加賀美遠光
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| 加賀美遠光 | |
|---|---|
| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
| 生誕 | 康治2年2月28日(1143年3月16日) |
| 死没 | 寛喜2年4月19日(1230年6月6日)? |
| 改名 | 豊光丸、遠光 |
| 別名 | 加賀美次郎 |
| 墓所 | 甲府市伊勢の遠光寺 |
| 官位 | 信濃守 |
| 氏族 | 甲斐源氏、加賀美氏 |
| 父母 | 父:源義清?、養父:源清光? 母:佐竹義業の末娘 |
| 兄弟 | 清光、師光、遠光、安田義定 |
| 妻 | 和田義盛の娘(もしくは姉妹) |
| 子 | 秋山光朝、小笠原長清、南部光行、 加賀美光経、於曽経行、大弐局 |
加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。
加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(山梨県南アルプス市、旧若草町)を本領とした。
[編集] 生涯
伝承によれば、承安元年(1171年)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され(当時遠光は滝口の武士であったとされる)、鳴弦の術を行わせた。無事に怪異は治まり、遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県旧中富町の大聖寺に安置されており、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。
治承・寿永の乱に際しては次男の小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の文治元年(1185年)には源頼朝より御門葉の一人として重きを置かれ信濃守に任じられた。以後は頼朝の家臣として活動し、しばしば『吾妻鏡』に記述が見られる。
晩年には衰微していた真言宗の古刹である法善寺を再興。また現在甲府市にある遠光寺(当時は臨済宗であったが、現在は日蓮宗)を創建したほか、遠光創建を伝える寺社も多い。
5人の息子がいるが、長男の秋山光朝は平家嫡流である平重盛の娘を妻としていたため頼朝に滅ぼされたものの、その系譜は秋山氏として続いている。次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった。四男の加賀美光経が加賀美氏を継ぎ、五男の於曽経行は奥州合戦の際に軍略で功を立てた。