走島

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走島
鞆の浦の防波堤から走島を望む
座標 北緯34度20分36.1秒
東経133度26分22.8秒
面積 2.09[1] km²
海岸線長 7.8[2] km
最高標高 180 m
所在海域 瀬戸内海備後灘
所属国・地域 日本の旗日本広島県
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本浦地区の走島港

走島(はしりじま)とは、瀬戸内海のほぼ中央部、備後灘に浮かぶのひとつ。行政上は福山市役所鞆支所の管轄地域(広義の鞆地域)内となる。

概略[編集]

走島の人口は福山市の統計によれば、2010年2月末現在で324世帯739人である[3]。島内は、連絡船桟橋や市役所の支所分所・漁協・農協等の公的機関が設置されている中心地本浦地区、海水浴場と漁港のある唐船地区、漁港のある浦友地区、の3地区に分かれる。

来島者は釣りや海水浴といった海に関するレジャー目的が多い。定期船の数は1日5往復あり、鞆港からの始発が午前8時、走島からの最終便が午後5時20分となっているため、これを利用する場合は日帰りで最長9時間滞在することができる。なお、島内には数件の民宿がある。

産業[編集]

島の主要な産業は漁業であり、全就業者の内、漁業に従事する者の割合が過半数を占める[4]。漁獲量は県内でも有数であり、特にカタクチイワシ漁・海苔養殖が盛んである[5]

歴史[編集]

備後の地誌『備陽六郡志』に記述された伝説によれば、かつて走島には現在の唐船地区の沖合いに大きな潮待ちの港があり、瀬戸内海を東西に結ぶ中継点として繁栄しており、特に室町時代には倭寇の拠点となっていたという。しかし大きな地震によって海中に没したとある。同書によれば波の穏やかな日には海中に没した遺跡が見えたとされるが、現在では確認することは出来ない。

走島への確実な入植は、江戸時代初期のことで、村上氏が付近の鍛冶屋島、袴島、宇治島の3島とともに備後福山藩の藩主であった水野氏から拝領し、家臣4家と百姓13家族が1623年(元和9年)に入島したのが始まりとされる。この村上氏の本家屋敷は3000坪にも及ぶ広大なもので、多くの建物があった。しかし、昭和時代初期に村上氏が没落し、ほとんどの建物は取り壊され、他の島民の住宅が建てられており、現在では本家母屋と小規模な門だけが残っている。

1889年(明治22年)に行われた市町村制施行に伴い、走島は付近の島々とともに広島県沼隈郡走島村となったが、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)7月1日に、田尻村とともに同じ郡内の鞆町と合併し沼隈郡鞆町走島となった。さらに、1956年(昭和31年)9月30日鞆町が隣接する福山市に編入され、現在の福山市走島町となった[6]


交通アクセス[編集]

連絡船「神勢丸」

走島を結ぶ交通アクセスとしては、福山市鞆港の県営桟橋から本浦地区へ、走島汽船による定期連絡船がある。先代の「第35神勢丸」の引退まで、三輪以上の自動車を載せることはできなかったが、2012年4月7日から、カーフェリーが就航し、鞆の浦から自家用車で直接島内に乗り入れ可能となった[7]

現在は1日5往復発着しており、自動車自動二輪車、自転車、手荷物を載せることができる。航路全長は約7Km、所要時間は約30分である [8]

島内には、タクシーバスといった公共交通機関は存在しない。

なお、定期連絡船の乗船場から最も遠い唐船地区までは徒歩で40分程度を要する。

島内にある施設[編集]

福山市役所鞆支所走島分所

名所・旧跡・観光地[編集]

  • 村上庄屋旧宅
  • 唐船天女浜海水浴場
  • 白城稲荷神社

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『平成12年全国都道府県市区町村別面積調査』(国土交通省国土地理院)
  2. ^ 『平成12年海岸統計調査』(国土交通省河川局)
  3. ^ 福山市役所
  4. ^ 平成12年の国勢調査における漁業従事者の割合は約65%
  5. ^ 『SHIMADAS』財団法人日本離島センター、2004年、387-388頁
  6. ^ 福山市市域の変遷
  7. ^ 雑記帳:待望のカーフェリー 広島・走島に就航 毎日新聞2012年4月8日配信
  8. ^ 走島汽船運賃