達成。

[編集] コースの特徴

箱根駅伝のコースマップ
  • コース途中の括弧書きは主な経由地、及び固定TVカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する。応援の際はパンフレットなどで詳しいルートを参照されたい。
  • 各区間には給水ポイントがある。これは近年、チーム間で給水の必要性が議論され始めた末に設けられたものである(後述)。ただし、マラソンなどで行なわれる給水とは異なり,テーブルに置かれたボトルなどを取るのではなく、控え部員が伴走しながら渡す。ボトルは協賛しているサッポロビールのものが使用されている、商品の変例はヴィッテル→ヴァットヴィレール→富士山麓のきれいな水、この他に監督の任意で2回までの給水が認められている。
  • 往路戸塚中継所までは交通規制解除の関係上、1位が通過してから10分経過を以って未通過チームの選手をスタートさせる(繰り上げスタート)。これ以降の中継所は1位通過から同様に、20分で繰り上げスタートとなる。この場合、襷は母校のものではなく大会本部が用意した「繰り上げ襷」を使用する。ただし、往路小田原中継所(4区→5区)と復路鶴見中継所(9区→10区)からの繰り上げスタートの場合のみ、母校の襷(予備)を使うことができる。また、往路で1位がゴールしてから10分を経過した後に到着したチームは、復路では午前8時10分(JST、以下同)に繰り上げての一斉スタートとなる。繰り上げ(一斉)スタートとなったチームの総合順位は見た目のタイム+繰上げ分の時間差を加算して算出される。
  • これらの事情もあり、往路優勝チームが復路を最初にゴールしても、必ずしも復路優勝とならないケースがある(1997年総合優勝の神奈川大学や、2010年総合優勝の東洋大学などが該当)。また、最初にゴールしたチームが復路一斉スタートとなったチームの場合は、総合優勝とならないケースがある。

[編集] 往路(1月2日)

東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/108.0km

[編集] 1区(21.4km)

東京・大手町 読売新聞旧東京本社[2]前(往路スタート)→(東京都道409号日比谷芝浦線)→(国道15号)→(田町)→(品川駅前)→(新八ツ山橋)→(京浜急行電鉄空港線蒲田踏切)→(六郷橋)→鶴見中継所

  • 大手町・読売新聞東京本社ビル(2010年より建替え中)前を午前8時00分に一斉スタートし、神奈川県の鶴見までを走る区間。
  • スタート前からあらかじめ指定された場所で出場大学の応援団チアリーディングが母校の幟とともに応援合戦を繰り広げる。
  • スピードランナーや準エースクラスの投入が多い区間だが、集団になれば牽制などでスローペースになったり、それほど大きくばらけなかったりする傾向にある。そのため、鶴見中継所に多数の選手が僅差で殺到することが多い。
  • また、スタート直後に飛び出して逃げ切りをねらう(俗に言う大逃げ)学校もあり、各校の戦術が現れる区間の1つである。
  • この区間で重要なのは「次につなげること(先頭の見える位置でたすきを渡すこと)」である。そのためブレーキを避けようとして、近年はペースが上がらないことが多い。
  • コース上の大きなアップダウンは新八ツ山橋と六郷橋のみ。この付近における選手同士の駆け引きも見もの。特に六郷橋から川崎市街に掛けての区間では、橋からの下りを利用してスパートを掛ける選手も多い。
  • 第88回大会までは1区のコース上に、京浜急行電鉄空港線の踏切があった。ランナーが踏切を通過する際は、電車が踏切の前で一旦停止を行ない、ランナーの通過待ちを行っていた。電車は、ランナーと踏切との間隔が開いてから踏切を通過していた。第89回以降は高架化完成により踏切が撤去される。

[編集] 2区(23.2km)

鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所

  • 第82回(2006年)から最長距離区間ではなくなったが、それでも各校がエースを揃えて争い、第37回(1961年)以降「花の2区」と呼ばれ続けている区間。
  • 箱根に限らず2区はその後の流れを決める重要な区間に挙げられることが多いが、各校のエース級の選手はほぼ均等な力を持っているため、ペース配分のミスやアクシデント発生以外の理由では差が広がりにくく、この区間の結果が総合優勝争いに直結することはほとんどない。
  • 鶴見中継所から横浜駅前を経由して保土ヶ谷駅までは標高差がほぼゼロの平坦なコースであるが、そこから東海道五十三次で箱根越えに次ぐ難所といわれた権太坂(ただ国道1号の権太坂は東海道のそれと比べて勾配がゆるい)と、戸塚中継所手前残り3km地点の急勾配があり、これら後半の難所をいかに攻略するかが最大のポイントとなる。
  • 上記の理由から鶴見中継所では差が付かないことが多く、ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間でもある。エースの結果いかんで後の流れが決まってくるともいわれる。
  • 上記のコースの特徴から分かるとおり、地形的にも走りづらい区間といえ、平坦なコース前半にペースを上げ過ぎると権太坂と中継所手前の後半の上りで力尽き、ブレーキが掛かることがある。好タイムを出すためにはこの上りにいかに余力を残して臨むかがポイントとなり、第75回(1999年)に区間新記録を樹立した三代直樹は残り3kmの上りを快走した。

[編集] 3区(21.5km)

戸塚中継所→湘南新道→(藤沢)→国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所

  • 遊行寺の坂を下り浜須賀交差点を右折すると湘南海岸に出るフラットなコースで、難敵は海風くらいという障害が少ない区間である。
  • 従来はこの3区はつなぎの区間とされてきたが、4区の距離短縮に伴い2区と同様の重要区間と位置づけられることが多くなった。そのため、2区の流れを持続又はつまずきを取り返すために、力のある選手を置くチームも多く、最近はこの区間でもごぼう抜きが見られるようになった。
  • 東京から小田原までのコースは東海道線と接近しているため、ファンはもちろん、出場校の走り終えた選手やコーチ、監督、付き添いなどが電車を使って移動することが多い。したがって、大会開催中は移動の車中で選手や監督などに遭遇することもある(学校ごとに揃いのグラウンドコートを着ている)。

[編集] 4区(18.5km)

平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所

  • 区間距離が大会唯一20kmを切る最も短い区間。第82回(2006年)にて、往路の小田原中継所が2.5km東京寄りに変更となった。(風祭鈴廣前→メガネスーパー本社前)
  • 距離の長さの割には平塚中継所から11.8kmの国府津駅入口までアップダウンが激しく、スピードが出にくい。このため、4区よりも3区にスピードランナーを置く学校も多く、この区間はチームの10番手の選手を起用する傾向になりつつある。
  • これらのことから、他の区間よりも区間距離が短い割に1kmに平均3分以上掛けて走る選手がほとんどである。1km平均3分(55分30秒)を切って走った選手は第86回大会までの計5回で5名しかいない。
  • なお、4区短縮の背景には「中距離で活躍する選手にも箱根に出場する機会を与えたい」という関東学連の意向がある。
  • 晴れた日には選手の前方に富士山の雄大な姿を望むことができる。

[編集] 5区(23.4km)

新・小田原→旧・小田原→(箱根登山鉄道箱根湯本駅前)→(函嶺洞門)→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園前)→(芦の湯)→(国道1号線最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール)

  • 俗に「山上り」と呼ばれ、標高差864mを駆け上がる区間。第82回(2006年)からは距離が延長され、全区間で最長となった。
  • 相当な脚力とスタミナが要求され、コース適性が最も必要とされる。そのため、スペシャリストが担当することが多く、「4年連続同一区間走行選手数」が全区間中最多(36人)となっている。
  • 特殊な区間ゆえに大差が付きやすく、ことに第82回(2006年)の距離延長後は6大会連続で5区での逆転により往路優勝が決しており、大差を逆転することも多い。
  • 山上りが注目される区間ではあるが、反対に最高点を過ぎた残り4kmの下りが勝負という言われ方もされる。事実、上りと下りでは使用する筋肉が異なるので向き不向きがあり、また、いきなり筋肉に掛かる負荷が極端に変わることから、寒さも災いして中には下りで痙攣を起こして立ち止まる選手もいる。
箱根登山鉄道の踏切では、選手が通過する際には電車を停止させる
  • 小涌園手前には箱根登山鉄道鉄道線踏切があるが、箱根登山鉄道の協力を得て選手が通過する際には列車を踏切の直前で一旦停止させる措置が採られている。
  • 5区及び6区は非常に気温の低い山中を走る。平地とは温度差があるため5・6区を走る選手の中にはタンクトップではなく、袖のあるユニフォームを着用することが少なからずある。
  • 第80回(2004年)の金栗四三杯創設以来、5区で区間賞を取った選手が同賞を9回中7回(第84回、第87回以外)受賞している。また、この区間で圧倒的な実力を示した選手に対しては「山の神」(今井正人や柏原竜二など)という異名が付けられることがある。

[編集] 復路(1月3日)

箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.9km

[編集] 6区(20.8km)

箱根・芦ノ湖(復路スタート)→(国道1号)→(芦の湯)→(小涌園ユネッサン前)→(箱根登山鉄道大平台駅前)→(大平台ヘアピンカーブ)→(函嶺洞門)→(箱根湯本駅前)→小田原中継所

  • 旧5区の裏返し区間で、「山下り」区間と呼ばれる。
  • 下りでの平均速度は時速25kmに達し、この高速で半径の小さなカーブを多く回るため、ひざに大きな負担が掛かる。箱根湯本駅前過ぎからの残り3kmのほぼ平坦な道(若干の下り勾配はある)は選手にとって上り坂に感じると言われ、ここから1分以上の差を付けられることもある。
  • このような事情から、5区の距離延長と同時に6区の距離短縮も検討されたが、中継所の問題などから見送られた。
  • 「4年連続同一区間走行選手数」が5区に次いで多く(30人)、復路中最多。3番目である2区はこの半数以下となっており、山の上り下りという特殊性が現れている。
  • 区間記録は第76回(2000年)からコース変更後のもの(東海道杉並木を通るコース→元箱根を通るコースに変更。距離は変更前と4m違い)。変更前の第75回(1999年)に中澤晃(神奈川大学)が58分06秒という記録を出している。
  • 朝8時台に高地からのスタートということもあって気温が低く、体温低下を防ぐために長袖のユニフォームで走る選手が多い。また、近年アームウォーマーを用いて体温調節をする選手も増えてきている。
  • 前日の夜の気象状況によっては路面が凍結して滑りやすくなることもある。

[編集] 7区(21.3km)

小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所

  • ほぼ旧4区の裏返し区間。
  • 10区間中最も走りやすい区間といわれるが、前半に小刻みなアップダウンがある。また、当初は山から吹き降ろす冷気で冷え込むが、太陽が高くなるにつれて気温も上がるため、最も気温差が激しい区間となっている[15]。そのため、山から海に出る際の大幅な気温の変動に注意したい。
  • 大磯には道の中央に松並木がある。この松並木は冬が来る前に地元住民によって藁を幹の周りに巻くなどの手入れがなされている。近年はこの木を地元学校の総合学習に活かすこともあるという。

[編集] 8区(21.5km)

平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→国道1号戸塚中継所

  • 3区の裏返し区間。前半はフラットで走りやすいが、藤沢を越えると通称「遊行寺の坂」が待ち構えるタフなコース。ここでどれだけ力のあるランナーを置けるかが逆転・シード権獲得へのかぎとなる。
  • この区間では、日差しが強いと遊行寺の坂付近で脱水症状を起こしやすい。ここでブレーキを起こすと後の2区間に大きな影響を及ぼすこともあるため、体調管理も重要な区間といえる。
  • この区間は当日のエントリー変更が多く、3分の2近くが入れ替わることもある。
  • 区間記録は現在のコースで最も古く、唯一2000年以前に出されたものである。

[編集] 9区(23.2km)

戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所

  • 2区の裏返し区間で、「復路のエース区間」とも言われる。各校のキャプテンないし準エースクラスが集うことが多い。前半は権太坂等の下り主体、後半の保土ヶ谷駅以降はほぼ平坦なレイアウトだが、長い区間なのできっちりとしたペース配分が必要。
  • 交通の便の良さが手伝ってか、例年横浜駅前には大勢の駅伝ファンが押し寄せる。
  • 鶴見中継所の手前は他の中継所と異なり、引き込み口からリレーゾーンまで数百メートルの直線がある。このため繰り上げスタート直前の場合、次走者が目の前に見えているにもかかわらず襷をつなぐことができず、10区のランナーが繰り上げスタートしてしまう光景が幾度も見られる。
  • この区間での成績が総合成績に大きく影響する。事実、この区間は逆転が非常に多く、近年では第75回(1999年)の順天堂大学、第79回(2003年)と第84回(2008年)の駒澤大学、第82回(2006年)の亜細亜大学が、いずれも9区での逆転に成功し、総合優勝を成し遂げている。

[編集] 10区(23.1km)

京急蒲田(空)第一踏切

鶴見中継所→(六郷橋)→(京急空港線蒲田踏切)→(新八ツ山橋)→(品川駅前)→(田町)→(都道409号)→(国道1号)→(日本橋)→東京・大手町 読売新聞旧東京本社[2]前(復路ゴール)

  • 日本橋経由のコースになったのは第75回(1999年)から。六郷橋と新八ツ山橋付近のアップダウンを除きコース全体はほとんどフラットだが、時折ビル風が選手を襲うこともある。
  • 最終区間である上に、沿道の観衆も増えることから、プレッシャーが一層掛かる区間。距離が延長に伴って各チームとも準エースクラスを配するようになり、選手層の厚さが問われる区間になりつつある。
  • 第88回まではコース中には京急蒲田駅に隣接する京急蒲田(空)第一踏切があり、ランナーの通過が予想される時刻を対象に京急本線空港線で臨時ダイヤを組むなどして電車の行き先を変更していた。 2007年の第83回から、列車の発車は京急社員の代用手信号によって許可されるなどの措置が取られる[注 6]。万一止められてしまっても止まっていた時間はロスタイムとして大会本部で計測され、差し引かれていた。第89回大会以降は、この区間の立体交差化事業が完成[16]。第84回(2008年)では東海大学の選手が踏切内の線路につまづいて足を痛め、その後20km過ぎで棄権に至るというアクシデントが発生した。その後、2010年5月16日、上り線が先行して高架化された為、臨時ダイヤが大幅に変更され、選手通過中は踏切を使用停止にする事が可能となった。

[編集] 出場チームの取り組み ~1年間の流れ~

  • 3月頃まではハーフマラソンなどのロードレースに出て刺激を受ける選手も多い。そのうちに少しずつスピード練習を取り入れていくが、急激な練習の変化で肉離れなどが起きやすいともいわれる。近年は、この時期に合宿を組む大学も現れている。
  • 春の目標は5月中旬の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)である。参加標準記録があり、種目ごとのエントリー人数も限りがあるので、それまでは各大学などで行われる記録会で標準記録を突破する必要がある。日本体育大学、東海大学、順天堂大学などが主催して大学内で行う長距離記録会が有名で、箱根出場大学や一部の実業団選手、高校生も出場する(この標準記録も有効期限内のものでなければいけない。大体至近2年ぐらいであることが多いようである)。予選会出場校はこの関東インカレの結果によってアドバンテージポイントが決定されるため、長距離部門以外の種目の結果も重要になってくる。6月中旬には全日本大学駅伝関東地区予選会が開催され、シード校を除く多くの大学が顔を合わせる。7月上旬の日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が上半期の締めくくりとなるが、出場のハードルは関東インカレよりも更に高い。なお日本インカレはここ数年開催時期が頻繁に変わっているが、これは箱根駅伝に重きを置く関東の大学の意向が反映されているともいわれる。しかし開催時期が夏合宿中の9月上旬の年ほど大学によってエントリーに差が出やすく、結果的に関東インカレよりもレベルの低いメンバーしか集まらないこともあり、後述される駅伝偏重につながる批判の矢面に挙げられている。
  • 一部のトップ選手の場合には日本選手権など世界陸上やオリンピックへの出場を目指して実業団選手と走ることもある。また、近年は関東学連による海外遠征に参加する選手もいる。
  • 大学によって時期のずれはあるが、試験の終わる7月下旬からが夏合宿となる。長期間の合宿を組むところや、何回かに分けて練習場所を変えるところもある。また選手の状態に合わせてAグループとBグループに分け、全く別の場所で行うところもあり、練習のスタイルも異なる。しかし月間で1000kmを超えることは珍しくなく、徹底した走りこみを行うことが特徴である。合宿の場所は北海道東北地方長野県などの高地や避暑地などが多い。また、前出の世界大会などに出場する選手は、チームを離れて別メニューとなることが多い。4年生の場合には就職活動卒業論文などと並行しながら行っている。また教員免許をとる選手の場合には、夏又は秋以降に教育実習もあるためにチームを離れることも多くコンディションづくりも容易ではない。
  • 下半期になると各大学のスタイルは、記録会にほとんど出ないところ、予選会突破を目指すところ、出雲駅伝や全日本大学駅伝を目指すところ、というように分かれてくる。特に駅伝では未経験者を試しに使ったり、様々なオーダーを試したりする使い方をする。9月ごろからは再び頻繁に記録会がある。
  • 予選会に出る大学にとっては、10月中旬の本番までに最高の状態にピークを持っていかなければならない。予選会を突破することが最優先のため、本番の準備(特に5区、6区の山の区間)が遅れがちになる傾向にある。
  • 全日本大学駅伝の後から短期の合宿を組むところもある。候補としては伊豆大島房総半島など温暖な場所が挙げられる。
  • 11月下旬に各地で開催されるハーフマラソンや記録会が、事実上メンバー選考の舞台となることが多い。エースクラスはともかく、当落線上の選手達にとってはここが正念場である。多くの大学が一堂に会するので、次第に大学間の力関係も浮き上がってくる。ここでの選手記録上位校がスポーツ新聞などの「下馬評」で上位校として取り上げられることが多い。
  • 12月10日(第82回は2005年12月9日)までに出場校(チーム)は計16名のエントリーを関東学連に提出する。この16人がすなわち箱根駅伝本番への出場権を得た選手と言える。これ以外の選手は付き添いなど、裏方として本番までを過ごす。なお、当日午後から出場校の監督コーチマネージャーがマスコミ向けに記者会見を行う。
  • 12月29日にエントリーした16人の区間エントリーを行う。16人を10人と6人に分け10人を1区から10区までの区間ごとに、残りの6人を補欠選手として登録する。区間エントリーの詳細については後述。
  • 1月2日午前7時に往路のエントリー変更を締め切る。
  • 1月3日午前7時に復路のエントリー変更を締め切る。

[編集] 区間エントリーの方法

  • 区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた選手と補欠選手とに大別される。そして、選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。ナンバーカードの記載は「(前年の順位・予選会の順位に従い大学に割り振られた番号)-(1番 - 16番)」となり、例えば前年3位の大学の6区にエントリーされた選手は「3-6」となる(第80回より。それ以前は大学ごとの番号は付されなかった)。既に区間ごとに配置された選手はその区間しか走ることができない。補欠選手は当日のエントリー変更でどの区間にも入ることができる。つまり往路、復路のエントリー変更とは区間ごとの選手と補欠選手間での変更のことで、区間ごとの選手を変えることはできない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。通常の駅伝では補欠選手との交代には医師による診断書の提出が義務付けられているが、この大会は長時間の移動への配慮からその必要がないため、戦略的に補欠との選手交代が行われるケースが数多くあり、補欠選手は言わばジョーカー的な意味合いを持つ。逆に区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができないため、当て馬的な要素もある。2区にチームで最も力のある選手を置くのが通常であるが、選手層の厚い大学では「つなぎの区間」にエースを配置し、他大学の虚を突くこともある。
  • 傾向としては往路での変更は比較的少なく、復路で何人かを変えてくることが多い。また、各校のエースが集う2区の変更が最も少ないようである。逆に言えば、補欠選手になるのはエースとまでは行かないものの、それに準じる選手や力がありながら調子が上がらない選手、全くの無名選手…などが考えられる。近年ではいずれかの区間を走るべき確実な力のある(かつ調子のよい)選手をあえて補欠登録して、往路の結果を見ながら復路のいずれかの区間に投入する作戦を取る大学も見られるようになった。優勝をねらうチームは、ライバル視するチームの配置を読んだ上で自チームのそれを考える必要がある。逆に予選会を勝ち上がってきたチームや苦戦が予想されるチームの中は、往路重視の布陣を敷いてくることが多い。選手層が薄く、後半区間での巻き返しが難しいため、エースクラスを序盤に配置することで落ち込みを避けるのがねらいである。また、どのチームも特殊区間である5区、6区については候補を複数用意していることが多い。これは他の区間とは違い、コースの特殊性ゆえに突発的なアクシデントなどによる急な抜擢が難しい(起用しても適性がない選手が走ることになるため、結果は芳しくないことが多い)ためである。
  • 4区以外の9区間が20km超という長丁場であることを考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である。また、なかなか調子が上がらない選手の様子をぎりぎりまで見るという点でも、補欠温存ができるのは非常に大きい。
  • 現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)から。背景にはここ数年で体調不良によるブレーキやけがによる途中棄権などが相次いだことで、主役である選手の健康を最優先した主催者側の配慮と言える。
  • 第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。したがって、補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた。ただし、往路・復路の当日エントリー変更は、従来どおり4人までの変更に限られる。

[編集] エピソード

箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。そのために様々なエピソードが生まれた。

[編集] 黎明期

元々箱根駅伝は、日本人によるアメリカ大陸横断のための予選会という位置付けで創設された。そのためにロッキー山脈越えを想定し、コースの中に山がある箱根のコースが選ばれた。第1回大会終了後、アメリカ横断のメンバーが選抜され渡米したが、選抜メンバーのうちの一人が殺害されてしまったことにより、計画は実現しなかった。

黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった[17]。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった。実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た[18]

山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終えることとなった。山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという。

日本大学は選手の代わりにをもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退せざるを得なくなった[19]

勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった[20]。なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある模様である。このように、かつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる。

第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。

[編集] 第二次世界大戦後

大学進学が現在ほど一般的ではなかった時代は1チームを組むこと自体が難しかった。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技でも短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビースキーの選手が登場した例も多かったという[21]。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、中には高校時代も陸上競技以外の部活動に入っていた選手もいる。また、1970年代ごろまでは実業団経由で入ってきた選手も多かった。

かつては戸塚中継所の近くにある東海道線横須賀線の踏切(戸塚大踏切)を通るコースが設定されたが、開かずの踏切だったため、状況によっては長時間の立ち往生を余儀なくされた[22]。当時は踏切での足止めによるタイムロスが計算されず、業を煮やした選手が踏切上で立往生した貨物列車のすき間をかいくぐったり、列車がこない合間を見計らって踏切を突破したりすることもあった。1939年第20回大会では、先行する専修大学を猛追していた日本大学が、ここでの足止めが元で優勝を逃したというケースもあり、このタイムロスを味わった選手は「あの時以来横須賀線には乗らない」と振り返っている。しかし1953年、当時首相の座にあった吉田茂が自分の別荘へ帰る際にこの区間が渋滞することに激怒。同区間の交通渋滞対策が急遽実施されることとなり、国道1号不動坂交差点から戸塚大坂上(現在の戸塚中継所付近)に通じる道路(通称「ワンマン道路」)が造られ、これによって結果として戸塚大踏切での足止めが解消された。

1960年代から1970年代に掛けては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが、この頃は学生運動の時期と重なり、それが好成績にも影響しているとの説もある。

選手にアクシデントがあった場合には、控え選手を乗せた伴走車を前の中継所まで引き返させ、そこからの再スタートを切る方法が存在した[23]が、現在は交通への影響や選手の安全上認められていない。またこの伴走車には各校の応援団が大挙して乗り込み選手に声援を送っていたが、危険であるため河野洋平(日本陸上競技連盟会長・衆議院議長外務大臣を歴任)が廃止させた。現行のルールでは行為が発覚した時点で失格となることが考えられる。

[編集] 近年

表彰式では総合優勝校に優勝旗が授与されるが、前年優勝校が大学に置いたままにしていたためにあわてて取りに帰り、表彰式の開始時刻が遅れたことがあった。

テレビ中継が始まったころからPRの目的でユニフォームを変更する大学も見られた。戦前から出場している伝統校は、胸にアルファベット1文字のユニフォームが多く(早稲田大学の「W」、中央大学の「C」など)、新興校は校名を漢字で記載するケースが多い。また、特に日本テレビによる中継開始後に初出場を果たした大学は、色合いが派手なユニフォームを着用する傾向がある。

繰上げの襷の色が、早稲田大学の襷の色に見えるという理由で、白と黄色のツートンカラーに変わった。

第63回(1987年)には、最終10区で順天堂大学の選手が、興奮して突然飛び出してきたファンとの接触により転倒した。選手は動揺することなく走り続け、優勝のテープを切ってゴールしたが、この事件は、この年に開始されたテレビ放送の全国中継の影響によるものだとも言われている[要出典]

これまで、ごくまれに悪天候(=降雪)下で開催されたことがあるが、このために交通手段が影響を受け、選手や関係者が到着できずにあわや失格の危機に瀕した事例もある。

緊張のあまり襷をせずに走り出して、あわてて戻ってきた選手もいた。

箱根山中で箱根登山鉄道の踏切に駅伝の隊列が引っかかり、やむを得ず選手を先に行かせて関係車両が後から追い掛けるハプニングもあった。最近ではバイクカメラによる中継で選手を後ろから追うことも多くなっているが、このハプニングの際には通常は選手の正面から撮影している大型の中継車が選手の後姿を放映するという、当時としては珍しい映像が放送される事態になった。

大会を支えているのは関東学連に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される(過去には末續慎吾為末大なども走路員としてスタッフに加わった)。このことからも分かるように、箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、多くの裏方に支えられている。その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある。

前回大会でシード権を逃した大学と、次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学がすべて一致するという事態は、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回と、予選枠が9校になってからでは第82回-第83回の計3回しか起きていない。

沿道で配られる読売新聞社と報知新聞社の紙製応援小旗には、近年懸賞応募券が付いていた。これは使い終わった小旗を観客が沿道に捨てるのを防ぐための工夫であった。ちなみに2007年の懸賞は1等から8等まであり、1等は「箱根ホテル小涌園 宿泊招待券」だった。なお2010年の応援小旗は布製で、読売新聞社の小旗は読売新聞の社旗デザインが染め抜かれ、上部に「第86回箱根駅伝」と記されている。

一度大学を卒業したが「箱根を走りたい」という思いだけで有力校に再入学し、箱根を走った選手がいた。

[編集] 大会・運営そのもの以外の箱根駅伝にまつわる話

※ 報道に関するエピソードは当該節(報道に関するエピソード)を参照のこと。

第79回(2003年)では、本番間近のころ、大学近くで万引き犯を見つけた専修大学の選手が「俺は絶対に箱根駅伝を走るんだ。どこまでも追い掛けてやる」と犯人を取り押さえ逮捕に貢献。この選手は実際に本番で走ったが腹痛で区間最下位に終わった。「前を行く選手までは捕まえられなかった」と新聞のネタにされたものの、一連の善行で知名度が上がり、その本番では「沿道から名前で呼んで応援してもらえて、とても嬉しかった」と喜んだ。

2005年3月には芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として[注 7]博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。

[編集] 箱根駅伝が抱える問題

箱根駅伝は、1987年以後の全国完全生中継(日本テレビ)による人気沸騰により、多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。なおこれらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。

[編集] 過去の問題

第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった[24]。そのために他種目の選手が多用されたことは前述のとおりである。したがって、レースも10校以下で行われることが多かった。

モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった[25]。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。

[編集] 留学生

テレビの全国生中継開始とともに登場してきた山梨学院大学は、出場3年目にしてアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることができるようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。

1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。既に全国高校駅伝ニューイヤー駅伝では、外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があり、箱根駅伝においても第82回(2006年)からは、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」第9条を変更し、16名のエントリー時点では2人まで登録可能だが、実際に本番で走ることができるのは1人に限ると決められた。また、2005年秋の予選会では、エントリーは2人、出場は1人となっている。2006年以降本番で留学生を2名エントリーしたのは山梨学院大学(第85回 2009年)、日本大学(第86回 2010年)、拓殖大学(第87回 2011年・第88回 2012年)の例があり、いずれの例も、実際に本番で走ったのは1名のみで、もう1名は補欠選手となった。なお、三大大学駅伝の残り2つのうち「全日本大学駅伝」も箱根駅伝同様の人数規制があるが、「出雲駅伝」においては規制がない。

なお、白人、アジア系留学生選手として選ばれ出場した例は全くと言っていい程なく、わずかに日本育ちのフィリピン人座間マボロベネディック(後に帰化)と在日韓国人の金哲彦が木下哲彦という日本名で走ったのみである。

[編集] 途中棄権

これまでの途中棄権校

  • 第25回(1949年) - 神奈川師範(3区)
  • 第34回(1958年) - 横浜市立大(9区)
  • 第52回(1976年) - 青山学院大(10区)
  • 第71回(1995年) - 順天堂大(10区)
  • 第72回(1996年) - 神奈川大(4区)、山梨学院大(4区)=2校
  • 第77回(2001年) - 東海大(2区)
  • 第78回(2002年) - 法政大(2区)
  • 第84回(2008年) - 順天堂大(5区)、大東文化大(9区)、東海大(10区)=3校
  • 第85回(2009年) - 城西大(8区)

(以上、計10校、延べ12件)

途中棄権は1970年代までの50回以上行われた大会の中でわずか3件しか発生していなかった。しかし第71回(1995年)に19年ぶりの途中棄権が順天堂大学によりなされて以降、第85回(2009年)までの15年間で延べ9件もの途中棄権が発生している。この15年の間には同一大会での複数校による途中棄権も2度発生しており、第72回(1996年)では2校、第84回(2008年)では3校がそれぞれ途中棄権している。また早い段階での途中棄権については、第77回(2001年)では東海大学が、翌年の第78回(2002年)では法政大学がそれぞれ第2区で途中棄権している。その他にも棄権には至らないものの故障や体調不良によるブレーキの事例が例年続いている。

第84回(2008年)では順天堂大学、大東文化大学、東海大学の3校が途中棄権するという史上初の事態が生じた。同一校で通算2度目の途中棄権(順天堂大学、東海大学)も史上初であった。また、前年優勝校(83回、順天堂大学)による途中棄権は第72回(1996年)の山梨学院大学に続き2校目である。

チーム競技である駅伝の特性上、体調を崩したり故障箇所を抱えている場合であっても、選手は「襷をつなぎたい」と思うがゆえに無理を押して走行を続けようとする傾向が見られる。この場合、指揮官としても止めがたい側面もあるが、場合によっては選手生命にも影響を及ぼしかねないため、途中棄権についての判断の是非は重要課題となっている。

途中棄権を回避するには、コンディションの悪い選手のエントリーからの除外、区間エントリー時での補欠選手との交代といった方策がある。また、エントリー数が20チームに増加した第79回(2003年)からは、本番までのチームマネジメントに余裕を与えるよう配慮がなされている。しかし本番直前の時期に調整不足や体調不良であった場合でも、その選手がそれまで良い成績を記録していたりチームのまとめ役だったりすると、本人が強い責任を感じている傾向にある上、監督としてもチーム事情を考慮した上で強行出場させてしまうケースがまま散見され、途中棄権の解消には至っていない。

近年は特に、脱水症状による途中棄権や足が止まってしまうケースが増えている傾向にある。

途中棄権については「競技実施要項」において、「競技者が競技中に故障などによって走行困難となり、歩行、立ち止まり、横臥の行動に移った場合、本人がなおその競技続行の意思を持っていても、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者合意により競技を中止させる。競技の中止は競技運営委員が赤旗をあげ、走者にマイクで通告することによって示す」と規定されている。

なお途中棄権が発生した場合、以降の区間にエントリーされている当該チームの選手についてはオープン参加扱いとなり記録は非公認(参考記録)となる。第85回(2009年)では復路8区で途中棄権した城西大学の選手が9区で区間1位を上回るタイムを記録したが、参考記録扱いのため区間賞とはならなかった。ただし、かつては個人記録及び一部のチーム記録(往路で途中棄権した場合は復路のチーム記録のみ)が公認されたことがある。第72回(1996年)では往路4区で途中棄権した山梨学院大学が10区で区間賞を獲得、神奈川大学が7区と9区で区間賞を獲得している。

[編集] 駅伝偏重とインカレポイント

大学経営策の一環として、箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。そのため「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や挙句の果てには「駅伝部」を称する大学も見られる。

予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾けるため、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。

予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には、上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。

このシステムは導入時から物議を醸しており、関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残している。一方で廃止論などに対し沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論を一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。

総じて関東学連側は、見直し論については当初の予定どおり検討。第84回(2008年)の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示している。

[編集] 選抜チーム

第79回(2003年)から参加が認められるようになった選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。

第80回(2004年)では日本学連選抜としての参加だったこともあり、見事に6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多かった。

もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックから僅か2ヵ月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。

このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学もある。

選抜チームは当初はオープン参加とされ、チームとしての順位等は公式には記録されず、個人の区間成績と区間順位のみが公認されていたが、第83回(2007年)からは正式参加とされ、チーム成績が公式に記録されるようになった。これに伴い、選抜チームがシード圏内の10位以内に入った場合には、次回大会のシード校が1つ減る代わりに予選会出場枠が1つ増やされることとなった。

これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性がわずかながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。

なお、第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)については記念大会であるが日本学連選抜ではなく関東学連選抜が選抜チームとして出場している。

[編集] 門戸開放

箱根駅伝を出雲駅伝・全日本大学駅伝とともに「大学三大駅伝」と並び称する人も少なくないが、出雲駅伝と全日本大学駅伝が全国大会(主催:日本学連)なのに対し、箱根駅伝は日本学連傘下の一組織である関東学連が主催する地方大会にすぎないため、大会としての格は明らかに下である[注 8]。しかし、関東の各大学は、年間の最大の目標を箱根駅伝に置く傾向が強く[注 9]、そのため、全国大会で本来最も権威の高いはずの出雲駅伝と全日本大学駅伝を、単なる箱根駅伝の前哨戦又は調整試合という意味合いで戦い、必ずしもベストメンバーを送り込まない大学も少なくない。また、地方大会である箱根駅伝が学生駅伝最大のイベントになったことで、他の大学スポーツと同様、長距離の人材の東京一極集中が起こっている。

このほか、関東地区の地方大会がゆえに当大会の出場は原則として関東学連の加盟校に限られる一方、テレビ報道の影響により箱根駅伝が全国的に知名度が高いスポーツイベントになったことで、他地域の大学にも門戸を開くべきであるという声がしばしば発生する。

関東学連では1960年代に予選会への出場を他地域のチームに開放することを検討したことがあるが、予選会への参加を全国に開放した場合には全国大会となるため、大会の主管を日本学連へ移す必要が生じる。開催の主導権が変わることを避けたかった関東学連有力校のOBらが中心になって反対したため、結局この時の門戸開放は実現しなかった。

この動きを受けた他の学連は、関西学連・東海学連が中心になり、箱根より高い権威を持つ全国大会を創設する目的で全日本大学駅伝の創設に導いた。こうした事情があるため、関東学連は全日本大学駅伝の創設に最後まで反対。これ以降は箱根駅伝を関東以外の大学に開放しようという意見は消滅することになる。なお、2014年開催予定の第90回大会では記念大会による増枠分3枠を関東以外のチームに与えるとの報道がされているが、学連選抜としてなのか単独チームとしてなのかは明らかにされていない[注 10][注 11]

しかし近年、全日本大学駅伝の出場校が関東の大学と他地域の大学で実力差が如実に出るようになった。これは男子学生陸上競技界特有の現象であるとされる[注 12]。上位をほぼすべて関東の大学が占める一方で、地方から出場している大学が半分も行かない地点で既に繰り上げスタートになってしまう事態が発生するに至って、全日本大学駅伝の権威が著しく低下している。そのため、西日本にも箱根駅伝と並び立つ地方大会を創設しようという動きも発生している(詳細は全日本大学駅伝対校選手権大会を参照)[要出典]

文部科学省では現在でも、全国大会は、実力本位の選手権大会と、選抜大会の2つしか開催しないよう学生競技団体へ指導を行っており、箱根駅伝が国内の全大学に門戸開放されると、全国大会として運営されている出雲駅伝および全日本大学駅伝との関係が問題となる。しかし現実には箱根駅伝が、現存する日本の駅伝では最も古い歴史を持つ大会であり、知名度も高いことを勘案すると、長年にわたり主催してきた関東学連が当大会を手放すことは考えにくい。

2010年1月に行われた監督会議では、関東学連選抜枠を「廃止」もしくは「『全国』にも門戸を開く」案を含めて見直しの方向に入るとマスメディアによって報じられている[26]が、少なくとも2013年開催予定の第89回大会までは存続することが決定している[27]

[編集] 箱根駅伝不要論

従来はテレビ東京によるゴールのみの放送だったのが後述の通り1987年から日本テレビによる全国ネットでの完全生中継が始まると、大学側の宣伝・PR的な側面も見せ始め、結果的に勝負至上主義的な駅伝競走となっていった。その結果、下記のような弊害を見せ始め「不要論」として語られるようになっている。

[編集] 駅伝重視によるトラック軽視傾向

「夏季に行われる選手権マラソンは、スピード勝負ではなく耐熱勝負」と以前は言われていたが、2008年の北京オリンピックは夏季の実施でありながら超ハイペースで進行し、旧来の耐熱型マラソンの調整を行った日本勢は惨敗した。

これに対し、2004年のアテネ五輪の女子マラソンで優勝した野口みずきはかつて「ハーフマラソンの女王」と呼ばれ、野口の指導者である藤田信之は、トラックレースの活用をうまく行う指導者であった。

具体的には、20歳前後の教え子にはトラックレースで実績を積ませ、その上で能力が付いた選手に初めてマラソンにチャレンジさせている(それゆえに、藤田の指導する選手はマラソンの失敗が少ない)。また、マラソン経験を積んだ選手にもアーサー・リディアードの提唱するリディアード式のトレーニングを取り入れ、記録・順位に関係なくスピード強化のため10000mのレースに出場したり、チームで1600mリレーに出場させている。

[編集] 故障や疲労による成長の鈍化傾向

早稲田実業学校陸上部監督・武井隆次は、早稲田大学時代に箱根駅伝で4回連続の区間賞(区間新3回)を記録した。武井はインターハイで1500、5000mで2冠を獲得し大学進学後も2年生の全日本インカレで5000、10000mの2冠を達成するほどトラックで将来を嘱望されていた選手だった。

しかし高校時代からトラック、駅伝と季節を問わずフルに走り続けた影響からか、大学3年生のころからやや精彩が欠け始める。

結果、(上記のとおり)武井は4年連続で区間賞を獲得するが、実業団(ヱスビー食品)に進むも長い故障にさいなまれることとなる。そして、シニア以降の日本代表歴は、29歳の時のアジア大会・マラソンのみに留まることとなった。

武井の件は一例にすぎないが、大学卒業後に在学中から抱えていた故障が悪化した、もしくは慢性疲労による不調が就職後から長期間続くことで、才能がありながら競技者として結果を残すことができずに引退する選手が多数見られる。

[編集] 大学陸上部関係者による不祥事とその対応

大学陸上部関係者が事件や不祥事を起こした場合、各大学で相応の処分がなされるほかに、箱根駅伝参加大学に対しては競技団体である関東学連が同連盟の規約に基づき審査を行い、当事者又は所属大学に対して罰則を与えることがある(規約第62条)。

近年発覚した事件・不祥事の概要と処分
  • 2008年12月1日、85回大会(2009年)のシード校である東洋大学の陸上部員(駅伝選手)が、電車内での強制わいせつ行為で現行犯逮捕されるという事件を起こした。本大会出場大学所属の陸上部員による不祥事が発覚したのは、これが初めてのことであった。箱根駅伝本大会まで1カ月を切った時期ではあったが、東洋大学はこの問題に対する処分として、当該学生の退部処分と監督と部長の引責辞任、陸上部長距離部門のチーム練習を無期限自粛する決定をした。この対応を受けた関東学連は特別審査委員会を開き、12月5日に、東洋大学への補助金の支給停止、本大会での集団応援の禁止といった条件を付けた上で、東洋大学の出場を認める決定をした[注 13]。この決定について関東学連は、集団ではなく個人での犯罪であった点、加害者が個人的に責任を問える成人である点、合宿などチームの活動中ではない時に起きた点を挙げた上で「一部員の不祥事によって真摯に勉学とトレーニングに励んだ部員諸君がその成果を発表する機会まで失うことは誠に不憫」との見解を表明した。なお、無期限の活動自粛は12月6日に解除された(自粛期間5日間)。
  • 2009年3月2日、大麻取締法違反容疑で関東信越厚生局麻薬取締部日本体育大学の陸上部合宿所への家宅捜索及び事情聴取を行った。この家宅捜索では大麻の発見には至らなかったものの、大麻の鉢や吸引具が押収された。同日、大学が行った調査に対し、当該陸上部員(跳躍種目選手)は大麻種子の購入・栽培・大麻の吸引の事実を認めた[1]。また、この家宅捜索の際、部屋の中にあった紙幣のコピーが発見され(紙幣偽造)、同室の陸上部員1名がその後通貨及証券模造取締法違反で書類送検された。この一連の不祥事に対し日本体育大学は、3月5日付けで大麻に関わった学生を退学処分、陸上部の部長、監督、コーチをそれぞれ解任、陸上部の10日間活動停止、跳躍種目の男子学生46人の無期限活動停止処分を決定した。また、4月に入ってから、陸上部の4月末までの活動自粛などの方針を追加決定した。ただし大学は、週刊誌による報道がされるまで事実関係を関東学連に報告していなかった。また、陸上部全体への活動停止処分については、試合日程を考慮し当初の10日間の処分を短縮した上で、陸上部員(長距離種目選手)を3月8日の大会に出場させていた。このような経緯を受けた関東学連の特別審査委員会は「合宿所での反社会的行為は極めて重大」として、4月17日、日本体育大学陸上部全体の6月末までの大会出場停止、箱根駅伝の次大会シード権の剥奪、出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝への推薦取消、関東インカレの2部降格、といった処分を決定した。この処分に対して、日本体育大学側は当初、事件と無関係の女子部員を含めた部全体の連帯責任とした処分内容や処分内容の根拠が不明などとして反発し、関東学連に対して質問状を出すに至った[2]が、その後の学連の処分は妥当との見解を受け、最終的には処分を受け入れた。なお、次大会のシード権が剥奪されたのは箱根駅伝史上初めてのことである。

[編集] キーワード

[編集] 花の2区

2006年の第82回大会で小田原中継所の位置が変更(これにより5区が最長となった)されるまでは、1961年の第37回大会以降、23.2kmと最長距離区間で、各校がエース級の選手を走らせることからこう呼ばれている。また区間内に東海道五十三次で江戸を出て最初の難所として知られる権太坂[28]があることなど、地形的にも走りづらい区間といえる。山梨学院大学日本大学などはこの区間に留学生を当てることが多い。

[編集] 紫紺対決

ユニフォームが白地に紫(実況では藤色)のラインが入った駒澤大学と、紺色の順天堂大学が激しい優勝争いを繰り広げていた2000年前後に使われていた言葉。1999年から2008年までは、亜細亜大学が優勝した2006年を除き、駒澤大学、順天堂大学のいずれかが制している。駒澤のコーチ陣は、当時の常勝順天堂のコーチ陣で、師弟対決であるためこの言葉が誕生したとも言われている。

[編集] 山の神

2005年の第81回大会で5区を担当した順天堂大学の今井正人が山上りで11人抜きを達成した際に、実況で「山の神が降臨しました」と言われた。 これは当時同じ5区を担当した日本体育大学の北村聡が、「今井さんは神様のような存在です」と言ったことに由来する。 今井は3年間、山上りの5区を担当し2年目以降は「山の神・今井」という言葉で常に紹介された。

その後、2009年の第85回大会で5区を担当した東洋大学の柏原竜二が今井の記録を破る区間新を達成した際には、実況で「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われた。さらに2010年の第86回大会で柏原は7位で襷を受けた後、自己記録を10秒縮め2位に3分38秒差を付ける快走を見せ「新・山の神」と言われ、紙面などではその名前と箱根芦ノ湖にちなみ「竜神」とも表された。今井・柏原共に福島県浜通り地方(今井は南相馬市、柏原はいわき市)の出身である。

[編集] 繰上げスタート

箱根駅伝の特徴のひとつに、「繰上げスタート」といわれるものがある。これは、一定の時間(往路の鶴見戸塚は1位の学校からみて10分後、他は20分後)を経過した場合、現在走っている走者の到着を待たずに次の走者のスタートを行うというもの。繰上げスタート校は主催者が用意した専用のたすきを用意して走る(但し往路5区・復路10区は母校のたすきでゴールできるようにと、それぞれの学校が用意した予備のたすきで走行する場合がある)ためそれまで走っていた選手らにとっては自らの学校のたすきを渡せなかったという悔しさがにじみ出る瞬間であるといわれる。1969年には往路2区での繰り上げスタートも出ている。

(出典)日本大学駅伝ホームページ

[編集] もう一つの箱根駅伝

箱根駅伝復路の翌日から2日間、出場した大学の学生たちなどがゴミ拾いして同じコースをもう一度歩く。1998年に神奈川大学のウォーキング活動を復活させる動きがきっかけとなり、2006年に「大学対抗・ゴミ拾い」の形式でリニューアルされた。

日程は往路の5区間を2日に分けて行い、1日目が東京・大手町から神奈川・平塚までの3区間。2日目は平塚 - 箱根の2区間をゴミ拾いしながら歩く。順位は1袋10Pで半分だと5P。到着時間は最後のチームを基準とし、1分早いごとに1Pが加算される。

チーム人数は原則5人だが、5人集まらない限り3人1チームで参加が認められる。

当初は大学のみだったが現在は一般の参加も可能となり箱根駅伝に出場できない女性や社会人、海外からのチームも参加している。

2011年に「もう一つの東海道駅伝」と名称を改め、京都・三条大橋までのゴミ拾い駅伝を実施。東京−神奈川間以外に活動を広げた[29]

なお日本テレビが放送している当大会の事後番組「もうひとつの箱根駅伝」とは無関係である。

[編集] コースへのお辞儀

走者によっては、たすきを次走者へ渡したあと、コースへお辞儀をする選手がいる。これは箱根駅伝へ出場でき、無事に走れたことへの感謝を示す行為で戦前から行われている習慣である[30]。従来は個人的な行為であり、チーム全体としては行われてこなかったが、2009年に東洋大学が優勝した際、前年に元部員による不祥事があったにもかかわらず関係者の配慮などで出場できたこと、そして沿道で暖かい声援を送ってくれた全ての観衆へのお礼として自粛した胴上げのかわりに行われた。東洋大学は2010年、2012年に総合優勝した際も胴上げの前にまずコースに向かって監督・コーチ・選手全員で御礼をした後に胴上げをしている[31][32]

[編集] 大会運営

[編集] 主催

  • 関東学生陸上競技連盟

[編集] 共催

[編集] 後援

(本選・予選共通)

(予選会のみ)

[編集] 特別協賛

新法人になってからは、ゼッケンの特別協賛のサッポロビールのマークが変わった(サッポロビール→SAPPORO)

[編集] 協賛

[編集] 運営協力

(予選・本選共通)

  • 社団法人東京陸上競技協会

(本選のみ)

(予選会のみ)

[編集] その他協力

  • 警視庁神奈川県警察 選手の先導及び安全確保任務のため選抜された白バイ隊員は、このために事前に特別訓練を行なって本番に臨んでいる。
    • 大手町 - 六郷橋:警視庁第1方面交通機動隊(先導担当は各方面隊から特に選抜された隊員が担当)
    • 六郷橋 - 芦ノ湖:神奈川県警第一交通機動隊
    • 2012年大会10区では、かつて箱根を走った日大陸上部OB(第9方面隊所属、1年次に7区で区間賞、4年次に主将を務め総合4位に貢献)が先導を担当するというエピソードが生まれた[33]
  • ウェザーニューズ 気象面で運営をバックアップしている。具体的には、各中継地点で、気象情報を収集し、主催者や日本テレビに報告、大会運営や実況中継コメントなどで活用されている。2010年からはテレビ中継の各中継地点の気象情報表示時に「気象情報 ウェザーニューズ」のクレジットが表示されている。
  • NTT湯河原データセンター NTT東日本神奈川支店により運営されている。旧NTT神奈川支店時代より、日本テレビ制作における箱根駅伝中継のテレビ中継本部が置かれている。

[編集] 運営管理車の変遷

09年・10年と大会本部車に起用されたホンダ・FCXクラリティ
2012年大会に運営車両として導入されたトヨタ・プリウスα

2003年まで三菱自動車が運営車両を提供していた。2004年から2010年まではホンダが運営車両を提供した。同時に燃料電池自動車の公道走行試験の為、同社のFCX[34]および後継車種のFCXクラリティが先導車・大会本部車に起用された。但しホンダはトラックバスを製造していない為、同時期に、トヨタ自動車も報道カメラ車としてハイブリッド・ディーゼルトラックダイナハイブリッドを提供している。ホンダが2013年まで車両提供契約を締結していたが、2011年・2012年とトヨタが運営車両全て(全車両ハイブリッドカー)を提供しており[35]、両社のハイブリッドカーPR競争激化にも繋がっている。

[編集] 報道・中継・広報について

[編集] 雑誌

現在陸上競技を取り扱う専門雑誌はベースボール・マガジン社の「陸上競技マガジン」と、陸上競技社の「月刊陸上競技」(発行は講談社と共同)の2種類がある。

このうち前者が上記の問題を比較的多く取り上げるのに対して、後者は、箱根駅伝そのものは予想なども専門的であるが、一連の問題は取り扱うものの、余り深いところまでは書かない傾向にある。これは後者が箱根駅伝を主催する関東学連とも繋がりが深く、大会協力として当大会に参加しているためでもある。

ただ、「月刊陸上競技」の編集長はたびたび留学生制度に対して苦言を呈していることもある。

なお箱根駅伝の観戦ガイドブックは上記2誌の増刊号として発売されているほか、読売新聞社からも発売されている(ただし、公式ガイドブックとなっているのは協力している陸上競技社発行のものであって、共催である読売新聞社のものは公式ではないことに注意を要する)。

[編集] テレビ中継

[編集] テレビ東京制作

東京箱根間往復大学駅伝競走
中継
ジャンル スポーツ中継
放送時間
放送期間 1979年1月3日 - 1986年
放送国 日本の旗 日本
制作局 テレビ東京
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第55回(1979年)からテレビ東京が初めてのテレビ放送を開始した。しかし完全中継でなく、1月3日 12:00~13:54の録画ダイジェスト放送(ゴールは生放送)であった。その後、日本テレビが中継することに伴い終了した。

[編集] 日本テレビ制作

第63回(1987年)から日本テレビが後援に入り、全国ネットの本格的なテレビ中継が開始。第73~76回(1997年~2000年)はCS★日テレでも同時放送された。

現在、沖縄県など系列局がない地域、あるいはクロスネット局などのため完全放送できない地域への配慮としての衛星放送の中継はBS日テレで当日に、また日テレG+でも大会終了数日後にそれぞれ3時間程度にまとめたダイジェスト版を放送している。

[編集] ラジオ中継

ラジオでの中継はテレビでの中継よりも古くから行われ、複数の放送局が中継を行っている(テレビ中継も行っている局はテレビ中継放送ネット局参照)。以下に制作局の体制や概要について記述する。ラジオ中継の実況用の映像はNTVが制作、テレビ放送用とは別に各局に送っている。

[編集] NHKラジオ制作

東京箱根間往復大学駅伝競走
ジャンル スポーツ中継
放送方式 生放送
放送時間 毎年1月2日 - 1月3日
放送局 NHKラジオ第1
公式サイト 公式サイト
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NHKラジオ第1で放送。ただし、毎正時の前後にはNHKニュース放送のため、数分程度中継が中断する。基本はラジオセンター131スタジオ内のブースに置かれているモニターに映し出されるNTVの映像を見ながら実況を行うが、各拠点にアナウンサーを配置し、携帯電話リポートで臨場感のある実況中継を行う。コースにNHKのラジオ中継車がテレビ取材用報道カメラ車、NTVのテレビ中継車などに混じり、選手の動向を追っている。なお、テレビ取材用報道カメラ車はNTV移動1号車の後に、ラジオ中継車は3位走行中の選手前後に付く。

なお、NHKワールド・ラジオ日本では放送権上の制約および電波運用面の都合上、12時台の中断ニュースを除いて同時放送せず、当該時間帯はFM放送の邦楽関連の年始特集番組や定時番組および地上デジタルラジオ実用化試験放送の音楽番組を中心に別番組へ差し替える。

[編集] 文化放送制作

東京箱根間往復大学駅伝競走
ジャンル スポーツ中継
放送方式 生放送
放送時間 毎年1月2日 - 1月3日
放送局 文化放送
公式サイト 公式サイト
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NRN加盟局で放送。ただしネット局は基本的に8:30・9:00から中継を開始し、更に一部の局では別番組を放送するため、中継が長時間中断する(11:00飛び降り、12:30(13:00)飛び乗りなど)。ラジオ中継車を出していないためNTVの映像(いわゆるオフチューブ)を見ながら実況を行うが、各拠点にアナウンサーを配置し実況中継を行う。以下は2010年のネット局(10:00以降に中継を開始する局は併記)。ただし、諸事情からテレビで放送される放送局とは異なる場合あり。

[編集] ラジオ日本制作

東京箱根間往復大学駅伝競走
ジャンル スポーツ中継
放送方式 生放送
放送時間 毎年1月2日 - 1月3日
放送局 ラジオ日本
公式サイト 公式サイト
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ラジオ日本日本テレビグループで、コースに当たる神奈川県を放送対象地域とするラジオ局。いわゆる独立局だが、文化放送とエリアが重複する北関東のNRN加盟局や一部のコミュニティFM局でも放送。エリア内という事で極め細かく交通情報を流すのが特徴。中継車を出していないため、NTVの映像を見ながら実況を行う。ただしスタート・ゴール、各中継所はリポーターが現場で実況する。ネット局は以下のとおり。

3局ともインターネットラジオを通じて、国内はもとより海外でも聴取できる(NHKラジオ制作は日本国内のみ)[注 14]

[編集] 報道に関するエピソード

※日本テレビ制作の中継番組に限定された部分に関する内容については『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』の記事を参照のこと。

  • かつてラジオ中継しか行われなかった時代は関東地方、特にコースとなる東海道沿線地域のお正月の風物詩とでもいうような非常にローカルな大会だった。しかしテレビ中継開始(特に日本テレビの完全中継開始)以降、知名度は一気に広がり、年末年始という大型番組が乱立する激戦区の中で常に高い視聴率をマークしている。放送時間も5時間と長いにも関わらず平均視聴率が25%以上を記録する年も多い。今や沿道の観衆は警察の発表では片道だけで50万人を数える。
  • ある年[いつ?]の2区で大ブレーキを起こして倒れ込みながら襷リレー。倒れたランナーを追っていたカメラマンに向かって「撮ってんじゃねえよ!」とファンが怒鳴るシーンが放送されるなど、いかにも生放送ゆえのハプニングが何回か起こっている。
  • 8区の茅ヶ崎市付近では元日本テレビアナウンサー徳光和夫が毎年選手に声援を送っており、その声援を聴いたり姿を探す選手がいるほどである[注 15]
  • スタート・ゴール地点や各中継所付近では出場校のスポーツ記者が自校の大学新聞(学生新聞)を配布していることがあるが、主催者は大手町の特設ブースを除いて、コース沿道全域での大学新聞の配布を禁止している。

[編集] 脚注

[編集] 注釈

  1. ^ 箱根駅伝に既に出場権を得ている大学以外から選抜
  2. ^ 以前はこのような出場資格はなかったが、参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことから、このような資格が設けられた。
  3. ^ 同一区間内で複数校が途中棄権したのも大会史上初。
  4. ^ 上武大学の所属選手としては過去に選抜チームの一員として出場経験有り。
  5. ^ 但し、前年で同じ陸上競技部員の痴漢による不祥事により、例年恒例となっていた監督胴上げは自粛。
  6. ^ 京急空港線内は線内折り返しの普通列車のみ運行されるが、列車の通過にある程度の時間確保が必要なため(片方通過で約1分半、両方通過で約3分)、鶴見中継所と雑色駅付近に京浜急行の社員を配備し、その情報とテレビ中継を基に踏切付近に設置した特設本部で列車の運行と踏切閉鎖を判断する。
  7. ^ 例えばプロ野球日本シリーズオールスターゲームサッカー天皇杯、あるいは中央競馬における東京優駿(日本ダービー)というカテゴリーとして。
  8. ^ 陸上競技マガジン及び月刊陸上競技が毎年2月号あたりで載せている次年度の主要大会日程表にも、日本陸連が主催又は後援の大会、及びその協力団体の主催大会しか記載されておらず、箱根駅伝の名前はない。
  9. ^ 大学側にとっても、2日間のレースをテレビで完全生中継する箱根駅伝の方が、もしレースの間中トップを走り続ければ、その大学の名前は一日中テレビに映り続けるため、宣伝効果が高いという事情がある。
  10. ^ 2009年1月3日スポーツニッポン記事より。
  11. ^ 2009年1月3日日刊スポーツ記事より。
  12. ^ 学生駅伝競技界における有力校の勢力分布については、例えば女子駅伝では関東地区/関西地区/東海地区にバランスよく優勝候補が存在している。
  13. ^ 正確には「箱根駅伝への出場を制限しない」とする決定である。
  14. ^ NHKラジオは「NHKネットラジオ らじる★らじる」を利用して日本国内向けに、文化放送は番組HPでのBBQRを利用した配信を通じて、ラジオ日本はUstreamを利用して放送を実施。また、文化放送制作をネットする文化放送・北海道放送・IBC岩手放送・東北放送・中部日本放送・朝日放送・中国放送・九州朝日放送および、ラジオ日本制作をネットするラジオ日本・茨城放送・ラジオ関西ではradikoによる配信(IBC岩手放送・東北放送・茨城放送は「復興支援プロジェクト」を通じて日本全国に向け、その他の局はradikoでの配信地域向け)を実施(2012年の第88回大会での放送実績)。
  15. ^ ちなみにその模様は駅伝終了後の翌週の『THE・サンデー』で放映されていたが、同番組が『THE・サンデー NEXT』にリニューアルした2009年はスタジオでのコメントで触れられたのみで、映像はなかった。

[編集] 出典

  1. ^ 箱根駅伝とは -概要-
  2. ^ a b c 読売新聞東京本社は千代田区大手町の社屋建て替えのため、2010年9月から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルに一時移転している(読売新聞 一時移転のおしらせ)。
  3. ^ 但し沖縄県では生中継がない関係なのか、実業団駅伝の方が人気が高いと言われている
  4. ^ 箱根駅伝公式Webサイト (2008-09-02), “第85回東京箱根間往復大学駅伝競走出場枠数の増加について”, プレスリリース, http://www.hakone-ekiden.jp/topics/detail.php?newsID=166 2010年1月1日閲覧。 
  5. ^ “2009年箱根駅伝、過去最多の23校出場”. 読売新聞. (2008年9月2日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20080902-OYT1T00558.htm 2008年9月2日閲覧。 
  6. ^ 武田薫 『オリンピック全体会 人と時代と夢の物語』 朝日新聞社、2008年。ISBN 978 4-02-259938-4
  7. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.30.
  8. ^ 箱根駅伝記録館 http://sports.geocities.jp/hakone_ekiden_kiroku/
  9. ^ 箱根駅伝の記録 http://www13.plala.or.jp/jwmiurat/
  10. ^ 箱根駅伝公式サイトでの過去の記述より引用トピックス「第85回東京箱根間往復大学駅伝競走出場枠数の増加について」(2008年09月02日)
  11. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.58.
  12. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.84.
  13. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.2.およびp.188.
  14. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.195.
  15. ^ 第86回箱根駅伝コースマップ - 日本テレビ
  16. ^ 「箱根駅伝“難所”の踏切、12年度に姿消す」2009年12月23日付読売新聞
  17. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.59.
  18. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.140.
  19. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.84.
  20. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.50.およびpp.270-271.
  21. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)p.45.
  22. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.165-166.
  23. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.28-29.
  24. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.45-46.
  25. ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.583-585.
  26. ^ 「山上り」5区、距離変更せず 学連選抜は見直しも - 47NEWS 2010年1月18日
  27. ^ 読売新聞2011年2月25日記事より。
  28. ^ 東海道 保土ケ谷宿:権太坂と境木(武蔵と相模の国境)”. 横浜市保土ヶ谷区役所. 2012年1月12日閲覧。
  29. ^ http://another-project.com/ekiden.html
  30. ^ 新聞の報道やNHKの録画VTRなどにも記録されている
  31. ^ 総合優勝ではない場合、混雑防止などもあってチーム全員がゴールスペースにいることはほぼないため、チーム全員でお辞儀をすることは出来ない。
  32. ^ 2011年は優勝した早稲田大学と2位東洋大学の時間差が21秒と極めて近かったため、ゴールしてから胴上げまでの間、中継が東洋大学の走者に向いており、早稲田大学がチームとしてコースへお辞儀をしたかどうかは未確認。
  33. ^ 箱根駅伝、今度は白バイで…日大OBの巡査部長 読売新聞 2011年12月27日14時31分
  34. ^ 燃料電池車「FCX」、第80回東京箱根間往復大学駅伝競走で大会本部車として走行 本田技研工業 四輪製品ニュース 2003年12月10日
  35. ^ http://www.j-cast.com/2008/02/15016589.html
[ヘルプ]

[編集] 参考文献

  • 『箱根駅伝70年史』 関東学生陸上競技連盟、1989年。
  • 『栄光を讃えて 箱根駅伝80回大会記念誌』 関東学生陸上競技連盟、2004年。
  • 黒木亮(金山雅之)著 『冬の喝采』 講談社、2008年。ISBN 978-4062150415 - 中村清監督時代の箱根駅伝に向けての早稲田大学競走部のトレーニング描写・瀬古利彦のエピソード、中村清の人物像に詳しい
  • 島田輝男 『日本列島駅伝史』 陸上競技社、1987年。
  • 箱根駅伝を10倍面白くみる本 日本テレビ箱根駅伝プロジェクトチーム、1995年。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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