菅原都々子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菅原 都々子(すがわら つづこ、1927年8月15日 - )は歌手である。本名は永松 都々子(ながまつ つづこ)。旧姓は菅原。通称「エレジーの女王」。非常に個性的なビブラート唱法が魅力で、数々の名曲を歌った。「NHK紅白歌合戦」の記念すべき歌唱者第一号として広く知られる(紅組のトップバッター。詳細は後述を参照。)
目次 |
[編集] 生い立ち
- 1927年8月15日 - 青森県上北郡三本木町(現・十和田市)に生まれる。父は浅草オペラ歌手の河合丸目郎(まるめろう)で、後に作曲家となる陸奥明。ただ、当時の陸奥は故郷に帰って新聞記者をしていた。
- 9歳の時にオーディションのために1人で上京させられて、その際に古賀政男に認められたことから「古賀久子」の名をもらい養女となる。
- 1937年 - テイチクエンタテインメントで養父・古賀が作曲した『お父さんの歌時計』でデビュー、同時に実父の陸奥も作曲家として上京。
- 1940年 - 養子縁組は解消。父・陸奥のもとにもどって「菅原都々子」として再デビュー、
- 1945年3月 - 父の母校である東洋音楽学校を卒業。
- 1946年10月 - 『片割れ月』
- 1948年10月 - 『踊りつかれて』
- 1950年2月 - 『憧れの住む町』
- 1951年
- 1952年
- 1月3日 - 『江の島悲歌』で第2回NHK紅白歌合戦に出場。
- 10月 - 『佐渡ヶ島悲歌(エレジー)』
- 1953年
- 12月31日 - 『佐渡ヶ島悲歌』で第4回NHK紅白歌合戦に出場。
- 1955年
- 4月 - 『月がとっても青いから』
- これはエレジーものが飽きられ始めたため、父・陸奥がイメージチェンジを賭けて売り出した曲。現在の市場規模の30分の1の時代、100万枚を超える[1]大ヒットとなり、この曲で歌手としての地位を不動のものに。
- 7月 - 『木浦の涙』
- 4月 - 『月がとっても青いから』
- 1956年
- 12月31日 - 『連絡船の唄』で第7回NHK紅白歌合戦に出場。この第7回の菅原の歌のラジオの音声が現存する。
- もともと物静かな性格だったためノイローゼにかかったことから第一線から退いて、テレビ番組やリサイタルを厳選して歌うようになる。
- 1961年6月 - 『北上夜曲』
- 1968年10月 - 『なみだ月』
- 1973年2月 - ベルリンオリンピックボクシング日本代表で、明治大学教授(当時)の永松英吉と結婚。
- 1979年11月 - 『風の又三郎』
- 1988年 - 歌手生活50周年記念リサイタル開催。
- 1992年11月18日 - 夫・永松英吉が急性心筋梗塞のため急死(79歳没)。
- 1996年
- 歌手生活60周年記念リサイタル開催。
- 9月 - 歌手生活60周年記念シングル『あなたが好き』
- 2006年
- 2007年1月7日 - NHK FM『日曜喫茶室』に出演。
[編集] 主なヒット曲
- 片割れ月(1945年)
- 憧れの住む町(1950年)
- アリラン(1950年)
- トラジ(1950年)
- 江の島悲歌(1951年)
- 連絡船の唄(1951年)
- 母千鳥の唄(1951年)共演:真木不二夫
- 憧れは馬車に乗って(1951年)
- 琵琶湖の宿で恋をして(1951年)
- 佐渡ヶ島悲歌(1952年)
- 恋のこけし人形(1952年)
- 夢去りし丘(1952年)
- 江の島夜曲(1953年)
- 上海エレジー(1953年)
- 悲恋椿(1953年)
- 博多エレジー(1953年)
- 胸に哀しい灯がともる(1953年)
- 江の島月夜(1954年)
- 海峡エレジー(1954年)
- 月がとっても青いから(1955年)
- 木浦の涙(1955年)
- セトナ愛しや(1956年)
- 島を出てゆく片帆船(1957年)
[編集] テレビ番組
[編集] 脚注
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、86-87頁。ISBN 4390116495

