菅島
| 菅島 | |
|---|---|
上空から見た菅島(中央)。その右は坂手島と鳥羽港。右下は答志島。 |
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| 面積 | 4.52 km² |
| 海岸線長 | 13.0 km |
| 最高標高 | 236 m |
| 最高峰 | 大山 |
| 所在海域 | 伊勢湾 |
| 所属諸島 | 志摩諸島 |
| 所属国・地域 | |
菅島(すがしま)は、三重県鳥羽市沖、伊勢湾口に位置する東西に長い島である。一島の住所表記は「鳥羽市菅島町」であり、郵便番号は517-0004。
人口741人、世帯数:208世帯(2005年国勢調査)で、島の面積4.52km2は、三重県では答志島に次いで第2位である。同じ鳥羽市内の相差(おうさつ)、志摩市の志摩町和具と並んで海女の多い地域として知られる[1]。
本項では本島にかつて存在した菅島村(すがしまむら)についても記す。
目次 |
地理 [編集]
本土の鳥羽市鳥羽の沖合東3kmに浮かぶ[2]有人島で、北に答志島、西に坂手島、北西に神島がある。
平地が乏しく、集落は菅島漁港がある島の北東岸に集まっている[3]。伝承によれば、初め笹谷(おがや)に中心集落ができたが疫病が流行したため打越(うちこせ)に移り、打越が津波被害を受け現在の位置に移ったという[4]。現在の集落は中村(なかむら)・正村(しょむら)・根村(ねむら)などに分かれる[4]。
小・中学校の学区 [編集]
かつては菅島小学校に隣接して菅島中学校も置かれていたが、1979年(昭和49年)に新設の鳥羽東中学校に統合された。
歴史 [編集]
中世まで [編集]
島の西部にある福浦で縄文土器や弥生土器、古墳が発見されており、太古の時代から人々の居住があったことが分かっている[3]。古代には、
菅島の夏身の浦に寄する波間も置きて吾が思はなくに
— 万葉集巻11
と詠まれた島で、鎌倉時代初期に順徳天皇が著した歌学書『八雲御抄』でも取り上げている[3][注 1]。西行法師は『山家集』に
からすさぎの浜の小石と思ふ哉白も交らぬ菅島の黒
など菅島や答志島を詠んだ数首の和歌を載せている[3]。この歌は答志島の白い小石の浜と菅島の黒い小石の浜を対比して詠んだものである[4][3]。鵜方町(現・志摩市阿児町鵜方)の中村精貮は、「あまりうまくもない歌」と評している[6]。
『吾妻鏡』の建久元年4月19日(ユリウス暦:1190年5月24日)条には「菅嶋(本宮御料)」、『神鳳鈔』には「須賀島」とある[4]。『外宮神領給人引付』に「菅嶋御厨」とあり、伊勢神宮・豊受大神宮(外宮)の御厨であった[3]。中世には志摩13地頭の1人である菅島能登が島を治め、小字城山には菅島城跡がある[3]。菅島城は永禄年間(1558年 - 1570年)に九鬼嘉隆によって攻め落とされた[4]。
近世 [編集]
江戸時代には菅島村として志摩国答志郡小浜組に属し、鳥羽藩の配下にあった。 船数は62艘で、鯛・ふくだめ塩辛・海栗・中海老・アワビ・洗ふのり・煮荒布・潮和布・黒砂浜などを上納した[3]。1673年(延宝元年)に河村瑞賢の建議により江戸幕府の命で「御篝堂(おかがりどう)」が築かれた[7]。経費は幕府持ちで、浦賀奉行から支出されたが、明和8年(1771年)より江戸金庫に変わった[3]。幕末には鳥羽藩が大日山に砲台を築いている[4]。
近代以降 [編集]
| 菅島村 | |
|---|---|
| 廃止日 | 1954年11月1日 |
| 廃止理由 | 新設合併 鳥羽町、加茂村、長岡村、鏡浦村、桃取村、答志村、菅島村、神島村 → 鳥羽市 |
| 現在の自治体 | 鳥羽市 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 | |
| 地方 | 近畿地方、東海地方 |
| 都道府県 | 三重県 |
| 郡 | 志摩郡 |
| 総人口 | 1,145人 (1950年国勢調査) |
| 隣接自治体 | 鳥羽町(航路を介して) |
| 菅島村役場 | |
| 所在地 | 〒517 三重県志摩郡菅島村 |
| 座標 | 北緯34度29分56.6秒 東経136度54分1.8秒 / 北緯34.499056度 東経136.900500度座標: 北緯34度29分56.6秒 東経136度54分1.8秒 / 北緯34.499056度 東経136.900500度 |
| ウィキプロジェクト | |
1873年(明治6年)7月1日 、御篝堂は「日本の灯台の父」と呼ばれるお雇い外国人リチャード・ブラントンにより洋式灯台として再建され、菅島灯台となる[7]。灯台の竣工式には、西郷隆盛をはじめとする政府高官が列席したという[8]。現在灯台は無人化されているが、当時は職員がおり、付属官舎もあった。この官舎は愛知県犬山市の博物館明治村に移築・保存されている[7]。1889年(明治22年)の町村制施行により、菅島は答志村の1大字となるが、1897年(明治30年)に分村し、菅島単独で村制を敷くことになる。1918年(大正7年)には沢田惣四郎が鳥羽町との間に定期船を就航させ[9]、1927年(昭和2年)に西村幸十郎も同区間に定期航路を設定した[10]。1928年(昭和3年)には島の南部に蛇紋岩の採石場が開かれ、1919年(昭和14年)に名古屋帝国大学臨海実験所が建設された[4]。現在は名古屋大学大学院理学研究科の付属施設であるが、開設当初は医学部の付属施設であった[11]。
1954年(昭和29年)、鳥羽町などと合併、菅島町となった[4]。1975年(昭和50年)より本土から送水が始まった[12]。2000年(平成12年)度には、神島と同時に近畿自然歩道が環境庁(当時)によって整備された[13]。
沿革 [編集]
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、答志郡答志村大字菅島となる。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 答志郡が英虞郡と合併し、志摩郡答志村大字菅島となる。
- 1897年(明治30年)5月31日 - 志摩郡菅島村として独立。大字は設定せず。
- 1954年(昭和29年)11月1日 - 昭和の大合併により、鳥羽市菅島町となる。
地名の由来 [編集]
文字通り「菅(すげ)の生育する島」との解釈も可能であるが、中村精貮は菅島を印象付ける景観はスゲではなく砂浜であるとして、「ス(洲)+カ(処)=砂のあるところ」であるとした[6]。傍証として、スガ・スカと読む地名は横須賀、赤須賀、天ヶ須賀など須賀と表記することが多く、『神鳳鈔』で「須賀島」と記されていることから、横須賀などと同じく砂浜に由来するものと考えられる、と中村は述べた[14]。
人口の変遷 [編集]
| 統計年次〔年〕 | 世帯数〔世帯〕 | 総人口〔人〕 | 出典 |
| 延享2(1745) | 102 | 403 | 『鳥羽領内村々禄高調』[3] |
| 明治13(1880) | 85 | 415 | 『海陸産物一覧表』[3] |
| 明治41(1908) | 110 | 683 | 『日本地名大辞典 24三重県』[4] |
| 昭和40(1965) | 213 | 1,217 | 『日本地名大辞典 24三重県』[4] |
| 昭和55(1980) | 232 | 1,088 | 昭和55年国勢調査[12] |
経済 [編集]
主に水産業と観光業が行われている。サメのたれ、イセエビの干物、干しワカメが島の特産物である[15]。
2000年(平成12年)の国勢調査によると、島内就業者の40.0%にあたる167人が漁業に従事し[16]、伊勢えびやアワビ、海苔などを獲っている。農業が2人(0.5%)、造船・鉱業などの第二次産業が65人(15.7%)、観光業を主とした第三次産業が180人(43.6%)、その他(分類不能の産業)が1人(0.2%)となっている[13]。
2002年(平成14年)4月1日現在、菅島には2軒の民宿と6軒の旅館があり、合計で322人が宿泊可能である[13]。島を訪れる観光客は61,700人(2001年度)で、1992年度の87,500人に比べ、約30%減少している[13]。
採石場と環境問題 [編集]
菅島の採石場は、島の西部にありかんらん岩を採取している。住民からは「石切り場」とも呼ばれる。鶴田石材株式会社菅島工場が採石事業を営むが、土地自体は鳥羽市の公有地及び菅島町内会が入会権を持つ入会地である[17]。このため、市と町内会は土地使用料(以前は採石料)収入を得ているが、1m3あたり5,750円で販売される石材がわずか80円で売却する契約になっていることや、地域の産業や環境への悪影響が問題視されている[17]。
事業者 [編集]
菅島の採石場を営んでいるのは、愛知県名古屋市熱田区に本社を置く鶴田石材株式会社(つるたせきざい、英称:TSURUTA SEKIZAI CO., LTD.)である。三重県鳥羽市菅島町429の1にある菅島工場は、同社の主力工場であり、かんらん岩を採石・破砕し、東海地方や関東地方へ専用船で出荷している[18]。敷地面積は1,293,000m2、年間350万tの石材を産出する[18]。石材は、新幹線のバラスト(敷石)や中部国際空港の空港島埋め立て[19]、静岡県の富士海岸で海岸侵食防止のための養浜材などに使われた[20]。この工場は、2007年(平成19年)度に優良採石事業所として、中部経済産業局長から表彰を受けている[21]。
採石場の歴史 [編集]
現在の採石場のある土地は、江戸時代まで島民が樹木の伐採や開墾など自由に行えたが、明治時代に皇室財産(御料地)とされ、利用が不可能となった。そこで島民は土地の払い下げを何度も願い出て1913年(大正2年)にようやく払い下げが実現した。しかし、その費用負担は当時の菅島村にとって重く、銀行から資金を借りる、村民に細かく土地を分筆して売却するなどの手段で何とかまかなった。採石事業は大正時代より行われていた[17]が、1930年(昭和15年)1月30日、菅島村と鶴田石材の間で石材採取契約が締結された[22]。
1954年(昭和29年)、昭和の大合併の際に菅島村は鳥羽市へ上述の払い下げ地の一部にあたる菅島町429番地の67を提供した。この時点で菅島町429番地の67に対する菅島町内会の入会権は消滅したと市は考えていたが、早稲田大学教授の黒木三郎の『菅島地区入会調査報告書』では「地役入会権が存続する限り、市は入会権の行使を妨げることはできない」としており、実際に鶴田石材は菅島町429番地の67に対する土地使用契約を鳥羽市と菅島町内会の双方と締結している。
1968年(昭和43年)、鳥羽市は鶴田石材に1m3あたり20円で石材を売却する契約を結ぶが、1980年(昭和55年)12月31日をもって採石を終了することを1978年(昭和53年)3月議会において全会一致で決定した。しかし、1979年(昭和54年)2月と1983年(昭和58年)9月に採石現場で地すべりが発生した。この地すべりでは、付近にある名古屋大学の臨海実験所に落石が直撃しそうになったという。原因が採石によるものである、という結論が出ると市は、地すべり対策を業者に履行させるとして、事実上の採石続行を認めることにした。その後、市議会の終結決議と市当局の契約延長提案が繰り返され、20世紀が終わるまで採石は行政の許可の下、継続された。
緑化の動き [編集]
1985年(昭和60年)頃より大規模な採石で岩肌がむき出しになった様が市民に注目され始め、平成に入ってから市議会でも自然の修復・山肌緑化を求める声が上がり始めた[17]。また、菅島を訪れたウッズホール海洋研究所所長のジェームス・エバート(James D. Ebert)教授は採石場を目にして「これはひどすぎる。君らは美しい日本の自然を破壊者どもにゆだねておくのかと言った。菅島が荒廃の果てに消滅する前に、再生の余力を持っている間に、緑の島に返さねばならない。」と語ったという[17]。市議会では、採石料・入会地・貴重な自然など多数の問題が明らかになった[17]。これにより、市はようやく重い腰を上げ、2002年(平成14年)10月に検討委員会で菅島に自生する植物で緑化することを決めた[23]。三重県が2003年(平成15年)度から2012年(平成24年)度を対象年度として作成した『離島振興計画』でも、将来的な採石の終結、法面保護と菅島の在来植物による修景・自然の回復を図ることが明記された[24]。2003年(平成15年)には2014年(平成26年)春までに緑化を完了する契約を市と業者が締結した[25]。計画の進捗は遅れているものの、少しずつ自然の回復に向けて動き出している[25]。
しろんご祭り [編集]
しろんご祭り(しろんごまつり)は菅島を代表する海女の祭りである。2009年(平成21年)4月10日に国土交通省により、島の宝100景に選定された[26]。
毎年7月11日(かつては旧暦の6月11日[3])に開催され、海女らが雌雄つがいのアワビを誰が一番早く獲れるかを競い、勝者は1年間菅島の海女頭となる。獲ったアワビは近くの白髭神社(しらひげじんじゃ、通称:しろんごさん)に奉納される。祭りの名前「しろんご」は「白髭神社」が訛ったものとされる[4]。
交通 [編集]
- 島外との連絡
- 鳥羽市の中之郷桟橋(中之郷駅前)または佐田浜桟橋(鳥羽駅前)から鳥羽市営定期船で約15分。運賃は2010年10月現在、大人490円、小人250円。1日7往復運航されている。
- 島内
- 島内には公共交通機関はない。島民は徒歩・自転車・オートバイで移動するほか、漁船を用いることもある。商店や旅館・民宿では軽トラックや送迎用車両を所有している場合もある。
施設 [編集]
- 名古屋大学大学院理学研究科附属臨海実験所
- 鳥羽市役所菅島連絡所
- 鳥羽市立菅島診療所
- 鳥羽市立菅島小学校
- 鳥羽市立菅島保育所
- 鳥羽志摩農業協同組合鳥羽支店あぐり菅島
- 鳥羽磯部漁業協同組合菅島支所
- 鳥羽菅島郵便局(無集配局)
史跡 [編集]
- 菅島神社 - 小字宮山[4]、菅島小学校・菅島保育所に隣接。八王子社・八幡神社を合祀して創建[4]。1月17日に弓祭りがある[27]。20年に一度、遷宮と御木曳を行う[15]。
- 水洞山冷泉寺 - 小字中村谷にある曹洞宗の寺院で、1634年(寛永11年)創建[4]。1344年(康永3年)の鰐口と、1640年(寛永17年)の鉦鼓がある[4]。本尊は阿弥陀如来[4]。菅島では両墓制が維持されており[28]、寺の裏手の山に詣り墓がある。島内には菅島山海福寺もあったが、1873年(明治6年)に廃寺になっている[4]。
- 菅島灯台
- 監的哨跡
その他 [編集]
脚注 [編集]
- 注釈
- 出典
- ^ 青野(1953):6ページ
- ^ 百五銀行"すばらしきみえ/菅島灯台"(2010年10月12日閲覧。)
- ^ a b c d e f g h i j k l 平凡社(1983):722ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):615ページ
- ^ 鳥羽市教育委員会学校教育課."市内幼稚園、小・中学校一覧"(2010年10月12日閲覧。)
- ^ a b 中村(1951):4ページ
- ^ a b c 井上しげみ(1997)"海上交通支えた菅島の御篝堂と灯台"三重県生活・文化部文化振興室県史編さんグループサイト内(2010年10月12日閲覧。)
- ^ 第四管区海上保安本部"第四管区海上保安本部 菅島灯台"(2010年10月12日閲覧。)
- ^ 鳥羽市史編さん室(1991):228ページ
- ^ 鳥羽市史編さん室(1991):304ページ
- ^ 名古屋大学大学院理学研究科附属臨海実験所."名古屋大学大学院理学研究科附属 菅島臨海実験所/実験所の歴史"(2010年10月12日閲覧。)
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1983):1242ページ
- ^ a b c d 三重県"第1章Ⅱ-8.観光の現況"
- ^ 中村(1951):4 - 5ページ
- ^ a b "歩こう 鳥羽市"中日新聞2012年11月3日付朝刊、三紀24ページ
- ^ 三重県."第1章Ⅱ-3.産業の現況"
- ^ a b c d e f 戸上幸子."菅島砕石"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ a b 鶴田石材株式会社."菅島工場 紹介"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 百五銀行."すばらしきみえ"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 川邉禎久(2003)"火山学者に聞いてみよう-トピック編-"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 中部経済産業局資源エネルギー環境部鉱業課"優良採石事業所等中部経済産業局長表彰"
- ^ 鳥羽市(2007)"鳥羽市観光基本計画―資料編別冊―鳥羽の観光史略年表"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 志摩半島野生生物研究会(2003)"三重の生き物だより第16号"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 三重県"第2章振興の基本的方針と目標"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ a b 戸上幸子(2007)"さちこ日記/菅島緑化を議会が視察"(2010年10月11日閲覧。)
- ^ 中日新聞朝刊(2009年4月11日付)
- ^ 三重県観光連盟(2009)"弓祭り(菅島神社) 鳥羽市のイベント情報|観光三重"
- ^ 関野らん(2008)"祭祀儀礼からみる集落の空間構造に関する研究-三重県菅島を事例として-".東京大学社会基盤学科景観研究室 2008年論文要旨(2010年10月12日閲覧。)
- ^ 花咲かタイムズ
参考文献 [編集]
- 青野壽郎『漁村水産地理学研究[2]』青野壽郎著作集Ⅱ、昭和28年6月25日、古今書院、382pp.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643pp.
- 鳥羽市史編さん室『鳥羽市史 下巻』鳥羽市役所、平成3年3月25日、1347pp.
- 中村精貮『志摩の地名の話』伊勢志摩国立公園協会、昭和26年11月3日、167p.
- 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社、1983年5月20日、1081pp.
- 三重県政策部地域づくり支援室『三重県離島振興計画(平成15年度~24年度)』