壬生義雄

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壬生 義雄
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文21年(1552年
死没 天正18年7月8日1590年8月7日
改名 氏勝(幼名)→義雄
戒名 寒光院殿雄山文英
墓所 栃木県鹿沼市西鹿沼町の雄山寺
主君 下野宇都宮氏佐竹義重後北条氏
氏族 壬生氏
父母 父:壬生綱雄
兄弟 義雄、鶴子(皆川広照室)
正室自性院殿源室宗本
伊勢亀(一色右兵衛尉室)
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壬生 義雄(みぶ よしたけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将下野宇都宮氏後北条氏の家臣。壬生氏5代(最後の)当主。

略歴[編集]

天文21年(1552年)、壬生綱雄の子として誕生。幼名は氏勝

父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。

一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮多気山両城を攻撃した事から、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]

天正15年(1587年10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ヶ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]

義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐の際、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した[4]といわれる。

義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は絶家した。娘の伊勢亀は義雄の死後、壬生家臣・一色右兵衛尉の室となった。

脚注[編集]

  1. ^ 竹井英文「天正十三年・十四年の下野国の政治情勢-関連資料の再検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院2016年ISBN 978-4-86602-980-1
  2. ^ 下野新聞 2016年5月1日の記事。
  3. ^ 従来は「新編会津風土記」等による写本しかなかったが近年、原本が見つかったため、戦国時代末期の下野国の政治状況がより正確に把握できるという。
  4. ^ 異説小田原記』等によると、皆川広照によって毒殺されたという説もある。