溝尾茂朝

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溝尾 茂朝(みぞお しげとも、天文7年(1538年) - 天正10年6月13日1582年7月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。通称は勝兵衛また庄兵衛。明智茂朝とも。

明智光秀が織田信長に仕える以前から、光秀の家臣として仕えていたといわれる。光秀の側近として常に補佐役を務め、天正10年(1582年)5月には、光秀に従って徳川家康の接待役を務めた。本能寺の変でも信長を討つことを賛成したという。同年の山崎の戦いにも参加し、一番の中備を務めたが、敗れて光秀と逃走する。しかし遺憾なことに、光秀が百姓によって重傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めることとなる。そして光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自害して果てた。享年45。

なお、第二次世界大戦前の参謀本部の記録によると、「長年の功績による」明智氏の姓を名乗る事を信長の許可の上で許されたと云う記が在る。丹波攻めの頃には明智茂朝を名乗っていたとはその記に在る。

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