北条時政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
北条時政
Hōjō Tokimasa.jpg
北条時政
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 保延4年(1138年
死没 建保3年1月6日(1215年2月6日
別名 北条四郎
戒名 願成就院明盛
墓所 伊豆の国市寺家願成就院
官位 駿河伊豆守護従五位下遠江
幕府 鎌倉幕府十三人の合議制京都守護、初代執権
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 桓武平氏北条氏
父母 父:北条四郎大夫時方、または時家
母:伊豆掾伴為房の娘
伊東入道の娘、足立遠元の娘、牧の方
宗時政子時子義時阿波局時房政範畠山重忠室、稲毛重成室、平賀朝雅室、三条実宣室、宇都宮頼綱室、坊門忠清室、河野通信室、大岡時親

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将伊豆国の在地豪族北条時方もしくは北条時家の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権

家系桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。

目次

家系 [編集]

桓武平氏高望流の平直方を祖と称する一族で、伊豆国北条庄を拠点とした北条氏の当主とも言われているが、時政はその傍流であったのではないかとの説もある。代々、伊豆国の在庁官人にて北条氏は伊豆介を務め北条介と通称し、他の介級の家柄と並んで関東八介ともいわれた。

しかし、『吾妻鏡』には「北条殿」と記されているのみでその「北条介」がどの程度のものであったのかは疑わしい。また『吾妻鏡』では時政のことを「豪傑」と記し、「」や都の官位等は何も表記していない。保有武力に関しても、石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り時政が他より突出した戦力を有していたとは言いがたい。

時政以前の系譜は系図によりすべて異なる。北条氏は自らの出自を明らかにする系図も残せない程度の豪族であったと考えることも可能である。その一方で、都で一定の官位を有していたが時政の数代前の先祖が婿入りして伊豆で北条氏を起こした都とのつながりを有する有力な豪族であったとの説もある。いずれにしても、時政以前の系譜は謎に包まれているというのが実態である。時政以降、多くの北条家分流が重臣として遇され、さらには御内人といわれる郎党出身者までが幕政に参与する中でも、時政以前の分流は一切歴史に姿を見せていない。しかし、頼朝との結びつきにより家格が上昇し、北条氏は鎌倉幕府の執権となる。

生涯 [編集]

頼朝の舅 [編集]

東国で威を振るった源義朝平治の乱で敗死したのち、14歳の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。娘の政子が頼朝の妻となった縁から、治承4年(1180年)の頼朝の挙兵に一族を率いて同陣し、鎌倉入りに尽力した。石橋山の戦いで敗れた頼朝一行が、山中に潜伏している最中、箱根権現の別当・行実が、頼朝を助けるべく弟の永実を山中に派遣し、時政と邂逅したのだが、その際、時政は「頼朝は既に討たれた」と虚偽の報告をし、永実に「頼朝殿が討たれたのであれば、貴殿も生きてはいられまい」と、虚偽の報告を喝破されたという話が伝わっている。

頼朝が鎌倉殿として東国の主となる一方、時政は頼朝の岳父として一定の敬意は払われたものの、遥かに規模の大きい有力御家人に囲まれ、また頼朝が彼らのバランスを取りながら独裁権をふるっていたため、政権の中枢を担うとは言えない立場であった。山木兼隆攻めの折、進軍の経路を巡り頼朝と悶着を起こしたこともあり、頼朝との間にはこの頃から亀裂が生じていた。寿永2年(1182年)11月、頼朝の愛妾・亀の前をめぐる政子の報復行動に時政の舅の牧宗親が関わっており、怒った頼朝が宗親に恥辱を与えた。時政は頼朝への抗議として一族と共に伊豆国へ引き上げる騒ぎになっている。焦った頼朝は時政に従わず鎌倉へ残った北条義時に賞を与えている。

文治元年(1185年)の平家滅亡、源義経失脚後、頼朝の命を受け、一千騎を率いて上洛し、守護地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たった(文治の勅許)。また朝廷の人事にも干渉し、頼朝に反抗的な公卿は中枢から遠ざけ、頼朝に理解を示す公卿を中枢に取り立てるよう差配した。ここまでの干渉をしたにもかかわらず、宮中で時政に対する怨嗟の声はさほど上がらなかったという。同年11月25日京都守護となる。建久4年(1193年)5月2日、富士の巻狩りで時政が烏帽子親を務めた曾我兄弟による仇討ち事件が起こっている。

政権争奪 [編集]

正治元年(1199年)、頼朝が死去し、嫡子の源頼家が跡を継ぐと、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に代わる。頼朝は頼家の後ろ盾には比企氏を重用し、北条氏は一御家人に転落する。比企氏の権勢にあせりを募らせた時政は、将軍独裁に不満を持つ御家人たちを招集し、まず将軍側近の梶原景時を排除する(梶原景時の変)。景時の滅亡直後に幕府創設時には源氏一門にしか許されなかった国司である遠江守に任官し、御家人として初の国司となった。さらに3年後、比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放したのち暗殺した(比企能員の変)。

建仁3年(1203年)9月、3代将軍に頼家の弟で時政の娘が乳母を務めた12歳の源実朝を擁立し、自邸に迎えて実権を握った。大江広元と並んで政所別当に就任した66歳の時政は、幼い実朝に代わって自分一人が署名する「下知状」という新形式の文書によって、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。この時期の時政は正式な鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元や十三人の合議制の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示していると考えられている[1]

元久2年(1205年)6月には有力御家人の畠山重忠父子を牧の方との間に生まれた長女の婿である平賀朝雅の讒訴を受けて謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱[2]

失脚・最期 [編集]

元久2年(1205年)閏7月、時政は後妻の牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした[3]。しかし実朝の生母であり時政の娘である政子やその実弟である義時により陰謀は露見し、閏7月19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして時政屋敷にいた実朝を義時屋敷に迎え入れることに成功、しかも時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗に帰した[4]。なお、時政本人は自らの外孫でもある実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であるとされている[5]。結局、幕府内で完全に孤立無援になった時政は19日の内に出家し、翌日には政子や義時らによってほとんど強制的に伊豆国の北条へ隠居させられることになった(牧氏事件[6]

この牧氏事件に関しては『保暦間記』では時政・牧氏による実朝殺害が成功直前だった、『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計としている[7]。また時政は老齢で耄碌して牧氏の主導のままに陰謀に動かされたと『吾妻鏡』には記録がある[8]。 一方で畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時(義時は重忠と義兄弟にあたる)は時政との対立を深めており(乱後に重忠の無罪が明らかになると義時は時政への報復として時政派の稲毛重成榛谷重朝らを誅殺している)[9]、また時政も重忠殺害で重忠に同情が集まって人望を失い義時は時政への警戒を強めており[10]、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったとされている[11]。以後の時政は政治の表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

建保3年(1215年)1月6日、腫物のため北条の地で死去した。享年78。

人物・逸話 [編集]

時政が流人だった頼朝に賭けて京都に反旗を翻したことは、時勢を察知しうる優れた先見性があったからである。名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、頼家暗殺や牧の方事件などもあって晩節を汚したためか、子孫から初代を義時として時政は祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物である。

清廉で知られた時政の孫で第3代執権の北条泰時は頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事あるごとに参詣して歳末の年中行事も欠かさなかったが、時政のみは牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人であるとして仏事を行なわれずに存在を否定されている[12]

邸跡をめぐる動き [編集]

昭和15年(1940年)ごろに一部の研究者によって衣張山のふもとにある遺跡が時政邸跡であると推定され、以降、神奈川県教育委員会が作成した遺跡地図遺跡台帳にも「北条時政邸跡」と記されてきた。しかし鎌倉市平成20年(2008年)後半に発掘調査を実施した結果、時政の時代の遺物は発見されず、最も古い遺構でも13世紀後半のものと推測されたため(時政は13世紀前半に没している)、時政邸跡ではない可能性が濃厚になり、平成21年(2009年)になって「大町釈迦堂口遺跡」と名称が変更された。

上記の調査の結果、この遺跡はおそらく鎌倉時代の寺と推測されており、歴史的資料としての価値はあるとして今後は史跡指定を目指す。

子女 [編集]

出典 [編集]

  1. ^ 参照:湯山賢一「北条時政執権時代の幕府文書 -関東下知状成立小考-」(所収:小川信 編『中世古文書の世界』(吉川弘文館、1991年) ISBN 978-4-642-02635-2
  2. ^ 『北条義時』吉川弘文館。115頁 - 116頁。
  3. ^ 『北条義時』吉川弘文館。118頁。
  4. ^ 『北条義時』吉川弘文館。118頁。
  5. ^ 『北条義時』吉川弘文館。118頁。
  6. ^ 『北条義時』吉川弘文館。118頁・119頁。
  7. ^ 『北条義時』吉川弘文館。120頁。
  8. ^ 『北条義時』吉川弘文館。121頁。
  9. ^ 『北条義時』吉川弘文館。117頁。
  10. ^ 『北条義時』吉川弘文館。117頁。
  11. ^ 『北条義時』吉川弘文館。122頁。
  12. ^ 『北条泰時』吉川弘文館。151頁・152頁。

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]