瀬底島

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瀬底島
Sesoko Island.jpg
1977年撮影。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
座標 北緯26度38分46秒
東経127度51分54秒
面積 2.99 km²
海岸線長 7.3 km
最高標高 76 m
所在海域 東シナ海
所属諸島 沖縄諸島
所属国・地域 日本の旗 日本沖縄県国頭郡本部町
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瀬底島(せそこじま)は、沖縄県国頭郡本部町に属するである[1][2][3][4][5][6]

地理[編集]

本部半島の西方沖約600mの東シナ海に位置し、西洋ナシの形をした台地状の低平な島である[1][2][4]。島全域は本部町の大字である瀬底に属し、瀬底島西約6kmの海上にある水納島も同字に帰属する[7]。面積2.99km²[5]、周囲7.3km[3]、標高76m[1][6]2010年国勢調査に基づく人口は808人[8][9][注 1]である。隆起サンゴ礁の島で、主に琉球石灰岩で構成され[6][4]、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる三畳紀の基盤岩類で成る[1][11]。2段または3段の海岸段丘が見受けられ[6][12][13]、その段丘面にはカルスト地形の一つであるドリーネが、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している[1]。北方からの強風に晒される為、防風林が設置されている箇所もある[12]。集落は島中央を通る道路沿いに立地[7]、また島南岸には琉球大学熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する[1]

歴史[編集]

方言で「瀬底」は「シーク」と呼ばれる[14]。15世紀後半に編纂された李氏朝鮮時代の歴史書『海東諸国紀』には「世々九」と、『ペリー提督沖縄訪問記』にはスコ島(Suco Island )と記されている。瀬底島という名称は17世紀前半に著された『琉球国高究帳』に記載され、それ以降この地名は一般に広まったとされる。[1]

先史時代の貝塚やグスク時代の多数の遺構が発見され[2]、中でも瀬底グスク(ウチグスク)では、青磁や染付けされた陶磁器が出土している[15]。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされる。1469年第一尚氏王統最後の尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司のある一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したと言われる。またこれとは別に沖縄本島中部の具志川石川(現在のうるま市の一部)[2]からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている。[10]

当初の瀬底島の人口は少なく、土地が余分にあった為、沖縄本島から海を渡って農作業を行いに来る人々もいた[16]。しかし、島内には水田はなく、また麻疹天然痘などの疫病も度々発生し、飢餓に苦しむことも多かった。1826年に飢饉による困窮のため、琉球王府から金銭を借り入れている。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の親雲上である上間家の一人が1712年へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる。代々上間家は本部間切の地頭代を務め、1772年に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った[17]。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、1831年に王府から掛軸上布を受け賜った。[18]

瀬底島は元来今帰仁間切の所属であったが、1666年に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された[19]。翌年1667年に本部間切に名称を変更、『琉球国由来記』にも本部間切瀬底村と記述されている[18]。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、1736年石嘉波村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、1896年(明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、1903年(明治36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された[16]。そして1908年(明治41年)に本部村の、1940年(昭和15年)に本部町の大字となり現在に至る[18][20]

瀬底島に井戸は存在せず、昔から天水に依存してきた[21]。現在でも雨水をためる貯水池が集落東側の御嶽に4箇所残存している[22]。旱魃で水不足に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、1964年(昭和39年)にボーリング機材を用いて地下水を汲み上げてから、幾分水不足は解消された[22]。そして1982年(昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された[23]。1973年(昭和48年)に電話回線が開設[22]、また電力も対岸の本部半島から海底ケーブルで送電されている[6]

1890年(明治23年)に島内に簡易小学校を設立したのが最初で、3年後に瀬底尋常小学校に改称した[18]1921年大正10年)に高等科が新設され、戦後に瀬底中学校を設置した[20]2011年に瀬底中学校は沖縄本島の本部中学校へ統合される事が決定し[24]、翌年2012年3月11日に閉校式が行われた[25]

産業[編集]

瀬底ビーチ

主な産業は農業である。サトウキビスイカ花卉類が主要な産物で[2][4][6]、過去にサツマイモ類も栽培していた[22]。昭和初期に石灰質岩石のトラバーチンを産出し[6]国会議事堂の建材に使用された[1]。ムンジュル笠と呼ばれる麦わら(方言でムンジュル)を編んで作った菅笠状の日笠が瀬底島の工芸品で、沖縄本島北部ではシーク笠(瀬底笠)とも言われる[26]。明治時代から1960年代まで農家の副業として生産してきた[21][22]。しかし、多種多様な帽子が大量且つ安価に生産される今日では、ムンジュル笠はそれらに圧倒され、1991年頃の生産人口はわずか2、3人までに衰退した[6]。島西部の海岸には全長約1kmに及ぶ砂浜が広がり、毎年夏場は観光客で盛況する[3][4]

文化[編集]

瀬底島中央部に、古来より中国における農業の神様として崇拝された土帝君の祠があり、当地で毎年旧暦2月2日に豊年祭が行われる[18]。またこの祭祀施設は1997年12月3日に「瀬底土帝君」として国の重要文化財に指定されている[3][27]。昭和初期まで氏神に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、1935年(昭和10年)から5年ごとに1回交互に開催するようになった[20]。村踊りは旧暦8月中旬の4日間、綱引きは11日に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう[20]。島南部には参詣毛(サンケーモー)と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年旧暦5月15日を用意し祖先の故郷(本部石川など)を訪れ、参拝するグングヮチウマチー(5月祭り)を行う[1][2][4][6]獅子舞踊りや旧暦7月伝統芸能「シヌグ」も催される[1][6]。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や奄美群島の一部でも行われる[28]。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」と言われる雄ヤギ同士で闘う伝統行事も行われる[29]

瀬底島で使用される方言沖縄北部方言に含まれるが、この方言の特徴である有気音無気音の区別はない。それ以外の発音は他の琉球方言と比較して際立った特徴は見受けられず、また文法もほぼ変わらない。瀬底島の西に位置する水納島は瀬底島から移住した人々で構成されている為、瀬底島と同一である。[30]

交通[編集]

瀬底大橋

昔から瀬底島周辺の沖合は荒れやすく、王朝時代から船舶転覆座礁事故が多発していた[18]。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた海峡は穏やかである為、外航船の避難港として利用されていた[10]。沖縄本島と架橋する以前は渡し船が唯一の交通手段で、1946年(昭和21年)から橋梁完成まで汽船が運航した[20]。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも2006年本部港に統合)を1日11便で結び[7][31]、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するため、頻繁に利用していた[3]。大橋開通後の瀬底港は漁港として使用され、現在は近くにビーチキャンプ場が整備されている[31]。同字に属する水納島への渡航は、本部町の中心地にある渡久地港のみで客船が運行し、所要時間は45分を有する[7]

1972年(昭和47年)から7年間、瀬底大橋の建設に関する調査が行われた[32]1974年(昭和49年)に島内の主要道路が沖縄県道172号瀬底健堅線に指定され、1979年(昭和54年)に工事を着工した[33]1985年(昭和60年)2月13日に完成し[34]、全長762mで当時の沖縄県において最長の橋であった[33]。また翌月の3月31日に完成を祝して島内に開通記念碑が建立された[34]。現在は島民の生活道路のみでなく、景勝地として観光資源の一役も担っている[33][34]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 本部町の大字である瀬底は瀬底島と水納島から成る[10]。『離島関係資料p.1』[8]によれば、水納島の平成22年国勢調査確報値に基づく人口は42人であるから、『平成22年国勢調査 小地域集計 男女別人口及び世帯数 - 町丁・字等』[9]に掲載されている本部町字瀬底の人口850人から差し引いた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 『角川日本地名大辞典』「瀬底島」(1991年)p.423
  2. ^ a b c d e f 菅田(1995年)pp.192 - 193
  3. ^ a b c d e 加藤(2010年)p.336
  4. ^ a b c d e f 大高(1991年)pp.286 - 287
  5. ^ a b 平成24年全国都道府県市区町村別面積調 島面積 (PDF)”. 国土地理院. p. 9 (2012年10月1日). 2013年2月16日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底島」(1983年)p.568
  7. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典』「本部町 瀬底」(1991年)p.891
  8. ^ a b 離島関係資料 第1 指定離島・島しょ・人口 (PDF)”. 沖縄県企画部地域・離島課. p. 1 (2012年1月). 2013年1月31日閲覧。
  9. ^ a b 平成22年国勢調査 小地域集計 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 47.沖縄県 (Excel)”. 総務省統計局 (2012年12月11日). 2013年2月16日閲覧。
  10. ^ a b c 『角川日本地名大辞典』「瀬底」(1991年)p.422
  11. ^ 中村(1996年)p.101
  12. ^ a b 仲田(2009年)p.166
  13. ^ 河名(1988年)p.69
  14. ^ 今帰仁方言音声データベース 「瀬底」”. 琉球大学 沖縄言語研究センター (2000年4月). 2013年1月31日閲覧。
  15. ^ 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底グスク」(1983年)p.568
  16. ^ a b 『角川日本地名大辞典』「石嘉波村」(1991年)p.422
  17. ^ 『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 土帝君と上間家」(1991年)p.887
  18. ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典』「〔近世〕瀬底村」(1991年)p.422
  19. ^ 『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 本部間切の村々」(1991年)p.886
  20. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.422
  21. ^ a b 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底」(1983年)p.568
  22. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.423
  23. ^ 離島関係資料 第4 生活環境施設等 (PDF)”. 沖縄県企画部地域・離島課. p. 124 (2012年1月). 2013年2月16日閲覧。
  24. ^ “本部町 瀬底、本部中に統合 来年度計画”. 琉球新報. (2011年6月22日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-178474-storytopic-7.html 2013年2月15日閲覧。 
  25. ^ まちの広報誌 第277号 64年の歴史に幕 瀬底中学校閉校式典 (FlipperMaker)”. 本部町企画政策課. p. 7 (2012年3月30日). 2013年2月16日閲覧。
  26. ^ 『沖繩大百科事典 下巻』「ムンジュル笠」(1983年)p.645
  27. ^ 瀬底土帝君”. 文化庁. 2013年2月16日閲覧。
  28. ^ 『沖繩大百科事典 中巻』「シヌグ」(1983年)p.317
  29. ^ “迫力満点 瀬底でピージャーオーラサイ”. 琉球新報. (2012年5月16日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-191257-storytopic-5.html 2013年3月14日閲覧。 
  30. ^ 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底島の方言」(1983年)p.568
  31. ^ a b 沖縄の港湾 本部港 (PDF)”. 沖縄県土木建築部港湾課 (2009年10月). 2013年2月16日閲覧。
  32. ^ 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底大橋」(1983年)p.568
  33. ^ a b c 『角川日本地名大辞典』「瀬底大橋」(1991年)p.423
  34. ^ a b c 復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声 (PDF)”. 一般社団法人 沖縄しまたて協会. pp. 68 - 69 (2002年10月). 2013年2月16日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]