ノート:溝尾茂朝

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

明智五宿老って、何ですか?このような用語、聞いたことがありません。出典を明示してください。

明智光秀の家臣の明智秀満・明智光忠・溝尾茂朝・藤田行政・斎藤利三の五人のことを、五宿老というらしいです。聞いたことがない方もいるでしょうが、歴史小説などにも五宿老という用語が出てきます。

私も詳しくないので、歴史文献での出典は解りません。なので、ご指摘の通り、ほかの名数からの造語かも知れません。 --219.165.76.36 2008年12月30日 (火) 05:34 (UTC)[返信]

少し年月が経ちますが、誰かが本文に書かれると困るので記述しておきます。1581年天正9年6月2日制定の「明智家法」18箇条は有名ですが、この後同年12月4日家内の行動規則である「明智家中発度」5箇条を制定しているのです。そこで家中とは「面々、若党、下人巳下(巳下=以下)」と規定され、第1条「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う時は、脇によって慇懃に先方を通すこと。」とあります[1]。明智家重臣たち「面々」のうち重役をどう読んだかまだわかりません。しかし「宿老」とはまず織田家の重役のことで、丹羽長秀柴田勝家、そして光秀のことを言うのであり、明智家も織田家全体に包括されているので順列用語も織田家全体で考えなければならないと思います。「明智五宿老」などと言うわけがないと思います。それと太田牛一は、『信長公記』に、信長を討つ重臣合議の場は本来4人しか記述せず、自筆本のうち池田家本のみ牛一本人の筆で後で「溝尾茂朝」は加筆されています。牛一は「溝尾茂朝」を近侍衆だが重役ではないと考えていた節があります。--奈良たかし会話2015年3月5日 (木) 06:17 (UTC)[返信]

脚注[編集]

  1. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「徹底追跡! 明智光秀の生涯」〈12 本能寺の変への道〉早島大祐 2014年 新人物文庫