溝尾茂朝

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溝尾 茂朝(みぞお しげとも、天文7年(1538年[要出典] - 天正10年6月13日1582年7月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。明智光秀の朝倉家臣時代から仕えてずっと付き従い、信長の下で光秀が権勢者となると重臣となり死没地にも同行する。姓は「三沢」も使用され発音は「みさわ」の説がある[1]。通称は小兵衛、昌兵衛、惣兵衛、勝兵衛、庄兵衛。明智光秀から[明智」姓の使用を許されていた。

経歴[編集]

1568年永禄11年7月10日『細川家記』に光秀が足利義昭と織田信長を仲介する際の光秀の家人「溝尾庄兵衛」として史料に初めて登場する[2]。1573年天正元年朝倉氏滅亡後に8月から9月まで明智光秀と羽柴秀吉と滝川一益が占領行政を担当していたが、9月末から「三沢小兵衛秀次」、木下祐久津田元嘉の3人がそれぞれ代官として引き継ぎ、越前国北ノ庄の朝倉景行の旧館で業務をして「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(『朝倉始末記』)と呼ばれ、10月1日には称名寺に領地の安堵状を出している(称名寺文書)。1574年天正2年1月に越前一向一揆が起こり守護前波吉継を殺し、次に一揆勢は21日に3人衆を攻めたが、安居景健朝倉景胤の仲裁で、逃れて京都へ戻る。[3][4]1575年天正3年からの光秀の丹波攻めに従軍する。1576年天正4年2月に丹波攻めの途中で国人の中台、曽根の2名に重臣「三沢惣兵衛尉秀儀」として「万雑公事」を免除している[1]。1579年天正7年4月の光秀書状には「小兵衛」を「明智」としており明智の名字を使用していた[5]天正10年(1582年)5月には、接待役となった光秀に従って徳川家康の接待の指揮に参加したと言われる。1682年天正10年本能寺の変で『信長公記』池田家本の重臣合議の場に参加しており信長を討つことを賛成した。なお、他の自筆『信長公記』では4重臣のみで池田家本では太田牛一の自筆で「三沢昌兵衛」が加筆挿入されている[1][6]。同年本能寺の変後の山崎の戦いに参加したが、敗れて光秀と坂本城へ落ち延びようする。しかし、光秀が落ち武者狩りの百姓によって致命傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めた。そして光秀の首を持ち帰ろうとしたが、再び落ち武者狩りに見つかり首を竹藪の溝に隠すと坂本城へ落ち城で自害した。またその場で自害して果てたとも言われる。享年45[要出典]。光秀の首は百姓に見つかり翌日、織田信孝に差し出された(兼見卿記)。[7]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.208・210 2014年 洋泉社歴史新書y
  2. ^ 『明智光秀』高柳光寿 P.6 1958年 吉川弘文館
  3. ^ 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』藤本正行 P.221・222 2010年 洋泉社歴史新書y
  4. ^ 『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」信長の本知安堵北庄三人衆長俊の滅亡「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧
  5. ^ 〈和田弥十郎宛光秀書状「下条文書」〉『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.210 2014年 洋泉社歴史新書y
  6. ^ フロイス『イエズス会士日本通信』では4人。『当代記』では5人。
  7. ^ 18日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている。「浅野家文書」『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.202-207 2014年 洋泉社歴史新書y

関連項目[編集]

関連作品[編集]