渡辺康幸
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渡辺康幸(わたなべ やすゆき、1973年6月8日 - )は、千葉県出身の日本の元陸上競技選手。専門は長距離種目。船橋市立船橋高等学校、早稲田大学卒業。身長176cm体重59kg(現役時代)。
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[編集] 略歴・人物
現早稲田大学競走部駅伝監督。2008年の第84回箱根駅伝では往路優勝を12年ぶりに果たし、総合準優勝へと導いた。
[編集] 高校時代まで
出身小学校は千葉市立畑小学校。1年の2学期より八千代市八千代台小学校から転入した。小学校のマラソン大会では6年連続1位。小学校6年の秋に行われた千葉市の小学校陸上大会では1000mで2位になり、記録は3分17秒だった。千葉市立花園中学校に進学、中学校3年の時に第1回国際千葉駅伝が開催され母校の花園中学校や渡辺の実家の前をアンカーで、後に師となる瀬古利彦(エスビー食品)が駆け抜けた。これは瀬古の引退レースでもあった。上下動の少ない滑らかなフォームと、引退レースとは思えない力強さが、目に焼き付き、その走る姿を生で見て『自分も頑張ってみよう』と思わずにはいられなかったという。
駅伝の強豪校で自分の力を試したいと思い、また、当時船橋市立船橋高等学校陸上部コーチであった渡辺敏彦、小出義雄から誘いもあって、私大の付属高への推薦入学を勧める両親を説得し、1989年に同校普通科を一般受験し進学した。
高校時代は、連日、30キロの走り込みをこなして頭角を現し、全国高等学校駅伝競走大会(京都・都大路)に1年時(1989年)から3年連続出場。2年時(1990年)からは2年連続で各校のエースが集う花の1区(10.0km)を走り2年連続区間賞を獲得。[1]2年時(1990年)は29分42秒で区間新記録。3年時(1991年)は気象条件の悪さや、7km過ぎで腹痛を起こすなどが重なったにもかかわらず、29分34秒と前年に自らの打ち出した区間記録をさらに更新した。また、都大路前の関東大会1区では高校生ランナー初の28分57秒(10.0km)を記録している。高校2年時から高校長距離界では無敵を誇り、10000m は29分42秒68で国体に優勝した。そして3年時にはインターハイ5000mを14分18秒08で、1500mも3分51秒24で制した。更に国体10000mも29分11秒59で優勝している。
高校3年の秋には、当時の10000mの高校記録となる28分35秒8を記録(それまでの記録は櫛部静二の29分11秒3)を残し、早稲田大学に進学した。[2][3]
[編集] 大学時代
早稲田大学競走部時代は東京箱根間往復大学駅伝競走大会に1年から4年連続出場し、激走のドラマを幾つも演じ、「箱根駅伝のスーパースター」になった。1年時は(1993年)、当時、「早大の三羽烏」との呼び名で学生長距離界に旋風を巻き起こしていた2年先輩の武井隆次、櫛部静二、花田勝彦(当時3年)らを押しのけて、各校のエースが集う花の2区(23.2km)に大抜擢。結果は1時間8分48秒で区間2位。区間賞は、1時間8分26秒で、ライバルのステファン・マヤカ(山梨学院大学)であったが、スーパールーキーの名に恥じない走りを見せた。[4]2年時(1994年)には花の2区を先輩の花田(当時4年)に譲りはしたが、1年時よりさらに進化した走りで、1区(21.4km)の区間新記録を達成[5]した。2年時の早稲田大学競走部は、第70回箱根駅伝では総合優勝した山梨学院大学に敗れたものの(総合2位)武井・櫛部・花田(当時4年)、小林正幹(当時3年)、小林雅幸(当時1年)らを擁しており、優秀なチームメート、練習環境に恵まれていた。3年時(1995年)には再び花の2区に戻り区間賞(区間新記録)を獲得。これは史上初の1時間6分台(1時間6分48秒)であり、マヤカも及ばない記録(マヤカは1時間7分20秒で区間新記録で区間2位)であり、2区渡辺、3区(21.5km)小林正(1時間2分49秒)、4区(21.0km)小林雅(1時間1分35秒)の3区間の3人が区間記録を達成。早稲田大学2年ぶりの往路優勝、往路新記録を達成したが、総合優勝は山梨学院大学だった。[6]。4年時にも花の2区を走り[7]と3年連続区間賞を獲得して天才ランナーの名をほしいままにし、伝説の名ランナー、これまでの学生史上最高のランナーと言わしめた。
3年時には、かつて瀬古が務めた国際千葉駅伝のアンカーの大役をこなして区間賞も取った。
4年時の1995年第27回全日本大学駅伝対校選手権大会では、中央大学との1分31秒という大差を松田和宏とのアンカー勝負[8]で優勝している。
トラックでも、10000mでは世界選手権予選(1995年8月)で17年ぶりに瀬古利彦の学生記録を更新(27分48秒55)し、9月の福岡ユニバーシアードでは金メダルを獲得している。5000mでは日本インカレを1994年・1995年と制している。
[編集] 社会人時代
大学卒業後はヱスビー食品に入社。1996年には初めてのフルマラソンとなるびわ湖毎日マラソンに出場するも2時間12分台でアトランタオリンピックマラソン代表には選出されなかった。その後日本選手権10000m五輪予選会で27分51秒97の3着となり、アトランタ五輪男子長距離トラック(10000m)代表に選出された。しかしアトランタ五輪本番レースではアキレス腱痛により直前で出場を回避、晴れの五輪の舞台にはスタートラインさえ立つ事が出来なかった。その後この故障の回復が長引いて、レースに出られない状態が続いた。
1998年には、ニューイヤー駅伝の7区(16.4km)で、高岡寿成らを破り、47分15秒で区間賞(区間新記録)を獲得したが、エスビー食品は旭化成に敗れ準優勝だった。また、再起をかけ福岡国際マラソンに出場するも33キロ過ぎで無念の途中棄権となった。その後も2000年のシドニーオリンピック代表にはマラソン、長距離トラック共に故障再発の為、国内選考会へも出場出来なかった。
大器として期待されたが、7年間で7度という慢性的なアキレス腱の故障などによって2002年9月9日に引退した。引退に際して「一度、本当にいい状態でマラソンを走りたかった。」とその心情を吐露している。
[編集] 指導者として
引退後はエスビー食品から母校・早稲田大学へ出向し、競走部コーチ、2004年から駅伝監督に就任(現在もエスビー食品在籍)。
恩師の瀬古からは「苦労するだけだ」と反対されたが、「この子たちをほっとけません」と、初めて恩師に背いた。多くの期待を背負いながら、監督として思うような結果を残せない日々が続いたが、2007年の第83回箱根駅伝では同大学として5年ぶりのシード権を獲得(総合6位)した。そして2008年の第84回箱根駅伝では自身が果たした往路優勝を12年ぶりに果たし、総合準優勝へと導いた。
渡辺康幸監督並びに早大競走部応援ファンクラブ(WESC 早稲田大学駅伝サポート倶楽部)がある。 2008年3月にテレビユー福島のアナウンサー、北條愁子と入籍。
早稲田大学競走部は2008年4月、渡辺の教え子で北京オリンピックを目指す学生長距離界のエース竹澤健介が駅伝主将に就任し、男子マラソンの名選手で瀬古のライバルだった中山竹通の長男・卓也(須磨学園高等学校)らスーパールーキーが入学した。「監督としてチャンスをモノにしたい。竹澤を北京の代表にして、箱根では2008年に優勝した駒沢大学を倒して総合優勝を目指す。」と、力強く語った。その後、竹澤は渡辺の公言通りに、同年8月の北京オリンピックの長距離代表(5000m&10000m)となった。
現在、現役時に比べて20kg程度太っているという。
[編集] 主な戦績
- 1990年 全国高校駅伝 1区(10.0km) 区間賞 29分42秒
- 1991年 全国高校駅伝 1区(10.0km) 区間賞 29分34秒
- 1992年 全日本大学駅伝 2区(13.2km) 区間2位 38分51秒
- 1993年 第69回箱根駅伝 2区(23.2km) 区間2位 1時間8分48秒
- 1993年 出雲駅伝 2区(7.7km) 区間賞 21分57秒
- 1993年 全日本大学駅伝 1区(14.6km) 区間賞 43分02秒
- 1994年 第70回箱根駅伝 1区(21.4km) 区間賞(区間新記録) 1時間1分13秒
- 1994年 青梅マラソン(30.0km) 優勝 1時間31分22秒
- 1994年 出雲駅伝 6区(11.3km) 区間2位 33分01秒
- 1994年 全日本大学駅伝 8区(19.7km) 区間賞(区間新記録) 57分19秒
- 1994年 国際千葉駅伝 5区(12.195km) 区間賞 35分20秒
- 1995年 第71回箱根駅伝 2区(23.2km) 区間賞(区間新記録) 1時間6分48秒
- 1995年 神戸リレーカーニバル 10000m走 優勝 28分3秒37
- 1995年 福岡ユニバーシアード 10000m走 金メダル 28分47秒48
- 1995年 出雲駅伝 6区(11.3km) 区間2位 32分39秒
- 1995年 全日本大学駅伝 8区(19.7km) 区間賞(区間新記録) 56分59秒
- 1996年 第72回箱根駅伝 2区(23.2km) 区間賞 1時間6分54秒
- 1996年 びわ湖毎日マラソン 7位 2時間12分39秒
- 1996年 神戸リレーカーニバル 10000m走 優勝 27分55秒86
- 1998年 ニューイヤー駅伝 7区(16.4km) 区間賞(区間新記録) 47分15秒
- 1999年 ニューイヤー駅伝 3区(13.7km) 区間4位 38分08秒
- 2000年 ニューイヤー駅伝 3区(13.7km) 区間3位 38分09秒
[編集] 記録
[編集] 自己ベスト
[編集] 現在も残っている歴代上位記録
- 5000m 13分26秒53(1994年)※学生歴代5位・千葉県記録
- 10000m 28分35秒8(1991年)※高校歴代4位
- 10000m 27分48秒55(1995年)※日本人学生歴代2位・千葉県記録
[編集] 著書
- 「自ら育つ力 早稲田駅伝チーム復活への道」(2008年12月、日本能率協会マネジメントセンター)
[編集] 脚注
- ^ 花の1区の連覇は30年ぶり史上4人目。
- ^ 「当時エスビー食品陸上部監督で早稲田大学競走部のコーチを兼務していた瀬古利彦からも武井、櫛部、花田が10年に一人の逸材なら、渡辺は20年に一人の逸材」とまで言い、自宅を訪れ「君なら世界を目指せる。ぜひうちのチームに」と誘った。
- ^ 尚、全国高等学校駅伝の各校のエースが集う花の1区で、1989年(29分49秒)の武井隆次、1990年(29分42秒)、1991年(29分34秒)の渡辺、1992年(29分55秒)の小林雅幸と、4年連続、(3人)の区間賞獲得者が早稲田大学競走部に進学し、箱根駅伝でも3人とも区間賞(区間新記録)を獲得し、高校、大学と学生長距離界を引っ張った。
- ^ 箱根駅伝、早稲田大学 7年ぶりの往路優勝、8年ぶりの総合優勝に貢献した。
- ^ 1時間1分13秒というハーフマラソンの日本記録を上回るとてつもない記録であったが、13年後の2007年に東海大学の佐藤悠基が7秒更新し、渡辺が大学時代に達成した駅伝での数々の区間記録が全部破られた瞬間でもあった。
- ^ この記録は4年後の1999年順天堂大学三代直樹が2秒更新し、現在の記録保持者は2008年に1時間6分23秒、2009年に1時間6分4秒で走った 山梨学院大学、メクボ・ジョブ・モグス
- ^ 記録は1時間6分54秒。2009年現在、2区で1時間6分台を2度出した日本人選手は渡辺以外に未だおらず、(外国人選手と併せると二人、渡辺とモグス)翌月に東京国際マラソンにもエントリーしていたことを考慮すると、前年の記録以上に価値のあるものであるという声もあった。
- ^ 8区、19.7kmで見事逆転、区間賞(当時の区間新記録56分59秒)、この記録は、2006年、山梨学院大学のメクボ・ジョブ・モグスが28秒更新、現在の記録も2007年モグスで、55分32秒。
[編集] 関連項目
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