朝倉景健

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朝倉 景健(あさくら かげたけ、天文5年(1536年)? - 天正3年8月21日1575年9月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将朝倉氏の家臣。朝倉景隆の末子。安居城主。孫三郎と称す。後に安居景健(あご かげたけ)と改名した。

朝倉氏の同名衆のうち、大野郡司、敦賀郡司に次ぐ家柄の出身。元亀元年(1570年)頃、父と兄達が相次いで死去したため跡を継ぐ。同年、織田信長越前国に侵攻して来るとこれを防戦し、直後の姉川の戦いに総大将として参陣した。同年9月20日の下坂本の合戦で織田家臣の森可成と信長の弟・織田信治ら750余人を討つという戦果を挙げている。

天正元年(1573年)8月13日の刀根坂の戦いでは奮戦して、朝倉義景を越前国へ逃がすことに成功した。しかし、朝倉景鏡の手により義景が滅ぶと信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵された。翌天正2年(1574年)、越前国で一向一揆が起きると一揆方に降伏。天正3年(1575年)、織田軍の越前再侵攻の際には一揆方が劣勢となると織田軍へと再び叛意し、一揆の指揮官であった下間頼照下間頼俊らの首を持参して信長に許しを乞うたが認められず、信長の命を受けた向久家により自害させられた。このすぐ後に景健の家臣である金子新丞父子・山内源右衛門の3名が追腹を切り殉死したという(信長公記)。