油川氏

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油川氏
本姓 源姓甲斐武田氏流油川氏
家祖 油川信恵
種別 武家
出身地 甲斐国油川
主な根拠地 山梨郡油川勝山城 (甲斐国八代郡)
著名な人物

油川信恵
油川信守(播磨守)
油川信友(通称・源左衛門尉)
油川信次(四郎左衛門)
油川信貞(武田信貞)

油川夫人(信友の娘)
凡例 / Category:日本の氏族

油川氏(あぶらかわし)は、武家の一つ。甲斐武田氏支流。山梨郡油川勝山城 (甲斐国八代郡)を根拠とした。

概要[編集]

甲斐の守護大名武田氏当主・武田信昌(刑部大輔)の子、油川信恵が中郡の山梨郡油川に拠り油川姓を名乗った。

戦国時代[編集]

油川信恵は、甲斐武田氏の家督を相続したばかりで甥にあたる武田信虎と家督をめぐって争い、永正5年(1508年)10月4日の勝山合戦によって油川氏一党は壊滅し、生き残った油川信恵の子、油川信友(油川源左衛門尉)は武田家に仕えた。

油川信友(油川源左衛門尉)が武田信虎武田信玄に仕えた。天文19年(1550年)に信濃海野原(砥石崩れ)で戦死。

油川信友の子、油川信吉(彦三郎)は武田信玄に仕えた。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死。

油川信友の孫、油川信次(四郎左衛門)は長篠の戦い(1575年)にて戦死。

武田信玄の側室に油川夫人がおり、子に仁科盛信葛山信貞信松尼菊姫、(真理姫?)がいる。

甲斐武田氏滅亡時[編集]

天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による甲斐への侵攻の甲州征伐により、甲斐武田氏が滅亡する。

続く、天正壬午の乱にて、徳川傘下に入った武田遺臣に油川信守の記名がある。これが武田信貞(油川信貞)か? (天正壬午起請文参照)

また、甲斐武田氏が滅亡時、油川夫人の娘信松尼仁科盛信の娘・小督姫(出家)、武田勝頼の娘・貞姫(宮原義久室)、小山田信茂の養女・天光院殿(内藤忠興室)、そして幼き仁科信基を連れ八王子に逃れた。

江戸時代[編集]

油川信次の子、油川信貞(武田信貞、または仁科信貞)が武田家滅亡後、旗本として徳川家に仕えた。関ヶ原の戦い参戦、大坂の陣伏見城在番。寛永2年10月には武蔵国都筑郡・上総国埴生郡・武射郡に350石。

油川信貞の子、油川信忠(油川信成)が寛永3年(1627年)、13歳で家督を相続して徳川家旗本大番寛永10年(1633年)二月、下総香取郡に200石を加増。550石。

徳川家旗本として、江戸時代を通して、武田氏に復姓して存続した。(系図参照)

系図[編集]

油川氏の系譜は資料によって混乱・誤記・重複が多く見られる。ここでは寛政重修諸家譜を元にまとめる。

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  • 武田信貞(油川信貞)(勝松、源兵衛、浄圓) - 江戸時代旗本、350石。

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異説[編集]

甲州征伐により宗家武田家断絶の危機があった為か、同族の武田信玄の五男の仁科盛信の子、武田信貞を養子に迎えて油川氏当主・油川信貞とした伝承がある。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

寛政重修諸家譜