迅鯨 (潜水母艦)

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迅鯨
艦歴
計画 1920年度(八八艦隊案
起工 1922年2月16日
進水 1923年5月4日
就役 1923年8月30日竣工
喪失 1944年10月10日戦没
除籍 1944年11月10日
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:5,160英トン
公試:7,678トン
全長 125.4m
全幅 水線幅:16.215m
吃水 6.283m
機関 ロ号艦本式缶6基
パーソンズ式ギアードタービン2基
2軸 7,500馬力
速力 16ノット(計画)[1]
航続距離 10,400カイリ / 14ノット
燃料 石炭:402トン
重油:2,047トン[2]
乗員 364名
兵装 50口径三年式14cm連装砲2基
40口径三年式7.6cm単装高角砲2基
航空機 水上偵察機1機(1930年以降)[3]
その他 補給用重油:1,900トン
予備魚雷40本[4]

迅鯨(じんげい)は、大日本帝国海軍潜水母艦で、迅鯨型潜水母艦の1番艦。

概要[編集]

八八艦隊案で建造された本艦は1923年(大正12年)8月に竣工、佐世保鎮守府籍となった。日本海軍で初めて潜水母艦(予備魚雷や糧食を搭載した補給艦)として建造された艦だったが、この時まだ書類上では潜水母艦の類別がなく水雷母艦とされた。翌1924年(大正13年)12月1日の改訂で水雷母艦の類別は潜水母艦と変更され本艦もそのまま移行、名実共に潜水母艦となった。同日に第1艦隊第1潜水戦隊に編入され、主に中国方面で活動した。

昭和に入り伊号潜水艦が主力となると、元々呂号潜水艦を想定していた本型では母艦能力が不足となった。また艦齢15年を超え、新鋭艦「大鯨」「剣埼」の竣工となったため、1939年(昭和14年)11月より練習艦となった。しかしその2艦の空母改装により翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。

開戦時には第四艦隊第七潜水戦隊旗艦として呂六〇型潜水艦9隻と共にクェゼリンに進出し潜水艦作戦の支援を行った[5]。第七潜水戦隊司令官として「迅鯨」に将旗を掲げていた大西新蔵少将は、呂六〇型潜水艦の艦内環境は最悪で、南洋での長期行動には堪えられなかったと回想している[6]。また「迅鯨」乗組員の錬度も低く、前任が戦艦長門」艦長だった大西は「潜水艦育ちの人達には、凡そ縁遠い訓練なるが如く、司令官自ら砲戦を主宰するの要なり」と苛立っていた[7]

1942年(昭和17年)2月1日に米空母「ヨークタウン」と「エンタープライズ」がマーシャル諸島を空襲した際には、トラック泊地に停泊しており無事だった[8]。その後「迅鯨」は日本に戻り、4月18日のドーリットル空襲横浜浅野ドックで迎えた[9]。「迅鯨」に被害はなかった。5月2日に横須賀を出港、5月9日トラック泊地に進出する[10]。7月14日に第8艦隊が新設されると第7潜水戦隊は第4艦隊から第8艦隊へ移動し、本艦もトラックラバウル方面へ進出し作戦支援を行った。1943年(昭和18年)1月15日に海軍潜水学校練習艦となり、以降は瀬戸内海で訓練に従事した。

1944年(昭和19年)8月より沖縄方面への輸送任務に就くこととなり同方面とを往復した。同年9月19日佐世保港を出港し那覇に向かったが潜水艦の雷撃を受け航行不能となる。沖縄本島西の瀬底島まで曳航されたが、10月10日にアメリカ第38任務部隊による十・十空襲に遭遇して沈没した。

船体は1952年(昭和27年)に浮揚され北九州で解体された。

兵装の変遷[編集]

航空機は1930年(昭和5年)度より一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[3]

8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。大戦中の機銃増備は明らかでないが艦橋前に25mm機銃連装2基、その他同単装機銃10挺を増備していたとされる[11]。また21号電探が前部マストのトップに装備された。

艦歴[編集]

  • 1922年(大正11年)2月16日 三菱長崎造船所にて起工
  • 1923年(大正12年)5月4日 進水
  • 1924年(大正13年)12月1日 潜水母艦に艦種変更、第1艦隊第1潜水戦隊旗艦
  • 1933年(昭和8年)11月15日 第2艦隊第2潜水戦隊旗艦
  • 1934年(昭和9年)11月15日 予備艦となる。この時に復元性向上のための改装を受けたと推定される
  • 1935年(昭和10年)11月15日 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦
  • 1936年(昭和11年)12月1日 第2艦隊第2潜水戦隊旗艦
  • 1937年(昭和12年)12月1日 第1艦隊第1潜水戦隊旗艦
  • 1938年(昭和13年)9月15日 第5艦隊付属第2根拠地隊
    • 12月15日 予備艦になる
  • 1939年(昭和14年)6月1日 横須賀鎮守府籍へ転籍
    • 11月15日 練習艦になる
  • 1940年(昭和15年)11月15日 第4艦隊第7潜水戦隊旗艦
  • 1941年(昭和16年)12月8日 開戦時はクェゼリンで作戦支援
    • 12月29日 座礁した呂60の乗員を救助
  • 1942年(昭和17年)7月14日 第8艦隊第7潜水戦隊に編入。以降ラバウル方面へ進出
  • 1943年(昭和18年)1月15日 呉鎮守府部隊に編入。海軍潜水学校練習艦となり訓練に従事
    • 10月16日から19日 航行不能の「間宮」の救助作業にあたり、呉まで曳航する
    • 12月1日 呉潜水戦隊に編入
  • 1944年(昭和19年)8月11日 呉港を出港し南西諸島方面の輸送作戦に従事
    • 9月19日 4回目の輸送作戦で佐世保から那覇へ向かう途中、潜水艦の雷撃を受け航行不能、沖縄本島へ曳航される。
    • 10月10日 沖縄本島西岸の瀬底島付近で敵機の攻撃を受け沈没(十・十空襲
    • 11月10日 除籍
  • 1952年(昭和27年)2月17日 浮揚作業開始
    • 7月7日 浮揚
    • 9月6日 北九州市戸畑港に回航され解体着手

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. 神代護次 大佐:1923年5月1日 -

艦長[編集]

  1. 神代護次 大佐:1923年8月30日 -
  2. 高崎親輝 大佐:1924年12月1日 -
  3. 瀧田吉郎 大佐:1925年10月20日 -
  4. 小森吉助 大佐:1926年11月1日 -
  5. 和波豊一 大佐:1927年11月15日 -
  6. 河村重幹 大佐:1928年12月10日 -
  7. 出光万兵衛 大佐:1929年10月3日 -
  8. 寺本武治 大佐:1929年11月30日 -
  9. 大崎義雄 大佐:1930年11月15日 -
  10. 小松輝久 大佐:1931年11月14日 -
  11. 鋤柄玉造 大佐:1932年12月1日 -
  12. 樋口修一郎 大佐:1933年10月20日 -
  13. 加藤正 大佐:1934年10月9日 -
  14. 樋口修一郎 大佐:1934年10月22日 -
  15. 蓑輪中五 大佐:1935年11月15日 -
  16. 岡敬純 大佐:1936年12月1日 -
  17. 古宇田武郎 大佐:1937年12月1日 -
  18. 山崎助一 大佐:1938年12月15日 -
  19. 渡辺清七 大佐:1939年11月15日 -
  20. 佐藤四郎 大佐:1940年10月19日 -
  21. 大倉留三郎 大佐:1942年4月20日 -
  22. 佐藤敬三 大佐:1943年9月8日 -
  23. 大山豊次郎 大佐:1944年2月5日 -

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。
    大西は第七潜水戦隊司令官として、1941年8月11日「迅鯨」に着任、1942年7月14日転出。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年。 ISBN 4-584-17023-1

脚注[編集]

  1. ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる(『海軍艦艇史 3』p270。
  2. ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
  3. ^ a b 航空機の搭載時期については『写真 日本の軍艦 第13巻』p95から「1930年より搭載」とした。『海軍艦艇史3』の巻末表によると「1928年より搭載」。
  4. ^ #海軍生活放談482頁
  5. ^ #海軍生活放談473頁
  6. ^ #海軍生活放談477頁
  7. ^ #海軍生活放談479頁
  8. ^ #海軍生活放談482頁
  9. ^ #海軍生活放談489頁
  10. ^ #海軍生活放談491頁
  11. ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p96による。

関連項目[編集]

  • 迅鯨 [I] (外海用御召艦)