江の島
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江の島(えのしま、 江ノ島)は神奈川県藤沢市にある周囲4km標高60mほどの陸繋島である。このあたりの丘陵地と同様に凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質である。古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた。関東地震で島全体が隆起して以降は地続き傾向にある。対岸の片瀬川河口付近の形状が時代とともに変遷し、満潮のときのみ冠水した時期、常時陸続きとなった時期とあり、砂嘴の位置も移動している。湘南のシンボルでもある。神奈川県指定史跡・名勝、日本百景。
目次 |
[編集] 歴史
- 元々は陸続きであったが侵食、海進により島となった。縄文時代の住居跡や石器が発見されている。
- 「江ノ島縁起」(伝承)によれば、欽明天皇13年(552年)4月に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられている。
- 江の島は天武天皇元年(672年)、役小角が開基したといわれる。以来、島全域が聖域として扱われ、寿永元年(1182年)に源頼朝が弁才天を勧請し、鳥居を奉納したのを始め、多くの要人が参拝したと言われる。
- 室町時代の宝徳2年(1450年)、関東管領上杉氏重臣長尾景仲による鎌倉公方足利成氏政権転覆の計画が明らかとなり、鎌倉を脱出して江の島に逃れた成氏とこれを追跡してきた景仲の間で江の島を巡って攻防戦が行われた(江ノ島合戦)。
- 永正元年(1504年)には、北条早雲が、江の島に軍勢の乱妨狼藉を禁止する制札を出した。
- 天文18年(1549年)には、北条氏康が、上之宮および下之宮の修造に際し、白糸20斤を寄進した。
- 天文20年(1551年)には、北条綱成が、江の島岩屋内における鳩の殺生を禁止した。
- 戦国時代は後北条氏によって庇護され、慶長5年(1600年)には徳川家康が、延宝2年(1674年)には徳川光圀も参拝した。
- 江戸時代には、手軽な観光地として江戸から多くの町民が訪れにぎわった。特に弁才天は音曲をつかさどる神として知られたため、検校など盲人音楽家や歌舞伎役者なども数多く参拝した。
- また盲目であった杉山和一が管鍼術(鍼治療の一種)に開眼した場所として知られ、盲人の信仰も厚かった。東海道藤沢宿から江の島に至る「江の島道」と呼ばれる道筋には、和一により寄進された道標が数基現存している。
- 明治10年(1877年)には、エドワード・S・モースが、江の島に江ノ島臨海実験所を設営した。
- 江の島の頂上部には植物園があった。これは与願寺(よがんじ)の菜園だったのを明治2年(1869年)に来日した英国人貿易商のサムエル・コッキングが買い取って別邸の付属庭園として造営したものを起源としている。コッキングの庭園は関東大震災で崩壊したが、その後整備され、現在は江の島サムエル・コッキング苑として公開されている。
- 1889年、対岸の片瀬村と合併し、鎌倉郡川口村となる。1933年、町制を施行し、鎌倉郡片瀬町に。1947年、藤沢市に編入されて現在に至る。
- 1934年12月18日、「江ノ島」の名称で、国指定の史跡および名勝となる[1]。
- 江の島の奥には岩屋と称する洞窟があり、古く「富士や猿島の風穴と繋がっている」という伝説があった。1948年3月7日に落石事故が発生し、崩落の危険があったため、数十年にわたり閉鎖したが、調査・整備の後、現在は拝観可能となっている。
- 1964年の東京オリンピック時にはヨット会場になった。この指定を受けて島の東部を大幅に埋め立て、湘南港を建設するために1960年6月10日、文化財専門委員会は「江ノ島」の国指定名勝史跡指定解除を決め、同年6月29日に名勝および史跡の指定は解除された[2]。たが、同年10月14日に神奈川県が県指定史跡・名勝とした。湘南港建設のために1962年、神奈川県道305号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」が開通し、「江の島弁天橋」の通行料が無料となった。
- 2003年には、1951年に建てられた、江の島灯台が建て替えられ、江の島展望灯台として新たにオープンした。尚、この展望灯台の所有者は江ノ島電鉄である。
[編集] 施設
[編集] 交通
- 1216年:干潮時に徒歩で江の島に行けるようになる。
- 1897年:村営(当時は川口村)で、初めて橋が架けられる。往復3銭徴収。
- 1930年:橋が県営になる。往復2銭徴収。
- 1949年3月:橋桁がコンクリート製、上部が木製の橋に改築し、一般公募により「江の島弁天橋」と命名。往復大人5円、子供3円徴収。
- 1958年:鉄筋コンクリート製(全長389m、幅4m)の現在の江の島弁天橋が架けられる。
- 1962年:自動車専用の江の島大橋(神奈川県道305号江の島線)が架けられ、江の島弁天橋は人道橋となり、料金徴収を廃止する。
[編集] 鉄道
- 最寄り駅
- 利用目的によっては有用な駅。
- 江ノ島電鉄江ノ島駅(徒歩12分)
- 湘南モノレール江の島線湘南江の島駅(徒歩15分)
[編集] バス路線
[編集] 道路
国道134号より、江の島弁天橋(歩行者、自転車専用)と自動車専用道路神奈川県道305号江の島線(江の島大橋)がある。
[編集] 江の島の地域猫
80年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになった。なお猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れない。島内の至る所で猫が無防備な姿でいるため、猫好きの人間もよく訪れる。
一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがある。餌場をつくり猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められている。いわば島民一体になって野良猫の地域猫化を進めていると言えよう。
[編集] 地名表記
しばしば表記が揺れる「江ノ島」と「江の島」だが、1966年10月の藤沢市が行った住居表示の改訂(この前後に行われた改訂で藤沢市内の地名の送りがなは全てひらがなに統一された)により正式な地名としているのは「江の島」である。これは時代によってその表記が「江乃島」「江之島」「江ノ島」「江の島」などと変わっていることにも起因している。 なお、江ノ島電鉄や小田急江ノ島線の駅名はそれぞれ「江ノ島駅」「片瀬江ノ島駅」であるが、湘南モノレールの駅名は「湘南江の島駅」となっている。一方、神社名は江島神社で「えのしまじんじゃ」と読ませる。また、「柄島」「絵島」という表記も見られた。
[編集] 文化
[編集] 音楽
- 『江ノ島の曲』- 山田流箏曲、1777年(安永6年) 山田検校作曲。江戸で活躍した盲人音楽家、山田検校(1757年(宝暦7年)- 1814年(文化14年))の処女作品。この曲において浄瑠璃を取り入れた当時では新しいスタイルの箏曲を確立、山田流を創始した。初夏の江ノ島の風景をうたい、貝の名を連ねた「貝づくし」や竜の口の伝説などを織り交ぜつつ弁財天の神徳を讃えた曲。
- 『春の江ノ島』- 箏曲、1935年(昭和10年) 富崎春昇(とみさき しゅんしょう) 作曲、笹川臨風作詞。江島神社亥歳大祭に奉納するため作曲された。江ノ島、湘南ののどかな春景色と弁財天の神徳を詠っている。手事物形式で手事は二段あり互いに合奏できるほか、雅楽を模した「楽の手」が特徴的。作曲者により胡弓の手も付けられている。
- 『七里ヶ浜の哀歌』(真白き富士の嶺(根)) 作詞:三角錫子 作曲:ジェレマイア・インガルス。1910年(明治43年) 1月23日に起こった逗子開成中学のボート転覆事故の追悼大法会のために、系列校である鎌倉女学校 (現 鎌倉女学院) の数学教師だった三角錫子がインガルス曲の讃美歌に作詞し、鎌倉女学校生徒らにより、鎮魂歌としてこの歌が初演された。後にレコード化され、楽譜も出版されたため、演歌師らにより大流行し、多くの国民に「江の島」の存在を印象づけることとなった。
- 『竜恋譜』(グランド・オペラ) 原作:渡辺俊 作:堂本正樹 作曲:三枝成彰。1979年3月、藤沢市民オペラの第4回公演(藤沢市民会館開館10周年記念公演)で福永陽一郎指揮により初演された。市民創作オペラと銘打ち、「江嶋縁起」から題材を得て市民の渡辺俊が応募した作品を堂本正樹・三枝成彰の手でグランド・オペラに仕上げたもの。
[編集] 関連項目
- 岩本院
- 弁天小僧菊之助「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ、白浪五人男)」
- 江ノ島丼
- 岩屋洞窟
- サザンオールスターズ
- NAGISA (映画)
- 神奈川県指定文化財一覧#史跡名勝
- 江ノ島ベイビィラジオ
- タイヨウのうた
- 二子玉川園 - 旧江の島灯台は、戦前は東急二子玉川園のパラシュート塔(戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用)であったものが江ノ島鎌倉観光(株)により移築・転用されたものであった。

