源頼信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
源頼信
Minamoto Yorinobu.jpg
源頼信(菊池容斎画、明治時代
時代 平安時代中期
生誕 安和元年11月29日968年12月21日
死没 永承3年4月17日1048年6月1日
墓所 羽曳野市 通法寺
官位 従四位上昇殿鎮守府将軍検非違使常陸伊勢河内甲斐信濃美濃相模陸奥左馬権頭冷泉院判官治部少輔皇后宮亮左衛門少尉兵部丞贈従二位
主君 藤原道兼藤原道長
氏族 清和源氏経基
父母 父:源満仲
母:藤原元方女もしくは藤原致忠
兄弟 頼光頼親頼信頼平頼範
頼明頼貞頼尋源賢
修理命婦
頼義頼清頼季頼任義政源為満

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とする河内源氏の祖。

目次

[編集] 略歴

兄・頼光と同じく摂政関白藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。

甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡平致頼藤原保昌らと道長四天王、或いは四天王と称された。

それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている(元木 2011)。

この乱の後、坂東武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。

古事談』や『今昔物語集』には頼信に関する説話が記されている。

墓は、大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺の通法寺跡に、頼義、義家と共にある。

[編集] 官歴

※日付=旧暦

[編集] 参考文献

  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年

[編集] 関連項目

先代:
なし
河内源氏棟梁
初代
次代:
源頼義
個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語