武田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
若狭武田氏から転送)
移動: 案内検索
武田氏
家紋
四つ割菱(武田菱)
本姓 清和源氏義光流
家祖 武田信義
種別 武家
士族
出身地 常陸国[1]
甲斐国
主な根拠地 甲斐国
安芸国
若狭国ほか
著名な人物 武田信義
武田信光
武田政義
武田信武
武田信重
武田信昌
武田信虎
武田信玄
武田勝頼
支流、分家 若狭武田氏武家
安芸武田氏武家
真理谷氏武家
仁科氏武家
川窪氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代武家本姓源氏家系清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏宗家である。安芸国若狭国に分派が存在し、上総国にも庶流があったが、いずれも通字として「」(のぶ)が使用されている。一説では古代の国造である武田臣の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したともいわれる[1]

河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代にはわずかに庶家が残った。

家宝は御旗後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。

始祖源義光から甲斐国土着[編集]

武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男源義光(新羅三郎義光)と位置づけられている。河内源氏を称した源頼信1029年(長元2年)に甲斐守に任官し、頼義義光と継承される。頼義までは在京で現地へは赴いていないと考えられているが、義光は初めて甲斐へ着任し土着した人物とも言われ、山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。1981年(昭和56年)の発掘調査では出土遺物が確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠は発見されず、また古代甲斐における国衙八代郡であることからも義光の入国は疑問視されている。また、甲斐守任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。

現在では1968年(昭和43年)に志田諄一が『勝田市史』において発祥を義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を本貫として武田姓を名乗ったとする説が提唱され、以来定説として支持されている。1130年(大治5年)に義清の嫡男清光の狼藉行為が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたという。他の配流先は現在の山梨県中巨摩郡昭和町西条あたりなどの説もある。

義清父子は八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出し、清光は逸見(へみ)姓(逸見冠者)を名乗る。その後、義清の孫にあたる信義は元服の際に武田八幡宮において祖父義清の武田姓に復し、甲斐国北巨摩郡武田邑(現在の山梨県韮崎市全域)[1]を本拠地とした事から、その後に続く武田氏の初代とされる。

信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命され、その子の信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築いた。

甲斐武田氏[編集]

甲斐武田氏は、清和源氏河内源氏甲斐源氏の本流であり、4代武田信義(源信義)は以仁王から令旨を受け取り甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。当初は独立的立場を取っていたが、富士川の戦いを期に源頼朝に協力して戦功をあげ駿河守護を任ぜられる。その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し、弟や息子達の多くが死に追いやられた。信義の五男信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。

鎌倉時代後期には、確認される唯一の鎌倉期甲斐守護として石和流武田氏の政義がいる。政義は後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱において幕軍に従い笠置山を攻めているが、後に倒幕側に加わり幕府滅亡後は建武の新政に参加している。1335年(建武2年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝時代には安芸守護であった武田信武足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。

室町期には1416年(応永23年)に鎌倉府関東管領上杉氏憲(禅秀)鎌倉公方足利持氏に反旗を翻す(上杉禅秀の乱)と、武田信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、京都の幕府の介入で禅秀は滅亡。信満は鎌倉府から討伐を受け、自害する。後継の甲斐守護職は、逸見氏との甲斐源氏同士の内紛の末、幕府の追及を恐れて高野山で出家した信満の弟である武田信元が任じられる。その後は鎌倉府と幕府の対立から鎌倉府に服したが、6代将軍足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。

18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉氏と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。

1572年(元亀3年)、15代将軍足利義昭の要請に応じて上洛を開始したが、その途上、信玄が病死したため武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国遠江国三河国美濃国飛騨国越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有したが、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年(天正3年)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年(天正10年)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。

天目山の戦いの後、信玄の次男・竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子信正の代で許されて1700年(元禄13年)に幕臣となり高家として仕えた。1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。信玄五男・仁科盛信長男信基と次男信貞徳川旗本として仕え、2系とも現在も存続している(信貞は武田に復姓している)。信玄七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕えた。信玄の弟・河窪信実の子信俊家康旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。

甲斐武田氏歴代当主[編集]

  1. 武田信義(源清光の子)
  2. 武田信光(武田信義の子)
  3. 武田信政(武田信光の子)
  4. 武田信時(武田信政の子)
  5. 武田時綱(武田信時の子)
  6. 武田信宗(武田時綱の子)
  7. 武田信武(武田信宗の子)
  8. 武田信成(武田信武の子)
  9. 武田信春(武田信成の子)
  10. 武田信満(武田信春の子)
    • 武田信元(武田信春の子、穴山満春)
      • 武田信高(武田信長(上総武田氏)の子、信元の養子)
  11. 武田信重(武田信満の子)
  12. 武田信守(武田信重の子)
  13. 武田信昌(武田信守の子)
  14. 武田信縄(武田信昌の子)
  15. 武田信虎(武田信縄の子)
  16. 武田晴信(信玄)(武田信虎の子)
  17. 武田勝頼(武田信玄の子)
  18. 武田信勝(武田勝頼の子)
  19. 武田勝千代(武田信玄の孫、武田勝頼の甥、信治)
  20. 武田信吉徳川家康の子)
(穴山武田氏)
  1. 武田勝千代穴山信君の子)
(水戸藩武田氏)
  1. 武田信吉徳川家康の子)
(伊豆武田氏)
  1. 武田信道(信玄次男の海野信親(龍芳)の子)
  2. 武田信正(武田信道(道快)の子)
(高家武田氏)
  1. 武田信興(武田信正の子)
  2. 武田信安(武田信興の子)
  3. 武田信明大和郡山藩2代藩主柳沢信鴻の子)
  4. 武田護信(武田信明の子)
  5. 武田信典松平頼亮の子)
  6. 武田信之柳沢保光の子)
  7. 武田崇信(武田信典の子)
  8. 武田信任(武田崇信の養子)
  9. 武田要子(武田信任の娘)
  10. 武田信保柳沢保申の子)
  11. 武田昌信(武田信保の子)


戦国甲斐武田氏(信玄・勝頼時代)の主要家臣[編集]

武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。江戸時代に記された軍記物である『甲陽軍鑑』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関して家臣団の詳細が記され、江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。『軍鑑』は明治期の史学会において田中義成により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかったが、近年は酒井憲二による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。

一門
譜代家臣
他国衆


戦国甲斐武田氏の城[編集]

武田氏研究と武田氏関係文書[編集]

甲斐武田氏では近世に軍記物である『甲陽軍鑑』が成立し、武田信玄の存在を中心に広く知名度があり、江戸時代から近代にかけて地元においても郷土の象徴的人物と位置づけられていった。明治期には郷土史家により信玄を勤皇家や郷土の英雄として信玄像を位置づけることを目的とする研究や、戦史中心の研究が行われていた。また、大正昭和初期には県内の実業家や名望家を中心に郷土研究が流行し、『甲斐史料集成』や『甲斐叢書』などの史料刊行も行われ、山梨郷土研究会も発足し実証的研究がスタートした。

戦後には昭和30年代から研究が活発化し、奥野高広磯貝正義上野晴朗らがそれぞれ実証的信玄評伝を発表した。資料的制約から研究は信玄・勝頼期が中心となっているが、前代の信虎期や後代の勝頼期へも視点が向けられ、三代期以前においても『吾妻鏡』の史料批判による鎌倉時代の甲斐源氏や武田氏に関する研究や、上杉禅秀の乱を契機とする甲斐国の動向に着目した南北朝・室町期の研究も行われている。

戦後には武田氏関係文書の新発見や文書編纂も進み(後述)、『軍鑑』や近世の総合地誌である『甲斐国志』など史料刊行も行われ、『勝山記』など新史料も発見された。1987年(昭和62年)には武田氏研究会が発足し現在に至るまで武田氏研究の中心的存在となっている。一方、考古学の分野では山梨県埋蔵文化財センターや県内外の市町村教育委員会などによる発掘調査が進展し、武田氏館跡や勝沼氏館跡など武田氏に関係する考古遺跡における発掘や、中世考古学の進捗により発見が相次ぎ、史跡整備も進んでいる。また、2005年(平成17年)には山梨県立博物館が開館し、武田氏に関する資料の収集や調査研究、展示活動を行っている。

現在では社会経済史的視点からの研究や戦国大名武田氏の権力構造の解明、家臣団の個別研究のほか、財政や治水事業、軍事や外交、交通や都市問題、商職人支配や郷村支配、宗教、美術など細分化した分野における実証的研究や民俗学的アプローチなど研究の地平が広っている[2]。一方で、網野善彦はこうした武田氏や甲斐源氏中心の研究に対して甲斐中世史において他氏族の果たした役割を強調し、武田氏以外の氏族研究の必要性を主張している[3]

また、武田氏研究と平行して武田氏関係文書の編纂も行われている。武田氏は宗家が滅亡しているため家伝文書が散逸しており写本影印本のみで知られるものも多いが、現在では3300点余りの文書が知られている。古くは江戸時代に幕府が編纂した『諸州古文書』において甲斐の古文書調査が行われており、甲斐国の総合地誌として編纂された『甲斐国志』では武田氏関係の記述は『軍鑑』がベースとなっているものの編纂に伴う古文書調査が行われており、これらに収録されている文書には現在原本が確認できないものも多く含まれている。

実証的な武田氏研究が本格化した昭和戦後期には武田氏関係文書集の刊行も行われ、1966年(昭和41年)には『甲府市史』の編纂に際して『甲府市史史料目録』に「甲斐武田氏文書目録」が含まれ、1969年(昭和44年)には荻野三七彦・柴辻俊六により『新編甲州古文書』が刊行された。その後も新出文書の増加や無年号文書の検討作業が進捗し、『山梨県史』編纂事業のスタートに伴い総合的な史料調査が行われ、現在では柴辻俊六・黒田基樹戦国遺文』武田氏編や、家別に編纂した『山梨県史』資料編中世において文書が集成されている。

武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少なく、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書は少なく、偽文書が多いことも指摘されている[4]。武田氏は家伝文書の多くが散逸しているため、外交文書においては例えば近世大名家として存続している上杉家との関係においては武田氏側から発給された文書の多くが上杉家に伝存し、一方の上杉氏側から発給した文書の多くは伝存していないといった特徴をもつ。

また、武田家では二人の右筆の存在が確認されているほか、信玄文書はの濃淡が極端である特徴をもつことが指摘される。

安芸武田氏[編集]

安芸武田氏は5代武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。南北朝時代に10代武田信武足利尊氏に属して戦功を上げた結果、甲斐国と安芸国の守護に任命され、信武次男・武田氏信が安芸守護として分家した。この氏信が安芸武田氏の初代となる。しかし氏信は1368年応安元年)に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護職は今川氏細川氏等の足利一門が担ったが、安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護[5]として存続している。

大内氏とは対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方について参戦、以降戦国時代まで尼子氏らと組んで大内氏に対抗したが、安芸武田氏9代武田信実の時代、1541年天文10年)6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたり安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。

また、光和の庶子である武田小三郎は毛利氏に従い、以降代々仕えた。毛利氏の周防移封に従ったため、周防武田氏と称している。呉武田学園理事長の武田信寛は、その子孫という。

安芸武田氏歴代当主[編集]

  1. 武田氏信(甲斐武田氏10代武田信武の子)
  2. 武田信在(武田氏信の子)
  3. 武田信守(武田信在の子)
  4. 武田信繁(武田信在の子)
  5. 武田信賢(武田信繁の子で若狭武田二代)
  6. 武田元綱(武田信繁の子)
  7. 武田元繁(武田元綱の子)
  8. 武田光和(武田元繁の子)
  9. 武田信実(若狭武田氏6代武田元光の子で武田光和の養子)

若狭武田氏[編集]

鎌倉時代に石和五郎信光が若狭国大飯郡源力木山城を築いたという伝説が残る。若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命を受けて1440年永享12年)に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。足利将軍家および細川京兆家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと・武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと・丹後守護を兼ね幕府のある畿内周辺で二ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、武田氏の本流という見解も存在する。

信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に本拠地を移した。初代である武田信栄のころは、まだ遠敷郡小浜(現・小浜市)ではなく、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている。信栄は1441年(永享13年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信栄の墓所は本拠地のあった大飯郡高浜に現存する。信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いだ。

武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。3代国信以降は若狭国、丹後国加佐郡を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵する。丹波守護の細川京兆家の要請による丹波への出兵も多かった。しかし周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を弱め、8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行する。1566年永禄9年)8月には義理の兄である義統を頼って入国した室町将軍家子息足利義昭を庇護するが、義昭は若狭武田家中の混乱を見かね早々に越前朝倉を頼って出国した。

若狭武田氏も2年後の1568年(永禄11年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、1573年天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。

しかし信長より若狭を任されたのは丹羽長秀だったので元明は大飯郡南部の石山3000石のみの領有を許されただけであった。1582年(天正10年)の本能寺の変では旧領回復を狙って丹羽長秀の居城佐和山城を陥落させ明智光秀に加担するも、光秀に勝利した羽柴秀吉丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。子の義勝は津川姓、のち佐々姓を名乗り、京極高次に仕えた。

蠣崎氏の祖[編集]

若狭武田氏・武田信繁の近親の蠣崎季繁や、武田信賢の子武田信広が蝦夷に渡り蠣崎氏の祖になったという伝承もあり、若狭武田氏は小浜を拠点に陸奥国の南部氏や北海道など甲斐源氏の一族が居住する地域との日本海交易を行っている。

若狭武田氏歴代当主[編集]

  1. 武田信栄(武田信繁の子)
  2. 武田信賢(武田信繁の子)
  3. 武田国信(武田信繁の子)
  4. 武田信親(武田国信の子)
  5. 武田元信(武田国信の子)
  6. 武田元光(武田元信の子)
  7. 武田信豊(武田元光の子)
  8. 武田義統(武田信豊の子)
  9. 武田元明(武田義統の子)

上総武田氏[編集]

上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子・信高の死後、嫡流庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では信玄の三男・西保信之と同一人物とされ、甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったという説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として徹底した反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害して果て、同氏は滅亡した。

一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清古河公方足利政氏の子・義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。信清の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。このため、信隆は北条氏綱の元へと亡命することとなった。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が信隆の後を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。だが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服し、豊臣氏の小田原征伐によって所領を奪われて那須氏のもとへ亡命、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。

なお、嫡流武田豊信の子・氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、郷士として土着した。そしてそのまま江戸時代を乗り切り、現在も血筋が続いている。分家のその後は不明である。

上総武田氏歴代当主(付記: 真里谷氏)[編集]

  1. 武田信長(武田信満の子)
  2. 武田信高(武田信長の子)
  3. 武田道信(武田信高の長子)
  4. 武田宗信(武田道信の子)
  5. 武田吉信(武田宗信の子)
  6. 武田清信(武田吉信の子)
  7. 武田豊信(武田清信の子、一説には武田晴信(信玄)の子)
  • 真里谷氏
  1. 真里谷信興(武田信高の子)
  2. 真里谷信勝(真里谷信興の子)
  3. 真里谷信清(真里谷信勝の子)
  4. 真里谷信隆(真里谷信清の庶長子)
  5. 真里谷信応(真里谷信清の嫡子)
  6. 真里谷信政(真里谷信隆の子、里見氏に滅ぼされる)
  7. 真里谷信高(真里谷信応の子、里見氏によって擁立か?)


その他の武田氏[編集]

因幡の武田氏[編集]

因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録延徳3年(1491年)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。1545年天文14年)、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)

天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗する様な姿勢を見せる。1563年(永禄6年)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同年4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。1573年(天正元年)、出雲戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久山中幸盛が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。1578年(天正6年)、美作国人領主草刈氏が因幡国智頭郡淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。

なお、近年の研究によって武田高信の死は1573年(天正元年)5月以前であることが判明しており、同年5月4日付の「小早川隆景書状」(『萩藩閥閲録』)には「不慮に相果て」と記されている。また、数年後の毛利氏側の史料には織田方との密通が明らかになったため、山名豊国によって切腹させられたと記されている。

陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の許に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の許に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石を以って召抱えたとされる。事実、明治元年(1868年)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。

  1. 武田国信(豊前守)
  2. 武田高信(嫡男)
  3. 武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)

常陸の武田氏[編集]

常陸の武田氏(1)

源義光の子・源義清常陸国那珂郡武田郷より起こる。冒頭を参照。

常陸の武田氏(2)

1392年明徳3年)、甲斐武田家12代信春の子・武田信久甲斐国より常陸国北浦に下り居城を構え、領地を治める傍ら剣術の一流を築いた。武田顕輔、尚徳が水戸藩に仕え、師範となり、家伝剣術の他、北辰一刀流剣術鹿島新当流天真正伝香取神道流を修め武田輔長の伝えた。武田輔長はこれを武田新当流として確立。今日に至る。

常陸の武田氏(3)

戦国時代まで甲斐武田氏の庶流にして守護代であった跡部氏は、武田氏滅亡の折、主家に叛いて後に徳川氏の家臣となる。その後、子孫は水戸藩水戸徳川家)に仕えたが、幕末時に主家に叛いた跡部姓を嫌った耕雲斎が主君徳川斉昭に願い出て、本姓である武田姓に復姓を果たした。

  1. 武田正生(贈正四位。水戸藩士 跡部正続の子。本家の跡部正房の養子となる。)
  2. 武田魁介(正生の子)

その他[編集]

  • 相模国には戦国時代には北条氏に従った武田氏がいた。上総武田氏の真里谷信隆が北条氏を頼ったのは、相模の武田氏が仲介したからだとされる。その他では土佐国香宗我部氏は武田氏の一族であったとされる。(武田菱陣羽織が現存している。)

家紋[編集]

甲斐武田氏の家紋武田菱(たけだびし)と呼ばれる「割り菱(わりびし)」である。ほかの武田氏の氏族も使用する。 ほかに「花菱(はなびし)」を使用している。『見聞諸家紋』では「割り菱」と「松皮菱(まつかわびし)」が載る。

由来[編集]

由来には諸説あり、一説には武田の「田」の字を元にデザインされたとも言われている。[6]

室町幕府の公式家紋集である『見聞諸家紋』には、

「頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。」

とある。 前九年の役(1051年 - 1062年)のとき、武田氏の祖である源義光が、住吉大社武運長久を祈念した際、住吉大社に奉納されていた「楯無」の鎧を神託によって拝領した。その鎧の袖についていた「割菱」の文様を武田氏の定紋としたという。

楯無とは、神功皇后三韓征伐の時に使用したといわれる鎧で、その後は、武田家の家宝として伝わった(現存する、国宝「楯無(小桜韋威鎧 兜、大袖付)」は鎌倉中期のもの)。

旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。

系譜[編集]

甲斐源氏・武田宗家の系図武田家系図)は伝存するものでは近世初頭からの系図が確認されているが、室町期に成立した『一蓮寺過去帳』においては武田家系図を参照して僧帳を作成した経緯が記されており、近世期に伝わる武田家系図の原本が存在していたと考えられている。

近世初頭の成立の武田家系図には武田源氏一統系図、円光院武田家系図南松院武田家系図大聖寺武田家系図などがある[7]

円光院武田家系図は清和源氏から甲斐源氏の武田氏・逸見氏の家系図、室町将軍家や鎌倉公方家の足利家系図らを引き継ぎ、信時流武田氏の信武から信縄までの武田宗家・信君までの穴山氏の系図をまとめた構成となっており、異筆で今井氏の系図が記されている。円光院武田家系図は本来的には信虎から信玄・勝頼・信勝までの宗家系譜が存在せず、信虎以降の宗家に穴山勝千代を続けた加筆部分が存在している。加筆部分から円光院武田系図は信君没年である天正10年から勝千代没年である天正10年の間の成立であると考えられており、本来的には穴山氏の由緒を強調する意図があったと考えられている。

江戸時代には武田宗家の子孫として旗本川窪氏がいるが、川窪氏は円光院武田家系図を底本に武田源氏一統系図・川窪氏系図を編纂し、これは『寛永諸家系図伝』に収録され、江戸時代に作成された諸系図の多くはこれを底本としている。武田源氏一統系図は一蓮寺過去帳に由来する楯無鎧の承伝過程を記している点などが注目される。

南松院武田家系図は同じく円光院武田家系図を底本に1630年代頃に成立したと考えられており、武田宗家から穴山氏・今井氏の系譜を記し、円光院武田系図と同様に穴山氏の系譜を記すことが目的であったと考えられている。

大聖寺武田家系図は川窪氏系図が記載されていることから武田源氏一統系図以降に作成されたと考えられており、高家武田家の系譜が存在しないことから高家武田家系図成立以前の作成であると考えられている。

主要参考文献[編集]

系譜参考[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『姓氏』(丹羽基二著作/樋口清之監修)および『旧事記』、『和名抄』より。
  2. ^ 武田氏研究の研究史については、秋山敬「文献からみた武田氏研究」『武田氏研究』(第21号、1999年)、のちに増補して『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003年)に収録。文献目録には海老沼真治「武田氏関係研究文献目録 1983 - 2007年」平山優・丸島和洋編『戦国大名武田氏の権力と支配』(岩田書院、2008年)がある。
  3. ^ 網野善彦「鎌倉時代の甲斐国守護をめぐって」『武田氏研究』(第8号、1991年)
  4. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』(第5号、1997年)
  5. ^ 一般的に守護は国単位(分国)で置かれるが、何らかの事情により単位(分郡)で置かれた場合に分郡守護と呼ばれる。役務自体は、通常の守護と同じである。
  6. ^ a b 高澤等著『家紋の事典』東京堂出版 2008年
  7. ^ 武田家系図については近年系譜資料論の観点から諸系図の資料的性格が検討され、西川広平「武田氏系図の成立」峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論』(下巻、2007年、高志書院)、西川「南松院所蔵武田氏系図について-武田氏系図成立の一考察-」『山梨県立博物館研究紀要』第二集、2008、西川「柳沢家の系図編纂と武田家」『山梨県立博物館研究紀要』第三集、2009などがある。
  8. ^ 武田信吉の死後、嫡流を継ぐ。
  9. ^ 穴山信君の嫡男で武田信玄の外孫、武田宗家の名跡を相続。
  10. ^ 徳川家康の五男で武田氏家臣秋山虎泰の外孫、武田宗家・穴山家の名跡を相続。
  11. ^ 武田氏庶流・大和郡山藩主柳沢信鴻の三男、柳沢吉保の曾孫。
  12. ^ 高家肝煎。陸奥守山藩主松平頼亮の三男、徳川家康の六世孫。
  13. ^ 高家肝煎。大和郡山藩主柳沢保光の七男。
  14. ^ 旗本・遠山景高の五男。
  15. ^ 高家・織田長裕の子。
  16. ^ 大和郡山藩主柳沢保申の二男。
  17. ^ 一族・川窪信亮の長男。
  18. ^ 水戸徳川家家臣鮎沢伊大夫の子。
  19. ^ 甲斐源氏後裔・逸見義武の三男。
  20. ^ 旗本・芦敷戸田家戸田政峯の二男。
  21. ^ 近江三上藩主遠藤氏の一族。
  22. ^ 旗本・鵜殿長一の五男。
  23. ^ 一族・川窪信有の五男。
  24. ^ 広戸正状の四男。
  25. ^ 河窪武田家宗家・武田信村の三男。
  26. ^ 館野忠四郎の子。
  27. ^ 遠藤八郎右衛門の子。
  28. ^ 松平宮内少輔(安芸広島新田藩主浅野長賢乃至備前岡山藩主池田忠雄)の家臣三宅伊邦の子。
  29. ^ 小林政房の二男。
  30. ^ 先代信辰の嫡孫。
  31. ^ 前川雄広の二男。
  32. ^ 吉川宣彪の三男。
  33. ^ 幕臣・春田猪之助の子。
  34. ^ 武田勝頼家臣岩間正頼の養子となり熊本藩主細川氏に仕える。
  35. ^ 浅山平太夫の三男。
  36. ^ 田中郷右衛門の三男。
  37. ^ 宗家・岩間正章の末子。
  38. ^ 先代正勝の時に無嗣断絶後名跡を相続、元々は正茂の養子。
  39. ^ 武田勝信の外孫。

外部リンク[編集]